12 秋から冬
恋愛ばかりしているわけにもいかず、弘志も、典子も、受験勉強に追われていた。弘志と美恵子はお互いを気にしつつ動かなかった。典子は千江美を気にする必要があまりなくなり、気が楽になっていた。良貴と、それから聡史は少し物憂い秋を過ごしていた。
千江美とリエが学園祭で入手した情報は、1年生の女の子たちの間で色々検討されたが、憶測以上の結果を生まなかった。
冬が近づいてきた頃、弘志は美恵子を映画に誘った。弘志は例によって当たり前のような声で誘ったが、本当はOKしてもらえるかわからず、ドキドキしていた。美恵子もよっぽど返事を渋ってやろうかと思ったが、「じゃあ、いいや」と言われてしまうのが怖くてすぐにOKした。
2人は現在の関係をごまかすように、自然なふりをして新宿の街を一緒に歩いた。
「今日はナンパされないで待ってたんだな、偉い、偉い」
「…それ、すごい昔じゃないですか。あの時は、私も若かったんですよ」
「そうだよな~。お互いに、年とったもんな~」
「そうですね、玉手箱を開けてしまったみたいに年をとりましたから」
弘志は大ウケした。美恵子は嫌みのつもりだったので釈然としなかった。
「おまえは、意地張ってる方が可愛いな」
「え?」
美恵子は弘志からそんなセリフが出たのでびっくりした。ドギマギしながら必死ですました顔を作って、
「私は、本当はもっと素直です」
と言い返した。
「うん、素直だよ、わかるよ。顔に出てるからな」
「そこまで読まれることを予測して、偽装してるんです」
美恵子は、本当に自分が意地っ張りになったと思った。でも不思議と、この方が楽だった。
「俺、この映画が見たいんだけど、いい?」
「だって、そのために私を呼び出したんじゃなかったんですか?」
「いや、おまえにも見たいのがあるかと思ってさ」
「そしたら、次は自分で誰かを誘います」
美恵子はことさら「誰かを」にアクセントをつけて言ったつもりだったが、弘志は、
「ま、そーだな」
と流してしまった。美恵子は腹を立てたかったが、
(しょうがないか、そういう関係じゃないんだもん)
と思った。なんだかそう思えるだけで楽だった。
(結局私たちは、2人とも恋愛から逃げているのかもしれないけど…)
でも、逃げてはいけないなんて誰が決めたんだろう。無理して正面からぶつかって、お互いを見失って傷つけ合うよりも、ずっといい関係が築けるような気がした。
映画は人気アクションシリーズの最新作で、いかにも男の子が好んで見そうな内容だった。暗い映画館で爆発光や閃光を浴びながら、美恵子はそっと弘志のほうを見た。
江藤弘志。子供っぽいつくりなのに、なぜか女性を魅きつける顔。目なんか典子とそっくりなのに、フェロモンの出方が全然違う。素直な少年から、視線で語るずるい男まで、たくさんの表情を秘めた瞳。人なつこくて思わせぶりな視線。でも、絶対に嘘つきではなくて、だから憎めない。
美恵子は中学生の時からこの瞳に翻弄されてきた。あの頃、反発しながらも実は男の子が気になっている年頃の中学生の女の子たちには、典子のナイトを気取っている弘志はとてもカッコよく見えた。校庭で男の子の投げたボールが女の子に当たって「謝りなさいよ」「そっちが悪いんだ」というケンカになったとき、弘志はボールを投げた男の子にかわって女の子たちに謝った。それは多分に女子の中で弘志の株を上げたが、美恵子は今はそれを弘志のシスター・コンプレックスの一面だと思っている。弘志には、ボールが当たって泣いている女の子を典子に置き換えて考えることができた、それだけのことだ。
