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13 卒業を待つ間


 クリスマスを前に、戸部百合香は部活の合間を見て、美恵子にそっと声をかけてきた。

「美恵子、もしかして、弘志先輩とつきあってる? 今年の学園祭、弘志先輩と美恵子が一緒に見てたって聞いたんだけど」

 美恵子は面食らった。

「今になってどうしたの? もう学園祭なんて…2ヶ月くらい前じゃない」

「1年生連中も、なんかクリスマスにいろいろ思惑があるみたいで、話し合いみたいなのをしてて、たまたま聞こえたのよ。私、クリスマスに弘志先輩にプレゼントしようかと思ってるんだけど、美恵子とつきあってたら、イミないじゃん?」

 百合香は深刻になるでもなく、さばさばした性格そのままの口調で言った。美恵子は罪悪感に背中を押され、口を開いた。

「ごめん、実は、黙ってたことがあるんだけど…」

 百合香は美恵子をじっと見つめた。

「え…やっぱ、つきあってるの? 黙ってたんだ」

 美恵子は気後れしながらそっと答えた。

「ごめん、どうしても言えない事情があって。あ、でも、違うの、今はつきあってないの」

「今は?」

「うん、ユリに、フェアに行こうって言われたじゃない? あの時ね、私、江藤先輩とつきあってて、しかも別れるところだったの」

「え!」

 百合香は二の句が継げなかった。美恵子は申し訳なさそうに言い訳をした。

「ゴメン、江藤先輩が、つきあってること誰にも言うなって言ってたから…。だから、誰にも言わないで。別れても、やっぱ知られたくないんだと思うんだ」

 百合香は噛みしめるように言った。

「つきあってたの、気づかなかった。でも、もう終わってたんだ…」

 でも、本当はそうではなくて、弘志との微妙な部分がうまく言えなかった美恵子は自分の気持ちだけを説明した。

「…でも、私はまだ、江藤先輩のこと好きなんだ。だから、終わったとは…言えないの」

「そっか」

 百合香は美恵子の気持ちを考えてじっと黙ったあと、

「なんで、別れたのに学園祭、一緒だったの?」

 と美恵子の顔をのぞき込んで訊いた。

「それはね、典ちゃんと、其田くんと、4人で一緒に行ったから。たまたま、典ちゃんと其田くんと見たいものが違って、少しの間別行動しただけ」

「いいねー、典子先輩と仲がいいと」

 美恵子にも、百合香にずっと訊いてみたかったことがあった。

「ねえ、ユリ。夏合宿でアタックするって言ってたのに、今まで何もしなかったの?」

 百合香は苦笑いで答えた。

「わかるでしょ。全部かわされたの」

 美恵子は百合香と同じ苦笑いを浮かべた。

「片思い同士、お互いに頑張ろうね!」

 そう言って練習に戻っていった百合香の笑顔が美恵子の胸に痛かった。でも、弘志と恋を続けていくことが同時に友人にウソをつくことであっても、美恵子の心は静かな意志で満ちていた。


 クリスマスを前に、弘志にはいくつかの打診があったが、今年は受験という格好の言い訳があって断るのは楽だった。弘志自身もクリスマスに美恵子を誘おうか迷っていた。でも、家にいれば典子と一緒だろうから、それも悪くないなと思った。弘志は傲慢な迷いに身をまかせた。

(須藤をとるか、典子をとるか?)

 美恵子も何人かの男の子に予定を訊かれたが、「予定は自分で決めるし、訊かれたくない」とあしらった。こういうことがあるたびに、美恵子は自分の評判を落とすしかなくなってしまう。結局、どう対処しようが、答えが「NO」である以上相手は不満に思う。お声がかからないと嘆くより、いちいち対処を迫られるほうがはるかに面倒だった。

(あらかじめ、私にはその気がないから寄ってこないでって言っておきたい気分)

