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10 最後の学園祭


 弘志はその夜、夢を見た。

 弘志は、新宿の喫茶店の前に一人で立っていた。「男性のお客様は、女性同伴でお願いいたします」という木でできた看板が行く手をふさいでいた。

 ガラスの向こうでは、美恵子が一人で木の実のたくさん載ったアイスをすくっていた。

「連れが中にいるんだ、入ってもいいかな」

 弘志が店員に言うと、店員は首を横に振った。

「男性のみの入店は、お断りさせていただいております。申し訳ございません」

 弘志はガラスを叩いて美恵子を呼んだ。

「須藤、待っててくれたんだろ。連れだって言ってくれよ」

 弘志は必死でガラスを叩いた。でも、美恵子は気付かなかった。

 美恵子の目から涙がこぼれた。弘志はそのままその場に座り込んだ。

 目が覚めてから、しばらく弘志はぼんやりしていた。それから起きて階下に下りた。


 学園祭は午前10時に開幕した。体操部のステージは初日の午後2時からだった。典子は弘志と一緒に、最後の練習に余念がない体操部員を訪ねた。

「おっはよ~」

 典子は元気に声をかけた。他にも、何人か3年生が様子を見に来ていた。体操部の3年生が何人も集まるのは久しぶりで、3学年分の部員が揃った体操部は話に花が咲いた。

 しばらくすると、典子が壁の時計を見て、

「私、化学部見にいかなくちゃ」

 と言って出て行こうとした。弘志は渋い顔をしたが、止める理由はなかった。

「典子先輩」

 良貴が典子を呼び止めた。典子は胸の高鳴りを抑えて何気ないふりで立ち止まった。

「見ていってくれないんですか?」

 良貴が引きとめてくれたので嬉しくなり、典子はハイテンションになって早口で言った。

「あ、本番は絶対見る見る。あのね、友達がコンテストでトップ取りたいから、票だけ入れに行くの。11時からと、2時からと、4時から3回投票があって、…ホラ、2時からは体操部でしょ。だから、11時の回は行ってあげようと思って」

 そして、「いつもの」笑顔を作って、

「ステージは、絶対見るよ。其田くんが出るんだもん」

 と言い、良貴の側を軽やかに去っていった。

(…11時の回だけか…。…それとも、明日…あの人と一日一緒なのかな)

 学園祭は2日間あったが、ステージはキャパシティの関係で1団体の出場は1回だけになっている。例年、体操部は1日目にステージに立ち、2日目はフリーだった。

 良貴は、弘志が1人のときを見計らって近づいて行き、さりげなく言った。

「弘志先輩、明日、学園祭、一緒に見て回りませんか?」

「あー、それもいいなー。俺も、最後だし…」

 弘志は簡単にOKした。うまく話を持っていって典子を誘うつもりだった良貴は、弘志の笑顔にわずかに後ろめたさを感じた。

「あのさ、あと、典子誘ってもいい?」

 途端に投げられた弘志の言葉に、良貴は思惑が見透かされたかと息を飲んだ。

「最後の学園祭だしさ~、大学も一緒なんてわけにもいかないだろうしさ~」

 照れた様子で弘志は言った。おかげで良貴は、典子に不自然な誘いをかける手間が省けてしまった。

「それに、あの化学部の奴と一緒にいてほしくないしな~。連れ回さないと~」

 どうやら良貴と弘志の利害は一致しているらしかった。

 良貴は最後の練習の追い込みに戻った。明日の典子の予定は押さえた。きっと一緒に過ごせるだろう。

(でも、もしあの人と過ごすからって断られたら…)

 一抹の不安をふりはらって、良貴は練習に没頭した。

 弘志は、後輩たちの練習を見ながら、時折ちらちらと美恵子の方を見ていた。弘志にも思惑があった。

 さりげなく、さりげなく、弘志は美恵子の側に近づき、人の流れの不自然でないタイミングを見計らって、「須藤、ちょっと」と声をかけた。その言い方にちょっと含みがあったので、美恵子はさりげなく弘志の側に行った。そんな秘密めいたお互いの態度はまるでつきあっていた時のようで、美恵子は淋しさまじりの甘い緊張を感じた。

