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1 体操部の椿客


 春、四月も半ば。桜の花も散り終わり、がくの紅色の合間に緑の葉が増えてきた頃。

 とある都立高校体育館の入口に、一人立ち尽くして、隠れるように、ずっと体操部の練習を見ている少年がいた。

 やがて、体操部の部長は彼に気付き、声をかけに行った。

「何? 新入生? 入部希望?」

 小柄で地味で、体操よりも机に向かっている方が似合いそうなその少年は、戸惑ったように目を伏せた。少年の身長は一六〇センチあるかないかで、幼い顔立ちと相まって高校生には思えない。その様子から、あまり積極的に誘ったら気後れさせてしまうと思い、部長はことさら優しく微笑みかけた。

「見学だけでも歓迎だけど」

 少年は一瞬部長を見上げ、口を開きかけて、また閉じた。そして、だいぶ間をおいてからためらいがちに言った。

「あの、オリンピックを目指してたような奴が入部しても、いいでしょうか」

「…え?」

 部長は何をどう聞き違えたのかと思い、もう一度少年の声を頭で再生しようとした。そのとき、元気な声が近づいてきた。

「弘志~、何、え~、入部希望者~?」

 一人の女の子が、力の抜けたようなあどけない笑顔で少年の前に立った。

「まあ、まあ、汚い体育館ですが、どうぞおあがりになって。立ち話だなんて、もー、たくの部長ときたら、まったく気がききませんで…」

 おちゃらけた声に少年はわずかに微笑み、うなずくと、靴を脱いだ。

 春特有の乱暴な風が吹いて、とっくに花の散り終わった桜の木からがくをむしって撒き散らした。女の子のシルエットが戻ってきて、体育館の扉が閉まった。


 ここ、都立千加川高校の体操部は、部長と副部長を双子の兄妹が務めていた。

 部長の江藤弘志は、不思議な色気と魅力のある、明るくしっかりしたリーダーである。背は一七四センチ、丸顔でやや童顔で、つくりが整っているわけではないのだが、どことなく愛嬌と色気がある。かなりのシスター・コンプレックスだが、妹に優しいその様子は女心をくすぐるらしい。男子、女子の両方から人気があり、体操部では彼が華だった。

 副部長の江藤典子は、兄とよく似ているのに微妙に顔の構造が違うらしく、愛嬌は人一倍だが兄ほどの色気や魅力はない。背は一五六センチ、くせっ毛の髪は特にスタイリングするでもなく、大概ポニーテールで済ませていた。丸顔な割に体はやや細めで、スタイルは結構いいほうに入るだろう。小さい頃から両親と兄に可愛がられて育ったせいか子供っぽくて甘ったれで、体操部のマスコット的存在だった。

 二年生になったばかりの江藤兄妹の下、新入部員の一年生たちの中に、典子の親友の須藤美恵子がいた。学年が違うのに親友なのは、美恵子が典子の通っていたピアノ教室のお嬢さんだからで、二人は幼なじみだった。美恵子は、潤んだ大きな瞳が魅力的な美人で、優しくおとなしそうな、男の子がいかにも憧れそうな女の子だ。背は典子とほぼ同じで、決して太ってはいないのだが、体操をやるにはちょっと重そうに見えた。よっぽど文化部、しかもクッキングや手芸の方が似合いそうだ。

 美恵子が体操部に入った理由…それは、親友の双子のお兄さんが体操部にいるからに他ならなかった。

 弘志は女の子に人気はあるものの、特定の彼女はいない。如際なく振舞いつつ女の子の寄せる好意を楽しんでいた。美恵子の気持ちにも気付いていた。けれど、弘志が徹底的に優しいのは典子に対してだけだった。

 一方の典子はというと、いつか素敵な人が現れることをただなんとなく夢見ていた。

 高校二年生、十六歳の兄妹は今年こそ何かが起きそうな春を迎えていた。


「体操部」なんて言うと、誰もがオリンピック演技のような「床」「鉄棒」「段違い平行棒」「あん馬」「跳馬」「平均台」などの各種目で軽やかに宙を舞うようなイメージを持つだろうが、そのレベルに達しているのは頂点のごく一部にすぎない。千加川高校の体操部の部員の大半は、高校で突然体操部に入ってみただけで、体育の授業と同レベルのマット運動や鉄棒から練習を始め、地域の競技会で「参加することに意義がある」という程度の成績を残す。ゆったりとのんびりと、みんながみんな自分のペースで練習していた。