弘志は中学の時から女の子に人気があった。好意をもってくれる女の子たちに折り合いをつけるために身につけたのが、今の弘志のずるい態度なのだろうと思う。一人、典子だけに優しくして、他の子に冷たいと、女の子たちの矛先が典子に向いてしまうかもしれない。典子を守るために、弘志は誰にでも優しくするしかなかった…そんな風にも思える。
結局、弘志はずっと典子のために生きてきたんじゃないだろうか。
(…もしかしたら、江藤先輩は本当は、とても子供なのかもしれない)
美恵子はスクリーンを見つめている弘志の横顔を見て思った。弘志は誰から見ても頼りになるお兄さんで、典子の兄貴であると同時に、体操部の後輩たちの兄貴分でもあった。でも、美恵子には今、弘志の別の側面が見えていた。
(…典ちゃんの存在を引いたら、弘志先輩は、どういう人になるんだろう)
美恵子は手に汗握るハードアクションの映画を、考え事をしながら見ていた。
映画館を出ると、早速弘志が、
「俺の顔にも映画は映ってたか?」
と訊いてきた。
「ええ、映ってました」
美恵子は涼しい顔で言った。
「何考えてたんだ?」
「ヒーローの、人生について」
美恵子はそう答えてくすくすと笑った。自分の言い方が可笑しかった。
「変な言い方覚えたな、おまえ」
「先輩のうさんくさい言い方がうつったんですよ」
「俺は今、おまえを飼ってるつもりはないけどな?」
「飼い主に似る、って言いたいんですか? まるで、昔は飼い主だったみたい。私にはそんな記憶、ないんですけど」
「…おまえ、ひねくれたな~。昔は、一途でひたむきな、おとなしいいい子だったのに」
「失恋して、本当の自分に出会ったってところですか、ね」
「俺は、失ってからやっと、“素直で優しくてたおやかな須藤美恵子”という生き物が、いかに貴重な存在だったかわかったよ。そうかあ、もういないのかあ、惜しまれるなあ…」
「残念でしたね。自分が壊しちゃったんだから」
「あのままいけば、いずれは正体を現してたんだろ」
「そんなことないですよ。私は、本当は今だってあの頃と同じ、一途でひたむきです」
二人の間に甘い気まずさが漂った。でも、それを慌ててつくろう必要はなかった。
弘志は唐突に時計を見て、
「帰る?」
と美恵子に訊いた。まだまだ空は明るい。美恵子は驚き、弘志を見上げて、
「今、何時ですか?」
と訊いた。弘志が、
「もうすぐ4時」
と答えると、美恵子は冷たく、
「じゃあ、帰る時間かもしれませんね」
と言った。弘志はしばらく考え込んで、
「たまには、負けてやるよ。どこ行く?」
と言った。
「私、どこか行きたいなんて、言ってないですよ」
「俺も、おまえがどこか行きたいって言ったなんて、言ってないよ」
「じゃあ、帰ったっていいじゃないですか」
「女は素直な方が可愛いって。ここは俺の方が折れてやるから」
「え! 意地張ってる方が可愛いって、さっき言ったじゃないですか!」
「…ははあ、それで一生懸命意地張ってるわけだ。わかったよ、つきあってやるよ」
美恵子は返す言葉が見つからず、口をぱくぱくさせた。弘志は小さく笑った。
「帰るなんて言うなよ。時間あるんだろ」
「…あります」
仕方なく美恵子が素直に答えると、弘志は胸に甘い痛みを感じた。
(…意地を張ってても、素直でも…どっちでもかまわない)
弘志は美恵子の肩をぎゅっと抱き寄せたいと思った。切なくて、苦しい気持ちに満たされ、かわりに自分の掌をぎゅっと握りしめた。
(俺も、そういう年頃になったってことか)
他人事のように自分を嘲笑して、弘志は美恵子に、
「お茶くらい、飲んでこーぜ」
と言った。
「同伴喫茶ですか?」
「おまえ、うかつなこと言うと、ホントに変なとこ連れ込むぞ」