「明日、典子と学園祭見て回る気ない?」

 弘志に言われ、美恵子は面食らった。典子の誘いなら典子が自分で言うだろう。

「え、…典ちゃんと、ですか?」

「ん、あと俺と、其田。嫌ならいいけど」

 お互いに目を合わせずに、別のことをしているようなふりで、極力少ない単語で話をする。2人に染みついたくせだった。

「…考えておきます」

 美恵子は弘志の答え方を真似た。

「よろしくー」

 弘志はそう言って美恵子の側を離れた。美恵子は弘志の反応がちょっとシャクだった。

(なに、「よろしく」って。誘われたこっちが、あしらわれたみたい)

 でも、どう見ても誘ったのは典子でなく弘志だったし、美恵子は弘志のそんな「ちょっとシャクな」態度が好きだった。


 典子は化学部がいる化学室に入り、投票用紙を受け取った。見ると、表の中ほどに飯田聡史の名前があり、そこには花火の名前として「スーパー変光スペクタクルNスペシャル」と書いてあった。簡単な解説がついていて、

「ナトリウム(Na)の出す黄色を基調とした、色の変わるスペシャル花火です」

 とあった。典子はにっこり笑って、早々とその横の欄に二重マルをつけた。

 化学部は炎色反応をテーマに展示をやり、一日3回、手作り花火の発表と人気投票を行っていた。時間になり、奥の準備室から白衣がぞろぞろと出てきた。典子は聡史を見つけ、人差し指と中指をまぶたのあたりにかざし、「よう!」と目で合図を送った。聡史も同じように返してきた。

 客が何人か、ぱらぱらと化学室に入ってきた。部長と思しき男の子が時計を見て、話し始めた。

「えー、本日は化学部の展示・発表に足をお運びいただき、ありがとうございます。今年のテーマは、『炎色反応』です。炎色反応とは…」

 しばらく炎色反応について説明をしたあと、部屋が薄暗くなり、真っ黒く塗装された、手作りの煙突のある大きなドラム缶がセットされた。この中で花火を燃やすようだった。

 1番から順に、手作り花火が燃えた。やはり綺麗に色が変わるものを作るのは難しいようだった。煙は少し室内に漏れたが、煙突を伝って窓から外に排出された。火薬独特の香りだけが化学室に満ちた。

 聡史の花火は、典子が見せてもらったのとほとんど同じように燃えた。典子は、ひいきめなしに一番綺麗だと思った。花火を手に、聡史が親指を立てて「グー!」のサインを送ってきた。典子も両手で「グー、グー!」のサインを送った。

 花火がひと通り発表され、化学部員たちがお辞儀をして引っ込んだ。投票用紙を箱に提出して典子が化学室を出ると、聡史が準備室のドアから出てきた。

「よー、バッチリやったろ~」

「おー、バッチリやったよー」

 聡史がハイタッチを求めてきたので、典子は聡史の手に思いっきり掌をぶつけた。

「おまえ、痛いよ~」

 そう言いながら、聡史は嬉しそうに笑った。

「どうよ、トップは取れそう?」

「まあ、とれるでしょ。俺、センスいいわ。やっぱ、花火職人になるしかないナ」

「焼肉タダになりそう?」

「なる、なる。そしたら、おまえにも近所のスーパーで肉買って、プレゼントするワ」

「いらんよ、そんなん!」

 その時お客さんらしき人が化学室の方をうかがっているのが見えたので、典子は、

「…あ、じゃあ私、体操部に戻るね」

 と言って帰ろうとした。聡史はそれを、

「ちょっと待て、昼メシ、食わんか」

 と呼び止め、並んで歩き出した。

「え、うーん…」

 体操部員たちは揃って弁当の買い出しに行き、練習場所で一緒に食べる。典子は1、2年のとき、ステージに出るので当然その群れの中にいたが、3年生は引退しているので、どこでどうしていてもいい。