 美恵子は、弘志が声をかけてくれるのを少し期待したが、むしろ「恋人同士じゃないから」と、わざとクリスマスは別々かもしれないと思った。必死に待っているのは弘志にとって重荷かもしれない。会いたければ自分が誘えばいい。弘志が受験を控えていることを考えて、美恵子はカレンダーを見つめた。

 典子は「今年も何もないよ」とあきらめていたし、良貴も「典子先輩は、受験だし」と思っていた。こちらの2人は、勇気も行動力も、なんにもなかった。聡史もいろいろ考えはしたが、やはり動けなかった。何かあったとすれば、戸部百合香が学校で弘志にプレゼントを渡して「サンキュー」と言われたことだけだった。

 結局、クリスマスイブ、江藤家では弘志と典子が仲良く両親とケーキを食べていた。


 年が明けて3学期になると、3年生は受験のためほとんど登校しなくなる。

「あー、今年はバレンタインの収穫があんまり期待できねーな」

 弘志はそんな嘆きを漏らしていたが、実際にはそうでもなかった。バレンタインデー当日、受験当日でがらがらの教室に念のため行ってみると机の中にしっかりチョコレートが入っていた。2つあって、1つはかなり奥に押し込まれていた。カードを見ると、手前が朝川リエ、奥が戸部百合香だった。

(ははあ、朝川の奴、机の中を見てほかの奴のが入ってたから、押しやったな)

 捨てなかっただけ偉い偉い、と思って弘志はチョコをカバンにしまった。

 弘志が家に帰ると、母・澄子がにこにこして、

「弘くん、宅配便で届いたわよ~」

 と小さな包みを1つ渡してくれた。クラスの目立たない女の子からだった。

「お、アイツも俺狙いだったんだ~。これで3つか。毎度~」

「こら、そんな風に言わないの~」

 澄子は一生懸命怒った表情を作っていたが、息子がもてるのは嬉しいらしかった。

「典子はー」

「典ちゃんは、受験が終わったら学校に寄ってくるって」

「あっそー」

 あとは典子と美恵子だな、と弘志は思った。夜、美恵子が典子を訪ねてくる約束をしていたのは知っていた。当然「典子を訪ねる」だけではないだろう。

(…ところで、典子は、昨日チョコレート作ってたみたいだったけど…)

 残念ながら典子に追っ払われて、あまり状況をよく見られなかった。昨年同様に良貴にあげるかは不明だが、弘志は聡史のことを気にしていた。

 典子は受験が終わると学校に飛んでいって、良貴の教室の廊下に陣取った。そして、ちょっとだけドキドキしながら、でも本命の男の子にチョコレートをあげるにしてはあまりにも気楽に待っていた。

 授業が終わって先生が退出するのを見計らい、開いた後ろのドアから中をのぞくと、良貴が荷物を片付けているのが見えた。ちょっと遠かったので、男の子を一人つかまえて、

「すみませんが、其田くんを呼んでもらっていいですか~?」

 とニコニコして言った。

 典子に頼まれた男の子は、良貴のところまで来ると意味深な目を向けて、

「其田、女の子来てるよ?」

 と言った。良貴がちらりと振り返ると、典子が手を振っていた。良貴はささやかな微笑みをたたえて、

「ああ、体操部の先輩だよ」

 と言った。

「…どうも。受験は、大丈夫なんですか?」

 良貴は廊下に半歩踏み出す位置まで出てくると、このうえなく色気のないあいさつをした。

「受験は、今日一校受けてきたよ~」

「それでこんなとこ来てて、いいんですか? これからもまだあるでしょう?」

「うん。でも、私、これが楽しみなの~」

 典子はカバンから手作りのチョコを取り出した。

「はい。私の好意をこめて!」

 去年と同じように、典子は良貴にチョコレートを渡した。良貴はちょっと遠慮がちに、

「すみません」

 と言って受け取った。背中にささやかな視線を感じるこの瞬間、もしそれが本命の告白ならやや恥ずかしいが、「好意」のチョコレートなら適度にプライドを温めてくれる。

「それじゃあね~」

 良貴に手を振って踵を返し、視線を前に向けた瞬間、典子は、廊下のずっと先に、物陰に隠れるようにして千江美がいるのを見つけてしまった。

(…あ、私がいなくなるの、待ってるんだ)