「それでクレープ食べるんだったら、別に構わないですよ」
「わかった、じゃあ覚悟しろ」
弘志と美恵子は笑いながら懐かしい喫茶店まで歩いた。店は変わらないたたずまいで、「男性のお客様は、女性同伴でお願いいたします」という看板で迎えてくれた。
「なあ、女の子が喜ぶような、いい男は入ってもいいってわけにはいかないのかね?」
「え! 入れると思ってるんですか」
「おまえは、入れないと思うか?」
「…顔だけだったら、五分五分…かも」
「えー! そうか? 俺、ちょっと自信あったんだけど」
「…先輩、自分で言うと、嫌味です」
「それがギャグじゃなくて嫌味になるってことは、俺もそれなりなんだな」
「傲慢。…そういうところでマイナス10点。入店お断り」
「そしたら、おまえが一緒に入ってくれればいいや」
美恵子がそんな言い方にドキッとした途端、弘志が店のドアを開けた。美恵子が慌てて追って入ると、弘志は店員に指を2本立てて見せ、それから美恵子を振り返ってニカッと笑った。2本の指は、美恵子へのブイサインに変わった。
それからのんびりとお茶を飲み、帰りは電車を同じ駅で降りて、近所の分かれ道まで一緒に歩いた。
「須藤、ヒマだったら、またつきあえよ」
さすがにちょっと緊張を隠しきれない声で、弘志はぽつりと言った。
「そうですね、ヒマだったら」
美恵子もつられて声が緊張した。でも、なぜか、弘志の気持ちはわかっているような気がしていた。
「…全然関係ない話だけど、俺、しばらく男女交際とか、する気にならないんだよね」
弘志は、恋愛ではない形で美恵子と今のこんな微妙な関係を続けたくて言った。美恵子は弘志にわからないようにかすかに笑った。
(そんなこと、わかってる)
「そうでしょうね。先輩、恋愛は向いてないですよ」
「うん、俺もそう思う」
それから、弘志はもうひと言、
「相手がどこの誰でも、しばらく、つきあうとかそういうの、ないと思うよ」
と言った。特別な相手は美恵子一人だという、弘志なりの告白だった。そこまではわからなかったが、美恵子は「他に彼女ができることはない」という意味は汲み取った。
「そうですか。世間の女の子のためには、その方がいいかもしれませんね」
「うん、俺もそう思う。俺が誰か一人のものになったら、泣く子が大勢いるからな」
「一番泣くのは、その誰か一人の女の子だと思いますけどね」
「経験者は語る、か」
当人の無神経すぎるセリフに、美恵子は心からびっくりした。
「そんなこと、自分で言わないでください! もう、本当に腹が立つ」
弘志は笑って、それからさりげなく、
「おまえは、彼氏はつくらないの?」
と訊いた。弘志の気持ちが、一瞬だけ美恵子に届いた。
「…私も、しばらく恋愛はしないと思います」
美恵子は静かに言った。弘志のそれが恋心かどうかはわからなかったが、自分が恋をするかどうかを気にしてくれることは嬉しかった。
「そっか」
弘志はあからさまにホッとした声で言った。たまには本音を素直に表したかった。伝えないつもりはない。でも伝えるわけではない。だから、それだけ。
分かれ道に来て、弘志は思い出したように、
「あ、そうだ、忘れ物を返さないと」
と言った。
「え、忘れ物?」
「ああ。つきあってたときに、そのまんまになってたのが、たしか、ここに…」
弘志はシャツの胸ポケットをあさった。
「あれ、こっちだったかな」
腰のポケットも空だった。
「んー、忘れてきたかな?」
美恵子がぼうっと見ていると、弘志はシャツの中に着ていたTシャツの胸元をさぐって、
「あった」