 まもなく春の競技会だったが、男子の選手三人の最後の一人を二年生にするか、一年生にするかで部員がもめた。一年生で候補となったのは、つい先日入部したばかりの小柄な少年だった。

 彼、其田良貴は子供の頃から有望選手として世界レベルの練習をしていたが、大きな事故にあい、体操をあきらめて普通の少年になった。だから、初心者だらけのこの部活では実力が二桁くらい違っていた。「順番どおりに二年生を出すべきだ」という意見と、「実力がある人を出さないのはおかしい」という意見がかち合い、話し合いは難航した。結局、

「僕は、例年そうしてるんなら、今年も二年生が出るべきじゃないかと思います」

 と良貴が候補を降りて、やっと収拾がついた。

 教室を借りての話し合いが終わり、体育館に戻って練習が始まると、典子はさりげなく良貴に近付いて声をかけた。

「其田くん、遠慮させちゃったみたいで、なんかゴメン。でも、私は其田くん出るとこ、見てみたかったなあ~。全然、レベルちがうもんね」

 軽いストレッチをしながら鉄棒の順番待ちをしていた良貴は、タンマ(滑り止めの炭酸マグネシウム粉)をはたきながら典子を見て、ゆっくり目を伏せるように手元を見て、ささやかな微笑みを浮かべた。

「僕も、出てみたかった気はします」

 それを聞いてわずかに困った表情になった典子を見て、良貴は、むしろ典子をなぐさめるように続けた。

「でも、僕にはまだ来年があるから、いいんです」

 典子の顔が嬉しそうに晴れた。

「ありがとう。でも、其田くんが出れば、弘志もいるし、今年けっこういいセン行ったと思うな~」

 良貴は、体操を始めてたった一年の弘志と同列に扱われて密かに苦笑したが、仲のいい江藤兄妹はうらやましかった。

 遅れて入部したうえに突然ハイレベルだった良貴は、まだ少し部の中で浮いていた。のんびり明るいだけに見える典子が、実は隅に一人でいる新入部員にも平等に気を配ってくれるのも伝わっていた。典子の満面の笑みに少し気を良くして、良貴は微笑みをたたえ、ゆっくりと言った。

「そうですね、僕もちょっとは自信ありましたよ」

 そのとき鉄棒の下のマットに男子部員が着地した。次は良貴の練習の番なので、典子はその場を離れた。良貴は補助を受けて腕を伸ばし、高鉄棒を握った。

 典子の脳裏には、良貴のほのかに自信ありげな笑顔がしばらくの間残っていた。

 半月後に行われた大会では、女子は典子の頑張りもあって前年の三十校中二十三位から十三位に躍進した。男子は前年の十七位から十九位に後退した。

 大会の行われた国立大学付属高校体育館から、群れを成して各校の生徒たちが帰っていく。千加川高校の面々も校門を出て、縦に並んで駅を目指した。弘志はどことなく気恥ずかしさのようなものを感じ、その気分をそそぐように、明るく良貴に声をかけた。

「今年はイマイチだな~。其田、おまえが出てたらどうだったかな」

「わからないですね。大会はずっと出ていませんから。勘も鈍ったと思いますし」

 良貴は淡々と答えた。小学生ジュニアの頃にはすでに、こうした素人級の高校生の地元の大会のレベルはとうに超えていたが、そんなことは言っても仕方がない。

 優等生然と無難な返答をする良貴に、弘志は笑った。ことさら目立たないように、クールに淡々としている良貴の態度は、むしろ部員たちを遠ざけている。「お高くとまって」いるように見えてしまう。弘志は、そんな後輩をちょっとからかってみたくなった。

「典子が、ホントはおまえが出たがってたって言ってたゼ。ホントはレベルの違いとかバリバリ見せびらかして、ヒーローになりたかったんじゃねーの? 素直になれよ~」

 良貴はそんな挑発に、言い方は遠回りながら素直に乗った。

「…僕には、楽しい大会で、楽しく体操をやっている人のチャンスを奪う権利はないですから。――嫌みとかじゃなくて、ほんとに、世界が違うんです。楽しいものじゃないんで」