「ちょっと早いけど、この時間で行くのが通、ってもんや。行こー」

 半ば強引に、聡史は先に立って歩いた。典子は迷ったが、おとなしくついて行った。体育会系の部活が屋台村をやっている体育館に着くと、もう混みはじめていた。

「おー、もう混んでるワ~、危ない、危ない」

 聡史は早足で入っていき、席を2人分確保した。

「おまえ、席とっとけよ。何、食いたい」

「なんか、変わったもの」

「じゃあラグビー部の、親子牛カツ天丼」

「なにそれ」

「そのまんま。でっかいどんぶりに、親子丼と、牛丼と、カツ丼と、天丼の具が載っとる」

「えー! 嫌だ、そんなの。自分で見て決める~」

「じゃあ、俺が戻ってくるまで待っとけ。おまえが迷ってる間、待つのはオコトワリ」

 聡史はラグビー部名物「親子牛カツ天丼」を買い、典子は卓球部の出していた「タイカレーセット」を買った。

「おまえさー、明日、どーいう予定になってんの?」

 聡史は食べながら訊いた。

「予定って?」

「明日、何してるんや、て言ってんの」

「明日ねえ…」

 去年まではクラスの出し物に参加していたが、今年は(というより、たいがいの3年生のクラスは)展示発表だけだったから、別に手伝うこともなかった。典子は「うーん」と言って考え込んだ。

(…其田くんと、なんか素敵なチャンスとか、…って、…ありえないかしら…)

 学園祭を一緒に見て歩いている男女の2人組には、大概なにか思惑がある。千加川高校はそれが伝統だった。

「なんや、予定ないの?」

「うーん、…目下のところ、まだないといえば、ないかな…」

「じゃあ、明日、一緒に学園祭見て回らん?」

(…もし飯田くんと2人で歩いてて、其田くんに何か誤解されても困るかな…)

「予定ないんやったら、一緒行こうぜー」

 断ることもないかと典子が顔を上げると、体育館の入口で体操部の連中が団子になって中を見ていて、いきなり良貴と目が合った。

 典子は、聡史と2人っきりの状況に焦った。

(体操部そっちのけで、他の男の子と学園祭で一緒にいるってのは、なんか、…そういう雰囲気に見えるよね…)

 聡史は、典子を見ている弘志にブイサインでも送ってやりたい気分で軽口を叩いた。

「体操部、あんな人数で入れるか。無理無理、テイクアウトするしかないって」

 良貴の心臓は早鐘を打っていた。でも、冷静なふりでその場を仕切るしかなかった。

「どうする? テイクアウトで、なにか買えるとは思うけど…」

みんな、微妙に典子の状況を気にしていて、なんとなく足を踏み入れづらかった。

「んー、混んでるし…いつものとこで弁当買おうぜ」

 そのまま体操部が去っていったので、典子はすっかり気まずい気持ちになった。

「なー、話の途中やったろ。明日、どうする?」

 典子は聡史を見て、今考えた嘘を言った。

「うーん、実は体操部の友達と、一緒に行こうかって話は、してたんだよね…。どうしようかな。まだ約束は、してないんだけど…」

 聡史は典子の顔をちらっと見て、

「そっか、じゃあ、しゃあないな」

 と言った。


 食事の後、聡史は化学部に戻り、典子は体操部に戻った。体操部はみんなで弁当を食べていた。早速、弘志がいぶかしげな目で出迎えてくれた。

「なーんで、そんな顔すんの」

 典子は涼しい顔で言って、弘志の近くの空いていた床に座った。

「べっつにー」

 弘志は言いたいことでいっぱいだったが、そのまま弁当を食べていた。

 典子は弘志の弁当の中身をのぞき込んだ。

「コロッケ、ちょうだい」

「おまえ、さっきメシ食ってたじゃん」

 と言ったものの、弘志は素直にハシと弁当を差し出した。

「やったあ」

 典子は弘志の弁当から、たった1つしかないコロッケを奪って食べた。

「あの男、何」

 弘志はボソッと言った。典子は、

「ざーんねんでしたあ、親友でーす」

 と大げさに不快そうな顔をして言った。それから、典子がしみじみ中身を吟味していたので、弘志は弁当を取り上げた。

「コロッケ以外のものは食うな」

「なーんで、みんな、そーやってすぐ恋愛感情だと思うかな~。ウインナ1コちょうだい」

 弘志は渋々とウインナを1コ、ハシで差し出した。典子はうまくそれを口で受け取った。

「あの男が不審な振る舞いをするからだろ。こそこそしてさ~」

「こそこそなんか、してないよ。いちいち弘志に許可取る筋合いはないじゃない」

「なんかいかがわしいんだよ」

「大丈夫でーす。何かあったら、もうとっくに暗室でデキちゃってまーす」

 弘志も、まわりにいた連中も、典子の言葉に幾分ドキッとした。幸いにして良貴はその声の届かない遠くにいた。

「おまえなー、変な言葉使うなよ。子供のくせに」

 弘志は周りの空気も察知して典子をたしなめた。事実何事もないとしても、典子について周囲の男どもに何事かを想像されるのは嫌だった。

「子供って、弘志だって同い年でしょー」

「おまえよりはずっと大人だよ」

 良貴は遠目にさりげなく弘志と典子を見つめていた。

(…そういえば、典子先輩って、弘志先輩のことをどう思ってるんだろう。お兄ちゃんではあっても…それなりに、魅力的な男性なんだし。さっきの化学部の人と、…それから弘志先輩と、…そんな人たちと比べて、僕はどういう位置につけているんだろう)