 位置的には良貴も千江美に気づいたかもしれない。典子は一瞬戸惑ったが、早く立ち去るべきだと判断した。しかし、すぐに後ろから、

「典子先輩」

 と呼び止められた。振り返ると、カバンを持って良貴が追ってきた。

「一緒に帰りませんか」

「え」

 典子は前方の千江美の姿に目を走らせた。千江美はすでに身を隠していた。積極的にチャンスを与えてあげたくはないが、妨害をする権利はないだろう。ここで良貴と一緒に去ってしまうのはさすがに気が引けた。

「あ、でも――」

 戸惑う典子に、良貴はにっこり笑って、

「帰りましょうよ」

 と言い、先に立つようにして歩きだした。典子は仕方なく後を追った。ちらっと振り返ると千江美と目が合った。呆然とした表情が胸に刺さったが、良貴を呼び止めてあげるわけにもいかない。良貴の態度はどことなく、千江美に気付いているように見えた。

(…其田くん、意外と冷たいんだ)

 典子は、自分の方が気を遣っているのが変な気分だった。

 良貴と典子は、高校から駅までの10分あまりの殺風景な道のりを一緒に歩いた。良貴にも千江美から逃げる以外の思惑があった。

(もしこのあとあの化学部の人と待ち合わせるようなら、阻止…はできなくても、少しくらい邪魔は試みよう)

「大変ですね。チョコレート、結構たくさん配るんですか?」

「えー!! 心外だよ! 其田くんと弘志にしかあげないよ!」

 即座に典子が答えてしまったので良貴は拍子抜けした。そして思わず、

「そうなんですか? 本命の人とか、仲のいい人とかには?」

 と言ってしまい、すぐに後悔した。

 典子は目を丸くして叫んだ。

「私、そんなにあっちこっちに撒かないよ~!」

 弘志の一つと、本命の一つだけ。でも良貴に「これが本命だよ」とは言えないので、典子はこんな言い方になった。

 これ以上いろいろ言うのは不自然だなと思って、良貴は訊くのをやめた。そして途中の駅まで一緒に電車に乗り、典子はいつもの駅でごく普通に降りていった。

(…本当に、あの人にはあげないのかな?)