 わずかに言い返すような響きを秘めた穏やかな声には、淡々としつつも反論を許さない強さがこもっていた。

「…そうだよな、おまえには高校生のお遊戯だよな」

 弘志はふっと氷が解けるように笑顔になった。良貴は弘志が不快感をみせることも覚悟していたので内心驚き、恐縮してわずかに頭を下げた。文句なしのリーダーで人気者の弘志にちょっとした対抗意識があったが、素直に受け入れてもらえたことを感じ、心の中に作っていた壁を一枚壊して取り払った。

 弘志は「正体の見えない奴」と思っていた良貴に興味を持った。自分にとっての体操は「初心者の楽しい部活」でしかないと自覚していたし、世間の少年たちと同じようにアスリートの世界に対する憧れがあった。

「今度、ウチに遊びに来いよ。お茶くらい、典子にいれさせるから、さ」

 そうして何度か二人で話すうち、弘志と良貴は意気投合した。


 夏休みを迎え、体操部は男子十三人(うち、自称「引率」のOB一人)、女子十人の大所帯で合宿を執り行った。実際は合宿とは名ばかりの旅行で、筋トレの一つもするわけではない。行き先は千葉の海岸で、長いこと電車に乗り、駅からぞろぞろ歩いてやっとのことで安い宿に着いた。

 さっそく部屋に荷物を放り出して、部員たちは海水浴場にやって来た。素晴らしい晴天が空を真っ青に染め抜き、波も穏やかで、最高の海水浴日和だった。部員たちは砂浜への基地の設営もそこそこに、ビーチサンダルの上にわずかな荷物を置き去りにして、先を争って海に向かった。先頭をきって走っていくのは、オレンジの水着を着た典子だった。

 皆が海ではしゃぎまわる中、美恵子だけはタオルをかぶって基地で丸くなっていた。

「美恵ちゃん、泳ごうよ~」

 典子が海からダッシュで上がってきて美恵子に声をかけた。オレンジの水着にオレンジの髪留め、そして太陽のようなオレンジ色の笑顔を見せる典子は、もう全身水浸しになっていた。

「え、…私、スタイル悪いから嫌」

「大丈夫だよ美恵ちゃん、ノーサツだよ」

 典子が笑顔で言うと、美恵子はうなだれた。

「典ちゃんはスタイルいいからいいよ。私デブだからやだ」

「ぜんぜんデブじゃないよ。行こうよ」

 典子はかがみこんでそっと、

「今回の合宿、弘志狙ってる女の子結構いるよ。とられちゃうよ」

 と言った。美恵子は、

「このスタイル見られたら、その方が嫌われちゃうよ」

 と答えてますますうつむいた。本当は弘志に見せたくてピンクの可愛い水着を買ってきたのに、いざとなったら他の女の子より自分が太めなことに落ち込んでいた。

 こうなったら美恵子は手に負えない。典子は仕方なく弘志のところに向かった。じっと視線を向けて歩いてくる典子を見て、弘志はすぐに砂浜に迎えに出た。典子はぷーっとふくれて弘志に言った。

「弘志、美恵ちゃんが泳がないの」

「…泳げない事情とかもあるんじゃないの?」

「そういうんじゃなくて、なんかね、スタイルが悪いから嫌なんだって。つまんなそうにしてるよ、弘志なんとかしてよ。部長でしょ~。部員が楽しくなくてもいいの?」

 弘志はそのまま典子とすれ違うように通り過ぎ、美恵子のところまで歩いて行った。弘志が近づいてくるのを見て、美恵子はかぶっていたタオルをもっと体に巻きつけた。

「須藤、泳がないの」

 弘志は声をかけた。

「あの、いいんです」

 美恵子はうつむいて答えた。体のラインが弘志に見えないかと気になっていた。

「泳ごうよ」

「いいんです」

 弘志はくるりと美恵子に背を向け、大げさに自分の荷物をあさると、美恵子の頭の上に大きなTシャツをばさっと放り出した。

「俺ので嫌じゃなければ、着たら。結構大きいと思うよ」

 弘志はそのまま海で遊ぶ連中のところに戻っていった。美恵子はその後ろ姿をドキドキしながら見送って、そっとTシャツに手を通した。典子に聞いて来てくれたのだとわかっていても、弘志の思いやりが美恵子にはとても嬉しかったし、弘志の服に包まれていることがとても心地よかった。