「典子、明日、一緒に学園祭見て回ろうぜ~」

 弘志は早速、学園祭見物に典子を誘った。典子は万にひとつでも良貴とのチャンスがないかなと思い、

「うーん、どうしようかな~」

 と言って考え込んだ。弘志は声をやや小さめにして、

「須藤も、典子が来るからって言って、誘ったんだけど」

 と言った。

「何よ、もう私が来るって、決めてたんじゃない」

「いいじゃん、どうせ予定ないんだろ~」

「何よ、ホントは予定、入るところだったんだから」

「誰と」

「飯田くんと~」

「あっそう、じゃあソッチに行けばよかったんじゃないの~? こっちは、其田も一緒だったんだけどね、残念だったね~」

「え」

 良貴の名前を聞いて、典子の態度が変わった。

「いやん、其田くんも一緒なら、そう言ってくれればよかったのに~」

 典子は千江美に聞こえないように気をつけながら、「いつもの」反応を演じた。

「なんだよ、其田が来るんなら、すぐに来るのかよ」

「そりゃあ、もう」

 弘志は、典子が来るのなら理由は何でも良かった。そして「あとは須藤だな」と思った。

(弘志、気が利いてる~)

 典子は大感激だった。今までずっと自分の心のうちを明かさずに来たが、場合によっては、明日は美恵子に何らかの協力を頼むことにしようと思った。


 14時から、予定どおり体操部の舞台が始まった。最前列は通称「招待席」で、部の関係者が優先的に座れることになっている。出演しない3年生やOBは、そこにずらっと座っていた。典子はいつの間にか、どこからともなく大きな紙袋を持ってきていた。

「典子、それ、何」

「秘密~」

 今年のステージは良貴の独壇場だった。本人はなるべく自分ばかりが目立つことのないように努力したつもりだったのだが、レベルの差はどうしようもなかった。

「あーあ、俺がいないと、其田に張れる奴がいないんだな~」

 弘志は傲慢な独り言をつぶやいた。でもそれは、結果的には事実だった。

 幸いアンコールの拍手が起こった。良貴がマイクを取って、

「アンコール、有難うございます。短いですが、もう1曲やりますのでお楽しみください」

 と言ってソデに下がった。拍手の中からわいてくるように、アンコールの曲のイントロが響いてきた。

「アンコール鳴って、よかったね」

「でも、結構俺らの拍手の誘導があったからって側面もあったゼ?」

「まあ、まあ、そんなこと、言わないの」

 典子は紙袋を足元から引っ張り出し、口を閉じていたシールをはがした。

「お、去年、味を占めたな?」

「んー、まあね~」

 袋の中には大きな花束が入っていた。

 良貴が出てきたので、典子はステージの方を見た。

(やっぱり、素敵…)

 良貴は空中技の連続を難なく決めた。着地した時、舞台の下の典子を目で探した。典子は良貴の視線に気付いて嬉しそうに笑った。良貴はちょっと照れたように目を伏せて、でもそっと微笑みを浮かべてソデに引っ込んだ。