 良貴は時計を見つめていろいろと答えの出ない計算をしてみた。夕方の5時、これから誰かに会おうと思えば会えない時間ではなかった。


 その日の夕方、江藤家を美恵子が訪ねてきた。弘志は「お、来たな」と思った。何食わぬ顔でしばらく机に向かっていると、ノックがあって、

「弘志ー」

 という声がした。

「開いてるよー」

 そう答えると、典子がちょこっと顔を出して、

「美恵ちゃんが、ちょっと用があるって」

 と言って引っ込んだ。典子がいなくなると、美恵子が立っていた。

「入れば?」

 弘志が言うと、美恵子はおずおずと入ってきた。椅子を反転させて美恵子のほうを向き、ゆったりと背もたれに体を預けて弘志は言った。

「早かったな~」

「え、何がですか?」

 何かを警戒するような美恵子の視線を受け、弘志は不審な笑いを浮かべた。

「んー、もうちょっと典子に用があるふりをするかと思った」

 傲慢な言い方に、美恵子は猛然と腹が立った。

「何、言ってるんですか? 元彼女のよしみで義理チョコなんか持ってきたから、さっさとそんな用事は済ませちゃおうと思っただけです」

 弘志は笑いをこらえて、

「なんでもいいよ、もらえるものならもらうよ?」

 と言った。美恵子は肩からかけたカバンをしっかり脇に固めた。

「…もういいですよ、私、自分で食べますから」

「太るぞ~」

「いいんです。もう彼氏も、要らないし」

「怒るなよ。かわりに太ってやるから。おまえが1キロ太るより、俺が1キロ太る方が問題ないんじゃないか?」

「余計なお世話です!!」

 力いっぱい叫ぶと、美恵子は踵を返して勢いよくドアを開け、そのまま出ていった。

「もらってから、からかえばよかったな~」

 弘志は舌を出した。どうせ、美恵子は典子の部屋だ。

「のりこー」

 弘志は典子の部屋のドアを叩いた。

「なにー」

「開けてー」

 美恵子が「ダメ」と言っているのが聞こえた。

「開けてー」

 弘志がもう一度言うと、典子がほんの少しだけドアを開けた。

「何の用~?」

「須藤のチョコレート、3人で食おうぜ」

「へ?」

 典子が美恵子を振り返ると、美恵子はカバンを抱えて弘志をにらんでいた。

「あれ? 美恵ちゃん、そこにまだ持ってるの?」

「いいの、持って帰る」

「どうして~?」

「江藤先輩が、ムカつくから」

 典子は半目で弘志を見上げた。

「弘志、なんか失礼なこと言ったんでしょ」

「俺はいつも、こんなもんだよ」

「…存在自体が失礼なのかな…」

「おまえには、優しいだろ」

 弘志が典子の頭をよしよしと撫でると、美恵子は「帰ります」と立ち上がった。

「美恵ちゃん、落ち着いて~」

「典ちゃんは悪くないのよ、気にしないで」

 美恵子はわざとらしい笑顔を典子に向けてからドアのところにつかつかと来て、

「江藤先輩、邪魔です。私、帰るんで」

 と弘志を押しのけ、出て行った。典子は弘志に糾弾のまなざしを向けた。

「弘志ー」

「わーかったよ」

 弘志は苦笑しつつ玄関まで美恵子を追った。

「須藤、送るよ」

「結構です」

「もう、夜遅いだろ」

 時計はまだ、19時前を指している。

「来たのが夜遅かったですからね。それに、長居しちゃったし」

 美恵子が来てからまだ30分とたっていない。弘志は、美恵子が自分に向ける当てこすりも楽しかった。そのまま美恵子のあとについて玄関を出た。

「ついてこないでください。別に、普通に歩いて帰れますから」

「なんだ、チョコ渡すタイミング作ってやろうかと思ったのに」

 美恵子はがっくりと力が抜けた。もはや怒る気にもなれなかった。

「…いいじゃないですか、私のなんか。どうせ、今年もいっぱいもらったんでしょ?」

 美恵子は歩き出した。弘志は勝手に横に並んで歩きながら答えた。

「まーね、少ないけど…3つ」

「十分でしょ」

「まだ、大切なのをもらってない」

 美恵子が「騙されるもんか」と思って黙っていると、弘志は、

「典子が、まだなんだよな」

 としれっとした顔で言った。

(どうしてこの人、他人の神経の「逆撫でポイント」を知ってるのかしら!)

 自分のセリフが見事美恵子の逆鱗に触れたことを見て取って、弘志は大笑いした。

「何がおかしいんですか?」

 美恵子がひどくむくれていると、弘志は言葉の調子を変えて、

「じゃあ、俺が今日もらった3つと、おまえのを交換しない?」

 と訊いてきた。

「え!」

「やるよ、3つ。そのかわり、おまえのをちょうだい」

「…何言ってるんですか。くれた人に失礼でしょ」

 美恵子は力なく言った。頑張ってはみたが、声の力は戻ってこなかった。

「いいよ、そんなの。くれって頼んだわけじゃねーもん」

「だからって…」

 美恵子は弘志をにらんだ。弘志は美恵子の頭に無造作に掌を載せて、

「おまえにはこうやって頼んでるんだから、さ。そうむくれるなって」

 と言った。美恵子はもっと腹が立った。だって、そんな風に言われたら、どうしたってカバンを開けずにはいられない。

「そこまで言うなら、仕方ないですね」

 ちょっと偉そうな態度で、でも弘志の目を見ることもできずに、美恵子はカバンから綺麗な包みを出した。受け取って、その包みの感じで手作りだと確認してから、弘志は、

「サンキュ。去年よりうまくできたか、見といてやるよ」

 と言った。

(悪態をつかないで、しゃべれないのかしら)