 美恵子は立ち上がって海に向かった。弘志はそれに気付き、大きな声で、

「いいから、そのまま入って来いよー」

 と声をかけた。美恵子は安心して弘志のTシャツを濡らして海に入ることができた。典子が手を振り、美恵子はそこまで泳いでいった。

 皆でボートに鈴なりになってはしゃぎ、全身くまなく疲れた若者たちは、砂浜に一時退却した。そしてめいめいに海の家でジュースや食べ物などを買って、レジャーシートの基地に戻ってきた。

 典子は弘志の左隣に座った。弘志の右隣には良貴が座っていた。良貴はなぜかTシャツをガッチリ着込んで海に入っていた。

「其田くん、なんでTシャツ脱がないの? 変な日焼けするよ」

 典子は弘志ごしに覗き込むように良貴を見て笑った。良貴は慌てて両袖をまくり、日焼けを確認して、そのまままくった袖をしっかり折って腕を出した。Tシャツの下から現れた良貴の肩口や二の腕は他の男の子よりもずっとたくましくて、典子はドッキリして所在ない気分になり、もじもじと日焼け止めを塗りなおしはじめた。

 弘志は典子の不審な様子に気づき、ふいっと良貴の方を見た。意外にも――そんな風に思ったら失礼かもしれないが――良貴の肩周りは弘志が見てもやけにたくましかった。筋肉ついてるな…なんて気軽な話でも振ろうかと思ったが、やめた。そういえばオリンピックの体操選手には背が低めの人が多いかもしれないなと、そんなことを思った。

 夕方を迎え、肌寒くなっても、体操部の面々は遊泳禁止の時刻を迎えるまで泳いだ。全員へとへとに疲れたが、海水と砂を洗い流したら元通りの元気な十代に戻った。

 ほとんど貸切のようになっている宿に戻ると、まずはみんなでお風呂タイム、そして夕食となる。その後は皆で一つの部屋に集まってお菓子とジュースで集会をするのがならわしだった。

 弘志と典子、美恵子、良貴は、一番大きな輪の中でトランプをやっていた。

「上がり、大富豪」

 弘志が一番に上がった。次に良貴が上がった。それからみんなが次々と上がり、典子は一年生の女の子を抑えて何とかビリから二番目、「貧民」に踏みとどまることができた。

「やった、貧民に昇格した」

 典子は大喜びした。この回まで、三回連続で大貧民だった。

「おまえ、レベル低いんだよ」

「私、いつも貧民か大貧民だも~ん」

 弘志にからかわれ、典子は嬉しそうに威張った。皆が笑って、弘志はその声の中でカードを集め、次を配った。

「大貧民、2を寄越せ、2」

 弘志は大貧民に凋落した一年生女子に一番強いカードを要求した。

「2なんか一枚もないです~。先輩の配り方が悪いんですよ~」

「じゃ、エースを寄越せ」

 大貧民は大富豪に、強いカードを二枚ふんだくられた。

「じゃ、大貧民に3と4をセットで差し上げましょう」

 弘志は弱いカードを嬉しそうに「大貧民」に渡した。

「えー、3を二枚とか、ないんですか~」

 一年生は情けない声で言ったが、

「二枚組とか渡すわけないじゃん。3なんか出して、革命されたら大変だし~」

 と弘志に意地悪く切り捨てられた。カードを早く出し終えた方が勝ちなので、あとの人が続きのカードを出しにくい二枚組、三枚組は大事な持ち手になる。また、3を三枚出されたら「革命」となり、カードの強さがまるきり逆転するから、3の二枚組は絶対に人には渡せない。

「富豪」の良貴は、「貧民」の典子を気後れした様子で見て、訊いた。

「…典子先輩、大貧民、苦手なんですか?」

 典子はニコニコして答えた。

「私、なんでも弱いんだよね。七並べとかも負けちゃう。いいところを止めすぎて、自爆しちゃうの。ババ抜きなら、うまくウソつく自信あるよ~」

 それから、せっかく手にした最強のカード「2」を良貴に差し出した。

 良貴は、しばらく考え込んでから典子に一枚「弱いカード」を差し出した。典子が見ると、それは3でも4でもなく、「9」だった。

「其田くん」

 典子は間違えたのかと思って顔を上げた。良貴は、

「それが一番弱いカードです」

 と落ち着いた顔で言った。

 しかし、その回は良貴が最弱のカード「3」を出して大富豪で上がった。典子はびっくりして良貴を見たが、良貴は素知らぬ顔をしていた。典子は、もらったのが「9」だったことと、他もさほどひどくないカードが揃ったことで、なんとか真ん中辺りの順位で勝ち抜けた。いいカードを富豪や大富豪に毎度召し上げられては負ける「貧民ループ」からも抜け出すことができた。