と言って近づいてきた。そして、勢いよく胸元から手を出して、美恵子の目のすぐ前をゲンコツでさっとすくった。美恵子は反射的に目を閉じて、すこし背をそらすようにして肩をすくめて避けた。ほんの一瞬で目を開けると、弘志の顔が目の前にあった。
「目を開けるの、早ぇよ」
美恵子は慌てて目を閉じた。弘志の唇が美恵子の唇をついばむように触れていった。
「これ、約束してたろ。今度なーって」
弘志の声に、美恵子はうつむいたまま小さくうなずいた。
「もう、返し忘れたものはないからな~。次はしてやんないぞ、期待すんなよ」
美恵子は一生懸命、2度うなずいた。とても言い返す余裕なんかなかった。
「じゃあ、またな」
弘志は背中に余裕を装って、ゆっくり自分の方向へ歩いて行った。美恵子はその背中を少しの間見送って、やっとの思いで帰り道を歩き始めた。「またな」という弘志の声が幸せを告げる鐘のように響いて、いつまでも耳に残っていた。
美恵子は、やっと典子に話をする気になった。学校で教室を訪ね、
「典ちゃーん、今日遊びに行ってもいーい?」
とアポを取り、子供の頃からの気安さで受験勉強中の典子の家を訪れた。
「ごめんねー、邪魔かなーとは思ったんだけどー」
「え、いーよ、遊ばないと腐っちゃうもん」
典子の部屋で、美恵子が持ってきたケーキでお茶にした。
「あー、受験勉強はもう嫌だー」
「えー、だってまだ11月だよー?」
「ホントだよねー、いいよー、もう浪人するよー」
「そしたら、来年1年間またこうやって勉強するんだよ~?」
「うーん、今、この苦痛から逃れられれば、なんだっていいよー」
典子はすでに腐っていた。
美恵子はタイミングを見計らって、
「あのねー、実は、典ちゃんに隠してたことがあるの」
と切り出した。
「えっ! 何。なんか重大発言なの?」
典子はいろんなことを考えてビクビクした。こういうとき、むやみに自分の好きな人のことが気になる。典子も何かしら良貴に関係ある話かとかんぐったりした。
美恵子はケーキのクリームをぐりぐり崩しながら、
「うーん、実はね~、私と江藤先輩、とっくに別れてるの~」
と照れくさそうに言った。
「えー!!」
典子はものすごくびっくりした。
「別れたって、何? しかも、とっくって、いつ?」
美恵子は、話の内容の割には嬉しそうな顔をして
「実はね~、夏合宿~」
と答えた。典子は天井を見上げながら、夏合宿までの記憶を遡った。
「…てことは、こないだの学園祭は?」
「うん、他人だった」
美恵子は満面の笑みで言い切った。典子は思考回路が停止して、「えーと」と言ったきり言葉が見つからなくなってしまった。
「ゴメンね典ちゃん、私は私で、結構辛かったの~。とても言う気になれなくてさ~」
とにかく、親友ではあっても、弘志の身内であり想い人でもある典子は微妙な存在で、素直に言えないこともあった。弘志と別れたことを伝えたのは良貴だけだった。良貴は弘志の方の友人だったし、余計なことを言わなそうだったし、他の人に吹聴したりすることもなさそうで、苦しい胸のうちをほんの少しこぼすにはちょうどよかった。
「ずっと黙ってて、なんで今日、突然言う気になったの?」
「学園祭見ててわかったと思うけど、私と江藤先輩には新しい関係ができたから…」
「…? 美恵ちゃん、私にはわからなかったよ…。全然、話が見えない」
「そうねー。ゴメンね~。うーん。わかんないよね。ゴメン」
美恵子はむやみに何度も謝った。そして、
「一番近い他人」
美恵子は神妙な顔でそんな風に言って、途端に猛烈に照れた。
「いやだ、江藤先輩の傲慢がうつっちゃったかな、もう、恥ずかし~」
「美恵ちゃん、キャラクター変わってるよ」