「全員、出るよ」

 良貴の号令で全員が舞台に出てくると、典子は花束を抱えてステージに駆け寄った。

「其田くーん」

 去年典子がしたように、良貴は舞台の下から差し出された大きな花束を受け取った。

「ありがとうございます」

 良貴がそっと言うと、典子は本当に嬉しそうに笑った。客席から拍手が起こった。体操部員は良貴の号令で客席にお辞儀をして、そのまま幕が下りた。

 出番を終えて裏口から出てきた1、2年生を、3年生とOBが出迎えた。

「やっぱ、最後に花束が出ると、締まるね~」

「そうだねー。これ、恒例にしようか~」

 まわりの声を聞きながら、良貴はちょっとだけ複雑な気分だった。花束は、去年、典子への個人的な好意を示すよその部の男が持ってきたのが発端だったから…。

「典子先輩、これ…、ありがとうございます」

 良貴は典子をつかまえ、あらためてお礼を言った。典子は、

「ううん、私のほんの気持ち」

 と答えた。「ほんの」気持ちは本当のところ恋心だったし、実はお金の面では「ほんの」ではなくて、かなり「重い」気持ちだったけれど。

「…でも、これ、どうしたらいいですかね」

 良貴は、その花束を皆に配る方法を考えていた。典子は良貴の視線の方向からその気配を察知して、

「え、それ、私としては個人的に、其田くんに持って来たんだけどな~」

 とわざとらしい口調で言った。

「え、…ありがとうございます…」

 良貴は嬉しかったが、部長としてはやはり独り占めするわけにはいかない。

「よーし、焼肉だー」

 声が上がった。毎年恒例の焼肉屋に行く前に、これまた恒例の集合写真を撮るために正門前に集まった。良貴は花束を典子に持たせようとした。

「え、でも」

「男が持ってても、サマになりませんよ」

 そんなやりとりをしている時、フラッシュが光った。

「典ちゃん、いい写真撮れたよ~」

 美恵子が自分のカメラを向けていた。典子は照れ笑いをした。

 結局、典子は花束を持たされた。その流れで、典子と良貴は集合写真の中央に写った。そして、千江美が不愉快そうに2人に視線を送っている様子もしっかり写ってしまった。

 焼肉屋では、千江美がリベンジに良貴の隣をゲットしたが、良貴は立って音頭を取ったりOBに来てくれたお礼を言いに行ったり、あげく弘志のところに移って話し込んだりして、ちっとも居付かなかった。千江美はくやしくて、よっぽど良貴の荷物と一緒に置いてある花束をむしってやりたかった。

 帰り道、弘志は美恵子の隣にさりげなく立ち、

「考えた?」

 と訊いた。美恵子はよっぽど何かあてこすりでも言いたかったが、仕方なく、

「…そこまで言うなら、行きます」

 と言った。弘志は、

「ま、典子のためにな」

 と言ってその場を離れた。

(…何よ、自分が誘ったくせに)

 でも美恵子は、やっぱり弘志のこういうところが好きだと思った。

「其田先輩」

 千江美は滝野川と歩いていた良貴に話し掛け、見事引き離すことに成功した。

「あの、私、今年学園祭初めてじゃないですか。それで、明日…案内してもらえないかな~と思って…」

 良貴はまいったなと思った。断るのは気が引けるが、いろんな意味でやむをえない。

「ゴメン、明日はちょっと…」

「何か、用事があるんですか~?」

「いや…他の人と約束しちゃったから…」

 千江美の顔色が変わった。良貴は、千江美を一番刺激する言い方をしてしまったことに気づき、余計な詮索をされる前に慌ててフォローした。

「いや、弘志先輩とだけどさ」

 千江美はホッとして、そのまま食らいついてきた。

「えー、じゃあ、あの、私もご一緒できないですか~?」

 リエも誘って4人にしておいて、いいタイミングで2人ずつに分かれてしまえばパーフェクトだ。いい考えだと思ったとき、良貴が静かな口調で言った。

「…ゴメン、悪いけど…それは遠慮してもらっていいかな」

 千江美は息を飲んだ。押せば断りきれないだろうと甘く見ていた。

「そうですか…」

 心の中でたくさんの言葉が渦を巻き、そして、やっとひと言だけ訊いた。

「…江藤先輩と、2人だけなんですか?」

 良貴はその言葉に含まれるニュアンスにギクリとした。だから、とっさに嘘をついた。

「…うん、とりあえず今のところは…その予定だけど」

千江美はそれ以上何も訊けなかったが、絶対に2人だけではないと感じた。


 結局良貴は大きな花束を持って帰ってきた。母親に花瓶を出してもらい、適当につっこもうとしたら、母親に取り上げられて綺麗に整えられた。花の扱い方なんか全然わからなかった。

(…典子先輩)

 花を渡してくれた時の満面の笑みが浮かんだ。それから、体育館で他の男と2人で食事をしていたことが浮かんだ。

(…どういう人なのか訊きたいけど…)

 訊いてどうするのだろうとも思った。

(典子先輩のことは、好きだと思う…でも)

 じゃあどうすれば自分は満足なのだろうと思うと、やっぱりわからなかった。でもひとつだけ、手がかりはあった。

(…2人で並んで、安らかに過ごせたら…、あの、合宿の、最後の夜みたいに)