 美恵子は心の中で文句を言ったが、目と口の端は笑っていた。

 二人は美恵子の家の前まで歩き、門の前で、弘志は神妙な顔で、

「これ、ありがとな」

 と言って美恵子のチョコを額のところに掲げた。美恵子は慌てて答えた。

「いえ、義理チョコですから」

「大事に食うよ。じゃーな」

 弘志はそう言って、今来た道を戻っていった。美恵子はその背中にうっとりした目を向けてしばらく立ち尽くしたが、我に返って慌てて首を振った。

(ダメよ、どうせそういう態度も、「手」なんだから!)

 美恵子は弘志の背中に思いっきりアカンベをした。


 美恵子が江藤家を訪ねたのと同じ頃、其田家にも訪問者があった。玄関のチャイムが鳴って、しばらくすると母親が良貴の部屋をノックした。

「良貴くん、体操部の人が来てるけど?」

「あ、そう」

 その時良貴は、典子からもらったチョコに入っていたカードを複雑な気持ちで眺めていたところだった。カードを隠すように机の中に入れてから、誰だろうと思って玄関に出ると、千江美が立っていた。良貴は、家族の目が気になったのと、多分煮詰まった話になるだろうから、外に出た。

 良貴は千江美と並んで歩きながら訊いた。

「何?」

「あの、今日はそういう日ですから…」

 話は案外早かった。千江美は立ち止まり、持っていた紙袋を差し出した。

「これ、受け取ってください」

 どうやらケーキらしかった。良貴は千江美の手元を見ながら躊躇した。千江美はおとなしく返事を待っていた。

「…あの、さ。…これって、どうもありがとうって言って受け取って、それでいいものなのかな」

 千江美は差し出していた紙袋を一度下げた。

「私は、それでいいんですけど」

 良貴は黙っていたが、本当のところはこういう状況に慣れていなかったので、それを普通に受け取っていいのか、次に何を言っていいのか、皆目見当がつかなかった。

 千江美はしばらく黙って考え込み、

「…ホントは、できれば返事を聞きたくないんです」

 と言った。

 それから無言で歩いて、駅前の公園に着いた。明るくて、すぐそこに交番が見える。近所で、夜話しこんでいても唯一安心できるところだった。

 困ったな、と良貴は思った。千江美の言いたいことはわかっている。気持ちには応えられない。だからあまりいい顔はできない。でも、決定的なセリフを言ってくれないと、はっきり断ることはできない。

 良貴が黙っていると、千江美が深い息をして思いつめたように言った。

「其田先輩、これ、バレンタインのチョコなんですけど…。受け取ってはもらえないんですか?」

「…受け取っても、いいけど…ただ、それが、どういう意味なのかなって思って」

「どういう意味って…、…」

 千江美は迷ったが、良貴がこの状況に確証を持てずにいることを察して、覚悟を決めた。

「あの…もう、多分、うすうす気がついてると思いますけど…。私、先輩のこと、好きなんです」

 はっきり言われると、良貴の胸も甘い衝撃を受けた。そして肩の荷が下りた。

「返事は、だいたいわかってるんですけど…」

 千江美は途切れ途切れに言った。

「…ダメなんですよね?」

 良貴はすぐに「そうだ」とは言えなかった。でもこの場合、黙っていても同じだった。

「黙ってるってことは、やっぱりそうなんですね」

 千江美は、最後の1%の希望として、良貴の「そうじゃない」という言葉を待った。良貴は丁寧に言葉を選んで、なんとかやっと返事をした。

「…ゴメン、いい答えは、返せそうにないな…」

 はじめて遭遇するこんな事態は、相当のプレッシャーだった。良貴は心底、弘志をすごいと思った。

 気まずい沈黙が2人を包み、良貴は不届きにも、千江美が先に「帰る」と言い出してほしいと考えてしまった。さらに空気が重くなった頃、千江美が口を開いた。

「あの、訊いてもいいですか?」

「何?」

 千江美にとって、その先を声にするのには勇気が要った。良貴はじっと待った。

「…好きな人、いるんですか?」

 良貴は息をのんだ。訊かれてしかるべき問いなのに、準備を怠っていた。「早く答えないと」と焦る気持ちばかりがつのって、なかなか適切な言葉を探せなかった。

(いるのにいないって言うのも卑怯な気がするし、いるって言ったら誰だとか訊かれるかもしれないし、典子先輩のことは絶対に言えないし…)