『それが一番弱いカードです』

 嘘ばっかり、と典子は思った。本当は大会にも出たかったくせに。二年生が出るのが順当だなんて格好をつけて。

 静かで穏やかな態度の向こうに何が隠れているのか、典子はだんだん気になりはじめていた。


 翌日も皆で海に行き、それから最後の夜が来た。

 夕食の席で、いつも合宿についてくるOBの滝野川孝が「肝試しをしよう」と言いだした。滝野川は毎年、女子部員を目当てに合宿へとついてくる。今年は美恵子に狙いを定めているのが明らかな様子で、典子は親友を守るべく警戒していた。

「組み合わせは、せっかくだから男女のペアでさ…」

「じゃあ、組分けのクジ作っておきます~。男子がちょっと余るけど、その人たちは外れで、男同士で組んでもらいましょう。そういう雑用はやりますよ~」

 典子は滝野川の先手を封じた。そう、美恵子が組む相手は、滝野川ではなく、弘志でなければならない。弘志目当ての女子部員が何人もいるのはわかっていて、弘志がそのうちの誰かと組むのも避けなければならない。「私が雑用をやる」と副部長の典子が言えば誰も反対できない。案外、典子はしたたかな女の子だった。

 夕食後、全員で支度をしてもう一度食堂に集合した。典子は男の子の名前を書き込んだ簡単なくじを作り、弘志の名前を書いた紙は手の中に隠した。そしてしばらく迷って、良貴の紙をこそっとポケットに入れた。

「女子の方が少ないから、女子がくじ引けばいいでしょ。誰にもくじ引いてもらえなかった男子はハズレ。その人たちは、男三人で肝試しで、残念でしたってことでー」

 女の子たちは素直にくじを引いたが、もちろん誰も弘志に当たらなかったし、良貴にも当たらなかった。典子は美恵子に、

「美恵ちゃんは、弘志ね」

 とこっそり言って、隠してあったくじを渡した。美恵子は戸惑ったが、典子がすぐに次の女の子にくじを引かせに行ってしまったのであきらめた。そして最後に典子は、ポケットに良貴のクジを隠したまま、

「ハズレの三枚が決まったよ」

 と言って、一枚ずつクジを開いて三人の名前を読み上げた。男子三名が肩を落とした。

 典子はエヘヘと笑いながら、ポケットから出したくじの紙をひらひらさせて良貴のところに行った。

「…なんか、ゴメン。其田くん、相手は私なんだけど…」

 他の女の子たちもそれぞれのくじの相手のところに行き、ペアを組んだ。仕方なく美恵子も弘志のところに行った。

「あの、…クジが…」

 美恵子は弘志の前でうつむき、それだけ言った。滝野川と弘志はすぐに典子が仕組んだことに気付いた。滝野川は総合的に状況を読み取り、ターゲットを変更した。目の前には小柄でそれなりに可愛い、一年生の谷口緑が立っていた。

 弘志狙いの女の子が数人、不服そうに美恵子を見ていた。その一人は谷口緑だった。

「あのさ、海の向こうの方に、廃墟みたいな、なんかホテルみたいなのがあったじゃん。あそこに行こうよ」

 滝野川は調子よく言った。彼は、卒業以降も毎年合宿にやってきては勝手にイベントを盛り上げ、チャンスを作っては女の子を釣り上げていた。かつては女子の先輩が「気をつけなよ」と注意してくれていたらしいのだが、あいにく典子の上の代は女子部員が一人もいなかったし、もう一つ上の代は典子たちの代の入部と入れ替わりに引退してしまったので、「気をつけなよ」が引き継がれていなかった。典子はそんな滝野川に不穏なものを感じ、最初から嫌な印象を抱いていた。

 とはいえ、大学生は何かと遊び方を心得ていて、都立の地味な優等生学校の部活の合宿を確実に盛り上げてくれる存在であることも確かだった。弘志は、呆れる気持ちが半分ありながらも、滝野川に一目置いていた。