「そんなことないよ。私、今、人生最高にハッピーなんだもん、ちょっとくらいハメ外したっていいでしょう?」
美恵子は側にあった典子の枕を抱えてさんざん一人で盛り上がったあと、
「だからね、私と江藤先輩は、別れてやっといい関係になれたのよ」
と言った。典子は一生懸命理解しようとしたが、まだまだ難しかった。
「彼氏とか、彼女とかじゃないけど、これからもデートとか、したりすると思うよ~。それで、お互いに、他に好きな人は作らないの」
「はあ。…だったら、別れなきゃよかったんじゃないの?」
「うーん、それはちがうんだよね」
「…それで、よりを戻したとか、そういうのでもないんだ」
「うーん、近いのが、『友達以上、恋人未満』かな?」
「『友達以上、恋人未満』っていうのも、よくわからないなー」
「一番ドキドキする、恋愛の究極の関係かな。特別な人だけど、確実な関係じゃないの。会いたければ会うの。つきあってるとか、つきあってないとか、それは決めないの」
難しかったので、典子はとりあえず「両想いだけど、彼氏と彼女ではない」と認識した。でもそれは、恋人同士だという認識と大した違いはなかった。
美恵子は典子の枕をベッドに戻し、急に正座して神妙になった。
「ところで、典ちゃん? あのね、私の打ち明け話のついでってわけじゃないんだけど」
自分の話をする時よりずっと真剣な顔で、美恵子は言った。
「…典ちゃんって、其田くんのことどう思ってるの?」
典子の心臓を、時速160キロのデッドボールが直撃した。
「はいっ? なに言ってるの? 美恵ちゃん」
典子は、自分の顔がひどく動揺していることがわかっても、それをつくろう余裕がなかった。
「ねえ、ホントは好きなんでしょ?」
「え、絶対ない、絶対ないよ!」
美恵子は悲しそうな目で典子を見つめた。典子は自分の周りから酸素がなくなったかと思うくらい苦しくなった。
「大好きは大好きだけど、好きとは違うよ」
「ホントはずっと好きだったんでしょ? 2年生のときから。私、ずっと気付いてたよ」
表情と声で、美恵子が「かんぐっている」のでも「カマをかけている」のでもなく、「知っている」のだということはわかった。典子は白旗を揚げざるを得なかった。
「…絶対に誰にもわからないようにしようと思ってたのに」
「うん、でも、そう思って見てれば、すぐにわかるよ」
美恵子の言葉に、典子は凍りついた。
「え! じゃあ、実は、みんなもわかってるかな」
美恵子はちょっと考えて、
「それが、気付いてないみたいだから不思議」
と言った。典子は胸をなでおろした。
「そういう意味では、飯田くんに感謝だよね。体操部では、典ちゃんって、飯田くんとつきあってることになってるから」
「えー!」
「みんな、陰ではカレシだと思ってるよ。でもいいじゃない、そのままにしておいたほうが便利だから」
「べんり、って~」
「飯田くんの話がなかったら、典ちゃん、もっと面倒なことになってると思うな。言わせておきなよ」
そして、美恵子はじっと典子を見て、
「ねえ典ちゃん、其田くんと、どうするの?」
と訊いた。
「え、全然、可能性なさそうだし…」
典子はいじけたようにケーキの紙をフォークでつついた。
「私、わかんないと思うんだけどなあ。其田くんって、他の女の子にはすっごい距離とってるのに、典ちゃんにだけ親切だよ」
「それは、私が弘志の妹だからでしょ。…いいの、今は、受験! 他のことは、いいよ」
(…時々、其田くん変だな、って思うんだけどな)
美恵子は少しだけ良貴の気持ちに気付いていた。でもそれは、自分が典子をひいき目に見ているせいなのかもしれないと思い、とりあえずは保留にした。