 よっぽど「いない」と言って済ませたかったが、それは千江美に期待をもたせることになるだろう。良貴が戸惑っている間に、千江美は少しずつ落ち着いて、だんだんサバサバした気分になってきた。だってもう、泣いても、わめいても、事実は変わらない。

「じゃあ、質問を変えます」

 良貴が答えないので、千江美は話を進めた。良貴は一瞬だけ「助かった」と思った。

「其田先輩って、典子先輩のこと好きなんですか?」

「え」

 そう言ったきり、良貴の頭はパニックを起こした。

(それを今答えて、典子先輩に知られたら困る。でも「何とも思ってない」と嘘をつくのは卑怯な気がするし、後で本当のことを知ったら俵田さんは傷つくだろうし…)

 良貴の頭は、「正直に答える」「嘘をつく」「何も答えない」の3つの選択肢が延々回りつづける壊れたルーレットのようになった。でも、返事に窮するその気持ちを、千江美は痛いほど察してしまった。

「やっぱり、そうなんですね」

「え」

「だって、答えられないってことは、違わないってことじゃないんですか?」

「そうとは限らないと思うけど…」

「だったら、典子先輩のこと、好きじゃないんですか?」

 良貴は完全に詰んでしまった。千江美はちょっとだけ仕返しした気分になれた。

 さらにだいぶたってから、良貴はのろのろと口を開いた。

「…典子先輩には言わないんでほしいんだけど…。……僕は、典子先輩が好きだよ」

 はじめて口にする言葉だった。気が遠くなるほど重くて、世界が変わっていくような言葉だった。世界の前提条件が崩れてしまって、元には戻らないような気がした。

 千江美は絶望感に身をゆだね、淡々とした声で訊いた。

「…そうですか。…それって、やっぱり、典子先輩がちやほやしてくれるからですか?」

 良貴は少し考えて、

「それは、あるかもしれない」

 と答えた。ただ、きっかけはそうだったかもしれないが、それだけじゃないとも思った。

「ずるい。私だって、一生懸命気持ち、伝えてたのに。典子先輩の方が私よりも早く其田先輩に出会ってたんだもん。ハンデが大きすぎますよ」

 千江美はわざとふうっとため息をつき、それから良貴をのぞき込むようにして、

「今日、典子先輩、其田先輩にチョコレート、あげてましたよね」

 と訊いた。

「…ああ、もらったけど…」

「もしかして、もう…お二人って…」

 良貴は苦笑した。

「カードに『これからも体操部をよろしくね、心からの愛をこめて!』って書いてあったよ。ほかには、何にもなし」

 千江美は一生懸命考えたが、その言葉はやっぱり愛の告白には思えなかった。

 良貴はもう一度念を押した。

「あのさ、ホントに、悪いと思うんだけど…、典子先輩には、僕の気持ち、言わないでほしいんだ…。他の人にも。…他の人から、典子先輩に伝わったら、困るから…」

 千江美は目を伏せて笑って、

「どうしよっかなー」

 とイジワルな口調で言った。それからしばらく黙って、

「…大丈夫ですよ。それで先輩と典子先輩の橋渡ししちゃったら、嫌ですから」

 と言った。良貴はその論理に納得して、きっと言わないだろうとホッとした。

「…もし、典子先輩に失恋したら…」

 千江美の声がしたが、小さすぎて良貴の耳には届かなかった。

「え?」

 良貴に訊き返され、千江美はひっそりと笑った。

「なんでもないです。でも、あの、これだけは…受け取ってもらえないですか?」

 千江美は悲しい笑顔をたたえてケーキの入った紙袋を良貴に差し出した。

「でも、悪いから…」

「じゃあ先輩は、私が家に帰って泣きながらこのケーキを全部捨てるほうがいいと思いますか?」