 それが「一緒にいたい」という自然な気持ちなのだとわかるには、良貴にはもう少し時間が必要だった。


 翌日、良貴が待ち合わせの場所に行くと、美恵子が立っていた。

「あれ、須藤さんも一緒なんだ」

 良貴が隣に立つと、美恵子は、

「…うん、江藤先輩に誘われてね」

 と言った。良貴は、

「典子先輩じゃなくて?」

 と訊いて、それから「しまった」と思った。

「あ、気にしないで。でもホント、そうだよね。典ちゃんじゃなくて、江藤先輩なの」

 美恵子はさわやかな顔をしていた。良貴は、美恵子をとても綺麗だと思った。

「…結局、弘志先輩とはそのままなの?」

 良貴は遠慮がちに訊いた。

「うん、別れたっきり。だから、なんで今日誘われたのか、わかんない」

「…そうなんだ」

 それ以上は自分の訊くことではないと思い、良貴は黙った。特に話をするでもなく、2人は江藤兄妹を待った。美恵子は弘志のことを考え、良貴は典子のことを考えていた。

 10分遅れて、兄妹はやってきた。

「おっそーい」

「ゴメーン」

「ゴメンな~、典子が支度、遅くってさ~」

 4人が学校に着いた頃には、もう10時半を回っていた。

「あのさー、化学部寄ってもらってもいい~?」

 典子が悪びれずに言うと、良貴と美恵子は戸惑い、弘志は嫌な顔をした。

「みんな、投票してよ~。私の親友なんだから~」

 典子はそう言って、弘志に向かって、

「弘志さ~、変なこと考えないでよ~。ホントに、飯田くんはただの友達なんだから~」

 と強調した。でも、それは正直なところ、良貴へのアピールだった。

(…ただの友達)

 良貴は、さりげなく典子のセリフを反芻した。体を巡っていた不安という悪い血が、すっと抜けていくような気分だった。

 美恵子はさまざまな状況を察知して、典子のために同調してあげた。

「いいよ、行こうよ。江藤先輩、いいじゃないですか。ねえ、其田くんもいいでしょ?」

 良貴は思わず反射的に、「あ、いいよ」と答えていた。こうなったら、弘志も一人で反対するわけにはいかなかった。

 化学室の廊下で、良貴はクラスメイトの化学部員とハチ合わせた。良貴が声をかけ、少し話をしていると、弘志が

「先入って、席取っとくぞ~」

 と言って、典子と美恵子を連れて中に入った。

「化学部、何やってるの?」

 良貴はクラスメイトに訊いた。

「うん、花火作ってるんだよ」

 という答えが返ったが、それは元々知っている。

「そうなんだ。部活の中で作ってるの? 実験とか、どこでやってるの?」

「一応火は火だしね。全部ここで作って、燃やすのもここ。しかも顧問のいるときだけ。危ないから、生徒だけでやるのも、よそでやるのも禁止って言われた」

 良貴は不快な脈を刻む心臓の重みを感じながら、なんでもない会話に戻そうとした。

「いい花火作れた?」

 クラスメイトは、手にしていたアンケート用紙を良貴に見せながら答えた。

「うーん、俺のはこれなんだけどね、微妙かな~。この、飯田先輩の『スーパー変光スペクタクルNスペシャル』って変な名前の奴が今、ダントツでトップなの」

 飯田という名前に聞き覚えがあり、良貴はドキッとした。言葉はそのまま続いた。

「でもさー、この『N』っていうのがわかんないんだよね。飯田先輩はナトリウムのNaのNだって言うんだけどさ、ホラここにもそう説明入ってるじゃん? でも、それだったら、『スーパー変光スペクタクルNaスペシャル』だと思うんだよね。だって、元素記号だったら略さないもん。Nなんて言ったら窒素になっちゃうから」

 典子のNだ、良貴は直感した。そして、気を取り直して「見てくから、がんばって」とクラスメイトに声をかけてから化学室に入った。

「其田くーん、ここ」

 典子が手を振った。良貴は複雑な気持ちで典子の隣に腰掛けた。

(須藤さんが、相手の方は典子先輩を好きなんじゃないかって言ってたな…。ご明察か…)