「典子ー、デンワー」
不愉快そうな弘志の態度で、典子はすぐに聡史からだとわかった。典子は携帯電話を持たないので、いつも家の電話を取り次いでもらう。部屋のインターホンを切ると、典子は自分の部屋にある子機で電話を取った。
「はーい、電話かわりましたー」
「よー、はかどってるかー」
「もう、モーレツに、はかどってるよー」
「そっかー。東大の門は、見えてきたか~」
「もう通り過ぎちゃって、見えないよ~」
「そうか、周回遅れか~」
そこで二人で笑った。「で、何の用」と典子が話を先に進めた。
「俺も、もう、勉強はウンザリや。どっか遊びに行かん?」
「行きたいー」
「どこ、行く~」
「活字のないとこ~」
「ああ、エエな~。数字も、文字もないとこに行きたいな~。あ、でも、…おまえ、彼氏は相変わらずおらんのか~?」
「相変わらずは、余計。でも、なんでそんな話になるの」
「余計やないワ。相変わったか相変わっとらんか、言え。彼氏おったら、一緒にどっか行って誤解されて、痴情のもつれで刺されるかもしれんからな。おまえも、学園祭を二人で歩く相手くらいは、おるようやし」
「お年頃だし、私ももつれるような痴情がほしいなあ。早く、飯田くんを刺してくれる人を見つけないとなあ」
典子は、良貴に向きそうになった話をさっさと流し、笑ってみせた。
「物騒なこと、言うな」
聡史も笑った。
「じゃあ、今度の土曜、学校終わったら逃避行でもするか~?」
「活字のない国へ~」
「そう、憂いのない世界へ」
電話を切ると、聡史は「とことん鈍感なやっちゃな」と思った。典子は、良貴への気持ちが聡史にバレたのではないかと肝を冷やしていた。
土曜日、聡史と典子は学校の正門で待ち合わせた。聡史が先に来て待っていると、良貴が練習前に昼食を買いに通りかかった。両者はお互いに気づいたそぶりを見せずにいたが、気づかないはずなどなかった。
(…誰を待ってるんだろう?)
良貴は聡史の行方が気になったので、正門が見える位置にある弁当屋に入った。しばらくすると聡史と典子が一緒に出てくるのが見えた。
(…もしかしてもう、友達じゃなくなってたりするのかな…)
気もそぞろで弁当を受け取り、良貴は体操部がいる体育館そばの教室に戻った。弘志が来ていた。
「あれ、弘志先輩。久しぶりですね」
「おー、其田、勉強替わってくれよ~」
「嫌です、僕は来年同じ目にあうんですから」
「おまえ、真面目だから2年やってもいいだろ」
「僕だって、勉強は嫌いですよ」
良貴は弘志の隣に座って弁当を食べ始めた。
「どうしたんですか? 今日は」
「あー、家に帰っても、誰もいないしな~。飯だけ、ここで食って帰ろうかと思って」
「…典子先輩は? そういえば、さっき正門で見ましたけど…」
良貴は声色に何も出ないように気をつけて、慎重に訊いた。弘志はほとんど空になった弁当箱をこれ以上にないくらい真剣に見つめて、
「花火野郎と、ハイキングだとよ」
と吐き捨てるように言った。
「2人でですか?」
良貴は思わず少し声が大きくなった。弘志はふーと大きな息をついた。
「2人でだろ。アイツら共通の友人、いないみたいだからな。そんな誘いなら、デンワ、切ってやればよかった」
「でも、いい友人同士なんでしょう? 典子先輩はそう言ってましたけど…」
「ああ、今日家を出て行くときは間違いなくいい友人だっただろうけどな。帰ってきたときにはイイ関係になってるかもしれないからな」
良貴はその日、うわの空で練習して、鉄棒から落ちてねんざをしてしまった。
「活字のない世界!」