 体操部員は全員で廃墟のようなビルに向かった。そこは倒産して放置されたホテルで、解体作業中の高い塀に囲まれている。一部だけは塀でなく簡単な柵が組まれているので、時折関係者の出入りはあるのかもしれないが、建物としてはかなり長い間放置されていた。見上げると、外壁は汚れとサビとツタに覆われ、鬼気迫るものがある。

 もちろんビルは立入禁止だったが、高校生たちは不法侵入を決行した。壊れた窓ガラスから無理矢理入って出入口の鍵を開け、さらに男子数人で建物の中の安全を確認してくると、早速ジャンケンで決めた順番で肝試し開始となった。

「ねえ、ちょっと本格的すぎるよ。やだよ」

 典子は真っ先に弱音を吐いた。他の女の子たちも物怖じしたが、もちろん、男子一同が楽しみにしている肝試しが中止になるはずはなかった。

 順番が来て、良貴が優しく典子に声をかけた。

「典子先輩、行きましょうよ」

 典子はそれでもさんざん渋ったが、弘志に突き飛ばされ、押し出され、最後には襟首をつかんで建物に放り込まれた。良貴がフォローするようにすぐ後からついて入った。

「怖い、怖い、怖い、怖いよ~」

 課題は最上階まで上って下りてくることだったが、一階の廊下を歩いているだけで典子はひたすら「怖い」を唱えていた。

「大丈夫ですよ」

 良貴はそう言ったが、中はかなり気味の悪い状態だった。足元はほこりのせいかコンクリートの割にやわらかく、思いがけないところで硬い何かを踏んではヒヤッとする。あちこちに物が積んである。内部の取り壊しを始めた気配があるのに、積み上げられたコンクリート塊などはそのままほこりをかぶっている。

「…なんでこれ、壊すの途中でやめちゃったんですかね」

 良貴が言うと、典子は一瞬のうちにさまざまな空想が脳裏をよぎり、全身に鳥肌が立った。

「そういうこと、言わないでよー」

 典子は泣きそうな声で言った。本当は良貴の腕にでも袖にでもつかまりたかったが、恥ずかしくてそれはできない。けれど不安でたまらなかった。

「怖いことは言ってないですよ」

「ううん、怖いよ」

 エレベーターは使えなかったので階段を探した。階段はすぐに見つかった。

「前の人たちも、この階段を上ったんですかね」

 宿で借りた懐中電灯をかざして良貴は進んだ。典子はすぐ後ろを歩いた。五階くらい上ったところで、階段に椅子やベッドが置かれていて、通れなくなった。

「肝試しにちょうど良くできてますね。まっすぐ最上階に上れないようになってますよ」

 良貴が階段のドアを開け、廊下に出ると、途端に悲鳴が聞こえた。典子は思わず良貴の腕に軽く飛びついた。良貴も肝が冷えた。

「な、なんだよ、おまえらかよ」

 という声がした。それは前に入った二人組だった。

「あ、なんだ、びっくりした」

 良貴はホッとして言った。

「大丈夫ですよ、先輩」

 良貴が振り返ると、典子は腕につかまったまま無言で涙を流していた。

「もうやだ、帰る」

 典子は「クジを作る」などと言って肝試しを推進したことを心から後悔した。

 出くわした二人は、「突き当たりに通れる階段があるけど、下りる方は通りにくくなってるから」と言い残してすれ違っていった。良貴は、典子が腕につかまっていることについて、典子自身が女性として良しとするかしないかを慮って微妙な迷いをたたえていた。典子はハッとして、慌てて良貴の腕を離した。それから掌で無造作にガシガシと顔の涙を拭いた。

「もうやだー、帰るー、帰ろうよ、其田く~ん」

「…じゃあ、一人で戻りますか?」

「嫌だ、ひどいよ~」

 もう一つの階段に出ると、どこかからかすかに人の声が聞こえた。

「其田くん~」

 典子は蚊の鳴くような声で言った。良貴は「しっ」と軽く典子を制し、耳を澄ました。暗闇の奥からはずっとぼそぼそと話す声が聞こえていた。男の声のようだった。良貴は幽霊より、住み着いた浮浪者や潜んでいる犯罪者などを恐れていた。懐中電灯の光を消して近づき、耳をそばだてると、少しずつ話し声が聞き取れるようになってきた。