「でも、もらうだけっていうのも…」

「つっかえされるのが一番辛いんですよ。答えがNOでもいいから、もらってください」

「…そうなんだ、ゴメン…」

 良貴はようやく紙袋を受け取った。

 それからまた静かな沈黙があって、千江美は、

「…あの、帰りますね」

 と言った。良貴は言葉もなく、軽くうなずいた。

「今日は、すみませんでした。それじゃ…」

 まだ何か言いたそうなそぶりを見せながら、千江美は良貴に背を向けた。

「うん、それじゃあ…」

 良貴が背中に声をかけても、千江美は振り向かなかった。

 千江美の姿が改札を抜けて駅の階段に消えていくまで、良貴は黙って見送った。典子への恋心をはじめて口にした絶望感に似た覚悟が、めまいのようにぐらぐらと良貴の中を巡っていた。


 バレンタインデーの翌日、肩を落とした聡史がいた。

(どーせ俺は、「いい友達」やから…)

 実は典子の方も自分を好きだったらとか、そうでなくても義理チョコという名でちょっとした好意がこもっているチョコをもらえないかなとか、そりゃあ、いろいろ期待はする。

(あいつは、もらったんかな)

 良貴のことを考えるとますます肩が落ちた。

(あーもう嫌。もう俺は、友達には戻れん)

 聡史は、出会ったときから典子に対して異性としての興味を持っていた。でも、急に距離を詰めようとした聡史に、典子はやや警戒気味の態度を見せた。親しくなるためにことさら「友達」という言葉を連呼してチャンスを待っていたら、典子は完全に「友達」という安心感にひたってしまった。

『彼氏とか、おらんの?』

『彼氏がおったら、俺も気を遣わんとな。男の友達は気になるやろから』

 そんな言葉は探りを入れていただけだ。ずっとタイミングを待っていた。けれど典子があまりにも友達然としていて、そして楽しそうだったので、友達のままでいようかとも考えた。本当に友達でいられたら、その方が幸せかもしれないとも思った。

(でも、もう卒業やし。…俺は2年ちかく、何もせずに損してきた)

 実際に自分は典子のいい友達だったはずだ、と聡史は思った。本当は思惑があったにしても、友達として、ちゃんといい友情を築いてきた。

(卒業したら…言うか。ダメでも、…そしてそのあと、もう友達ではいられんとしても)

 これから何年も友達でなんていられない。典子に彼氏ができた時、その報告を笑顔で聞くことはできそうにない。聡史の決意は固まっていた。とにかく、動くのは目の前の受験を片付けてからだった。


 三月になった。受験はすべて終わり、合格発表を待つばかりになった。弘志と典子にはまだ合格通知が一通も来ていなかった。

「全滅か?」

「まあ、ウチの高校、浪人多いからね」

 食卓で兄妹がそんな会話をしていると、母の澄子が嘆いた。

「やめてよ~、双子って、お金かかるのよ~。高校は都立に行ってくれたからよかったけど、2人揃って予備校に通うなんて、とてもお金出せないわよ~」

「大学だって、金かかるゼ?」

「大学は、奨学金があるもの。大人になったら自分で返してね」

「うそー」

「マジー」

 弘志も典子も、第1希望は和佐田大学だった。弘志は日程の許す限り和佐田のあちこちの学部を受けていた。典子はあちこちの大学の日本文学科・国文学科と史学系の学科を選んで受験していた。和佐田では第一文学部だけを受けた。

 ある日、弘志には合格通知が来た。

「おめでとー、弘志」

「おめでとーじゃねーよ、おまえも一緒に大学入るぞ~」

 でも結局、典子には合格通知が来なかった。

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