良貴がそんなことになっているとは知らず、典子は聡史と高尾山のふもとにいた。
「あーもう、数式は嫌や~」
「私ももう、年号は嫌や~」
2人は駅を降りたときから、もう頂上のように叫んでいた。
「あー、でも、最近運動してないから、ハードなハイキングは厳しいよ?」
「大丈夫や。俺のじいちゃんが老人会でよく来てるハイキングコース、教わってきた」
「老人会~!?」
「俺らにはちょうどいいやろ」
「私、運動部よ~。文化部で変な実験ばっかりやってる人といっしょにしないで~」
「お、言うたな。俺、中学の時は運動部よ」
「えー! 何部」
「水泳。めっちゃハード。これでも、脱ぐとスゴいんよ、俺」
「マッチョなの?」
「いや、『使用前・使用後』の広告の、『使用前』みたいに衰えとるよ。その、衰え方がスゴい。見ものや」
典子は大笑いした。
いくつかのハイキングコースがあったが、聡史は的確に、
「老人が多く行くほうに行けば、大丈夫」
と判断した。そのとおりにすると、メモにあるとおりの道しるべが見つかった。
ハイキングコースを若い足でぐいぐい登り、たくさんのお年寄りを追い越した。
「私たち、老人会失格やね~」
「別のルート、行くか?」
「それで迷って遭難して、山小屋で一晩明かしたりするの?」
典子はあっけらかんと言った。聡史はギクッとした。そんな妄想は誰だってする。
「バーカ、こんな行楽日和に、この人出のなかで、どうやったら遭難するんや」
「山をなめたら、いけないのよ。私、リュックにマヨネーズ入れてきたんだから」
「マヨネーズ?」
「超高カロリー栄養食。これで数日は大丈夫」
「なんや、それ」
「え、ワイドショーでやってたって言って、お母さんが持たせてくれたんだけど。新品の500mlボトルだから、重い」
「おまえんとこは、母ちゃんも変なやっちゃな」
はじめはちょっと肌寒かったが、山を歩いていると次第に暖まった。
「ねえ、飯田くんは、なに大学受けるの?」
典子は訊いた。
「うーん、どっかの理工学部か、工業系の大学かな~」
「超、理系なんだ」
「俺なー、化学が好きなんよ。部活でやる実験、オモロイよ~。おまえ、水銀電極て、知っとるか?」
「えー、水銀て、あの水銀?」
「そう。Hg」
「私、元素記号覚えてないよ」
「あー、これやから私立文系は。だからセンター試験、受けろ言うたのに。まーいーワ。あのな、寒天作ってな、その上に水銀載せて電気通して分解やって、微量の金属イオンを検出すんの。俺な、今度これで、ナントカイオン系のドリンク分解しよか、思ってんの」
「スポーツドリンクみたいなやつ?」
「そ。あのな、こないだ、炭素棒やら白金電極やらで、みんなでドリンク分解実験したんよ。粉末のやつ買ってきて、すっごい濃い溶液作って。したら、一体なにとなにが発生したと思う?」
「えー、なんだろ。イオンとか、いろいろ入ってるんだよね」
「そやろー、そう思うやろ~。したらな、衝撃の結果が俺らを襲ったんよ」
「どうしたの!?」
「水素と、酸素が発生した」
しばらくの沈黙ののち、典子はみみずくのようにくるりと首をかしげた。
「おまえ、わかっとらんな」
「スマン。わかっとらんよ」
「あのな、分解して水素と酸素を出すものは、何や」
「えー、うーん…えーと、水素がH、酸素がO」
「それが結合したら」
「…H2O?」
「つまり、何や」
「…水?」
「そ」
典子はもういちど、くるりと首をかしげた。
「なんで、スポーツドリンク分解して、水素と酸素が発生するの?」
「そう、そこが化学のオモロイとこや。水の電気分解やったときのこと、覚えとるか?」
「覚えとらん」