 入口で受け取ったアンケート用紙を見ると、「スーパー変光スペクタクルNスペシャル」の文字がひときわ目立つような気がした。友達だというのは、あくまでも「今」の話だ。聡史が典子との現状を打破するチャンスを狙っていることは明白だと思った。

 良貴が盗み見ると、ちょうど典子が誰かに合図を送った。前に向き直ると、化学部の登場だった。良貴は恋敵の姿をすぐに見つけた。その目はまっすぐ典子を見ていた。

 研究発表の間中、良貴は考え事をしていた。しばらくすると、また典子が誰かに合図を送るのがわかった。良貴は顔を上げた。聡史の順番が来ていた。

「スーパー変光スペクタクルNスペシャル」は黄色から始まって、美しく色を変えていった。美恵子が「わー…」というのが聞こえた。最後に黄色に戻り、華やかな火花を散らして花火は終わった。

 聡史が典子に「グー」の合図を送った。典子も「グー」を返した。

 4人が化学室を出ると、やっぱり聡史が典子を待っていた。典子は連れの3人を気にしたが、聡史は構わず話しかけてきた。3人は少し離れたところに立って典子を待った。

「今なー、ダントツトップよ。このまま、焼肉はいただきやな」

「やったね~。変な名前つけて、バカにされなくて良かったね~」

「何、言ってんの。俺の心をこめた命名や」

 聡史の声は普段より少し大きめで、典子を待つ3人のところにもよく響いた。弘志は、

「なーんか、ビミョーに、やな感じ」

 と正直に口にした。良貴も若干、そんな印象を受けた。美恵子が弘志をなだめるように言った。

「でも、花火は綺麗でしたよね」

 弘志はぶすっとして答えた。

「まーな、典子をこき使ったんだから当然だろ」

 典子を待つ3人を気にしないふりをしつつ、聡史は典子をからかった。

「なんや、一緒に学園祭見る友達って、お兄様か」

 本当はそんなに明るい気分でもなかった。典子に二人で学園祭を回るのを断られた、それも一つの現実だ。

「え、違うの、綺麗な女の子いるでしょ。あれが親友の美恵ちゃん。で、ウチの弘志は、そのカレシなの」

「あとのちっこいのは」

 聡史はいつもの調子で毒舌を吐いたが、典子にとっては気に障る発言だった。

「いくら飯田くんでも、怒るよ。あの人、体操部の部長だよ。飯田くん、去年の体操部の舞台見たでしょ。ダンスもうまくて、すっごい宙返りとかしてた人がいたの、覚えてない? そういう言い方、絶対に許さないからね」

 典子は良貴に聞こえないように小声で、でも思いっきり不快感をあらわにして訴えた。

「スマン、男に身長の話は、タブーやったな」

 聡史は慌てて頭を下げた。それから少し不思議そうな顔をして、

「…あのさ、今の部長言うたら、2年やろ」

 と言った。典子は聡史が謝ったのですぐに機嫌を直した。

「うん、2年だよ」

「…なんやおまえの言い方聞いてると、後輩やなくて目上の人みたいやな」

 典子はギクリとした。そんなところに、恋心は露呈する。

「いいじゃない、うちの部のナンバーワンなんだもん」

 典子はふんと鼻を鳴らして目をそらした。

「あっそ」

 聡史はそう言いながら、良貴に目を馳せた。良貴も聡史を見ていた。2人の目が合い、お互いに相手が自分と同じ目をしていることに気がついた。

「じゃあ、みんな待ってるから、またね~」

 典子は元気に聡史のもとを離れた。聡史はその背中に力なく声をかけた。

「また来いよ~」

(そういや、江藤の奴、ずっと前に「高校生で女の子の方が年上の恋愛ってあると思う?」って訊いとったな)

 千加川高校で「学園祭を一緒に見る」という意味。弘志は典子の双子の兄だし、美恵子はその彼女だという。それなら簡単な引き算だ。聡史は暗室で何もできなかったことを後悔した。