「あー! 会話が回りくどい! 本当やったら、さっきの『水素と酸素』でオチや。あのな、水はそのままやったら、なかなか電気を通さないんよ。そんで、水の電気分解の実験をする時は、低い電圧でも通電するように、ほんのちょっとだけ、水にイオンを溶かす。薄い硝酸水溶液とかにするんよ。そうすると、微量のイオンは触媒みたいな働きしかせんで、水の電気分解ができるわけ。で、スポーツドリンクも大してイオンが濃くないから、通電したら単なる水の電気分解になってしまったと、こういうワケや」
「ああー、なるほどー、水の分解じゃ全然意味ないねー」
学究肌で理系の聡史は、マニアックな話をすることが多かったが、わからない典子にも上手に説明してくれて面白かった。
「で、おまえはどこ、受けんの」
「ワサダ。弘志と一緒に、ワサダに行く」
「うわ~、大学でもべったりか~。おまえら、異常や。異常」
「私はどこでもいいんだけど、弘志があんまり『一緒にワサダ行こう』って言うから」
「はー。おまえんとこは、兄ちゃんがおまえのこと、好きでしゃあないんやな~」
「うん。そう」
「それで、おまえ、彼氏ができんのやろ」
「そんなことないよ。弘志には彼女がいるじゃん。それとこれとは、別」
「そういや兄ちゃん、きれーな彼女おったな。ちょっとイロオトコやもんな」
「私、双子なんだけどな~。どこが違うのかしら」
「おまえはおまえで、めっちゃカワイイよ」
聡史はさりげなく本音を言った。
「うん、私もそう思うのよ。やっぱ、飯田くんはよーくわかっていらっしゃるよ」
典子は得意げにふんぞりかえった。満面の笑みと楽しそうな声に気圧されて、聡史は口説きモードに持っていこうと切り替えかけたギアをやむを得ず元に戻した。
「でも、二卵性やろ」
「えー! なんで決めつけるの~?」
「バーカ。生物の遺伝の授業でやったろ。一卵性の双子は、必ず男同士か、女同士や」
「そうだっけ」
ゆるりと山道を歩いて、駅の近くに戻ってきた。聡史は道中何度も恋愛モードに入るための網を投げたのだが、典子は気づかずにいつもの調子で友達エリアを泳いでいた。
「なー、2人っきりで遠くに来たりすると、ちょっと違う気分にならんか?」
最後にもう一丁、聡史は網を投げた。
「じゅうぶん、なったよー。アタマがめちゃめちゃサッパリしたー」
聡史は今日という日をあきらめた。
月曜日、典子は足に包帯を巻いている良貴を校内で見かけ、猛ダッシュで駆け寄った。
「其田くん、足、どうしたの~~??」
「はあ、鉄棒から落ちました」
(典子先輩のせいで…ね)
のどまで皮肉が出かかった。
「うそー。大丈夫~?」
「大丈夫ですよ。でも、おかげで今週と、もしかしたら来週も、部活は休みですけどね」
「どうしたの~? 其田くんともあろう人が~」
「ちょっと、考え事をしてたんです」
良貴は土曜日のことを訊きたくてしょうがなくて、なんとか話題をふった。
「そういえば土曜日、弘志先輩がごはんだけ、食べに来てましたよ」
「あー、土曜日は、お母さんが田舎に行ってたからね~」
「典子先輩は?」
「あー、私は、ハイキングに行ってたの」
典子はことさら軽めに答えた。良貴は典子の態度を一生懸命観察した。
「いいですね。誰と行ったんですか?」
その質問に典子の顔が曇った。
「…うん、友達~」
典子はごまかしているのがありありな態度で言った。良貴はよっぽど「化学部の人ですよね」と言おうかと思ったが、結局怖くて訊けなかった。
(体操部だけが、典子先輩の世界じゃないんだから…)
典子の中の恋愛のエリアが、自分からとてつもなく遠くにあるような気がした。学園祭で抱いた淡い期待が、はじけて飛んだ。