「いた、いた、こっちこっち、見つけたよ~」

 リエが血相を変えて千江美を引っ張った。

「うそ、ホントに~?」

 リエと千江美は共同戦線を張って、良貴と弘志を探しに来ていた。チャンスを見計らって、いくぶん強引にでも合流してしまうつもりだった。

「でもさー、入り込めない状況なのよ~。いるの、あと2人」

「え、2人って、…まさか」

「そうなのよー、典子先輩と、須藤先輩」

「げげー! マジで~?」

 千江美はそっと物陰からリエの指した方向をのぞき込み、4人を発見して小声で叫んだ。

「すっげえムカツク~。其田先輩、私に嘘ついた~。今日は江藤先輩と2人だけだって言ってたのよ。でも、なんか言い方は確かに怪しかったけど」

 本当は2人ではないことなんてうすうすわかっていた。この場でその現実を突きつけられて愕然としたが、態度には出さなかった。

「どうしようか」

 リエは困った口調で言った。千江美は力強く答えた。

「リエ、アンタは江藤先輩をなんとかしなよ。私は捨て石になるよ。私がなんとか頑張るからさ、江藤先輩と2人っきりになりなよ」

 良貴が典子に特別の感情を抱いていることは、良貴を見つめていたらどうしてもわかってしまった。それはこの学園祭の期間でほぼ確信になっていた。

(典子先輩には、彼氏がいるんだから大丈夫。其田先輩が失恋したら、そのときに…)

 千江美は自分に言い聞かせた。千江美とリエは4人の後をつけた。しかし、なかなかチャンスは巡ってこなかった。

 14時の10分前、典子は時計を見て、

「あー、また、化学部行かなきゃ」

 と言った。聡史に、できる限り行って投票すると約束していた。

「えー、俺はもう行かねーぞ」

 弘志が即座に言った。典子は顔の前で手を振りながら言った。

「あ、いいよー、私一人で行くよ~。今日、学園祭一緒に見ようって言われてたの断っちゃったし、そのくらいの約束は守らないと」

 良貴は、聡史が典子を誘ったのを知り、明白な焦りを感じた。弘志がまた、不快そうな顔をした。

「ミエミエなんだよな、学園祭一緒に見ようなんて」

 典子は弘志をにらみ、それから勝ち誇った顔になって自信満々で言った。

「男女間に純粋な友情は成立するんです~」

 良貴は暗い気分になった。いずれは典子の無知や鈍さが自身を何かの形で傷つけるのではないかと心配だった。

「うん、だからいいよ、私一人で行く」

 典子が輪を離れようとした時、良貴は反射的に、

「あ、でも、僕も行きます」

 と言っていた。

「…と、いうわけにも…いかないですか」

 良貴は肩をすくめた。弘志と美恵子を2人っきりにしないのは暗黙のルールだ。

「あ、いいよ、おまえが典子についててやるならそれで」

 弘志は意外にもあっさりと言った。そして眉を上げるようにして美恵子に横目を投げ、

「おまえも化学部に行きたいなら、行けば~? 俺はお茶でも飲みに行くけど」

 と言った。けれど、明らかに美恵子に自分の方へ来ることを要求する口調だった。

 美恵子は、よっぽど化学部の方へ行ってやろうかと思ったが、学校の中で弘志が2人っきりになってもいいと(間接的にとはいえ)言うなんて大事件で、プライドと恋心を天秤にかけ、しばらく返事に窮していた。

「いーって。行って来いよ。其田、典子を頼むな~。俺、茶道部の喫茶店にいるから」

 弘志が背中を向けると、典子は慌てて美恵子を追い払う仕草をした。美恵子は、

「ゴメン、じゃあ」

 と慌てて言い残して弘志の後を追った。

 2人で残された典子と良貴は、ドギマギしながら顔を見合わせ、当たり前のような顔をして化学室へ向かった。

「えーっ! 散ったよ、散った。どうする?」

「何言ってんの、追うしかないじゃん。連絡は、ときどきケータイ入るとこに行ってメール見てね! じゃあ、あとで!」

 千江美はリエを弘志のほうへ突き飛ばして、自分は良貴と典子の後を追った。校内は授業中に携帯電話をこっそりいじることができないよう、電波が通りづらい新鋭の造りになっていた。職員室や、ネットを使って授業をする視聴覚室・パソコンルームは電波が入るが、他は遮断されているか、微弱な電波しか入らない。

(つまり、そういうこと。結果がすべてだよね。江藤先輩と須藤先輩、其田先輩と典子先輩…)

 千江美は絶望的な気分で良貴と典子の後を追いかけ、化学室に入るのを確認して物陰に隠れた。深呼吸をしても、激しい鼓動はちっともおさまらなかった。

(…もう、私が何を頑張っても、ダメなのかな…)

 学園祭の喧騒は、たくさんの恋の思惑を飲み込んでどこまでも広がっていた。

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