「緑ちゃんがクジで当たったとき、マジラッキーと思ったんだよ」

「えー、ウソですよ、そんなの」

「ホント。とりあえずさ、つきあってみない? カレシとかほしくない?」

 滝野川と谷口緑の声だった。良貴はホッとして、光が広がらないように下向きに懐中電灯を灯すと、その光の中で典子に「行きましょう」と手でジェスチャーした。

 最上階らしきフロアの広間に着くと、典子はやっと、

「あー、びっくりした。通りにくくなってるって、そうゆう意味か~」

 とため息まじりに声を絞り出した。

 この最上階の奥の部屋に置かれたメモ帳に名前を書いて戻るのがルールなので、良貴は懐中電灯であちこちを照らしながらメモ帳を探した。典子は怖がってずっと下を向いていた。そんな典子をさりげなく気遣いながら、良貴は淡々と任務をまっとうした。

(…其田くんって、結構男らしくて優しくて、しかも頼もしくて、すごいよ)

 典子は、初めに良貴に抱いたイメージとの落差に、心の平衡感覚が揺れていた。内気で気弱そうな新入生だと思っていた。「だから、私が元気づけて勇気づけて、体操部に馴染んでもらわないといけない」…そう思っていたはずなのに、良貴は優しくて落ち着いていて、安心できる人だった。――多少、肝試しのマジックも加わってはいたが。

「先輩、メモ帳ありましたよ。名前書いてください」

 良貴に言われたとおりに典子は名前を書いた。

 階段を下りていくと、どうやら滝野川と緑は出ていったようで、良貴と典子はそのまままっすぐ階段を下りることができた。一階の廊下の途中で、つきあたりから懐中電灯が向かってくるのが見えた。

「誰かな? オバケ?」

 典子は一階に着いてからすっかり調子を取り戻していた。

「誰?」

 響いてきたのは美恵子の声だった。典子はますます元気になった。

「あ、美恵ちゃん。じゃあ、弘志もいるの?」

「いるよ」

 典子の声に弘志の声が答えた。懐中電灯はお互いに歩み寄った。

「美恵ちゃーん。怖いよ、中~。超、怖いよ~」

 典子は一生懸命言った。美恵子はうんうんとうなずきながら典子の肩をぽんぽんと叩いてあげた。弘志は良貴に苦笑を向け、親指で背後の典子を指した。

「典子じゃ、大変だったろ。泣いたんじゃない?」

 良貴は苦笑して、

「…暗かったから…、視界が悪くて」

 とごまかすように言った。典子はそれを聞きつけて、

「あ、其田くん、ヒミツだよー」

 と言った。せっかくごまかしてあげたのに台無しだ。すっかりご機嫌の笑顔になっている典子を見て、良貴は笑いそうになった。

 良貴と典子は外灯の輝く外に出て、弘志と美恵子は暗い階段を上っていった。

 弘志も美恵子と二人、やや緊張していた。まだ特定の女の子に縛られたくないと思う反面、高校時代に彼女がいないのはまずいような気もする。相手は誰がいいかと考えると、〝典子との兼ね合い〟なんてことを考えても美恵子が妥当だろう。

 美恵子は足元の段差につまずき、転びかけた。

「つかまる?」

 弘志はさりげなく言ってすっと肘を出した。美恵子はおずおずと、けれど稀有なチャンスを決して逃さないように弘志の腕につかまった。めまいがするほどドキドキした。

(告白しちゃおうかな…)

 この合宿中、他の女の子たちが弘志に微妙なアプローチしているのを見ていた。気持ちは急いた。

「お、あったあった、メモ帳。コレ、名前書いて」

 最後の弘志たち二人がメモ帳を回収することになっていた。美恵子が名前を書き、弘志が名前を書いてからメモ帳とペンをポケットにしまった。

「じゃあ、戻ろうぜ」

 弘志は軽く美恵子の方に腕を出し、とても自然につかまらせた。人生において男性と腕を組むことなどなかった美恵子でも、それまでの流れに任せて照れたり気負ったりせずに思わずつかまってしまうほど自然だった。

 真っ暗な長い長い下りの階段で、美恵子は足を踏み外した。とっさに弘志の腕に強くつかまって、なんとか落ちずに済んだ。弘志は美恵子を支えたまま「大丈夫?」と訊いた。美恵子は弘志の腕に顔を埋めるようにして、唐突に、

「江藤先輩、あの、好きです」

 と告白した。それらしい雰囲気も気配も何もなく、あまりに突然の出来事だった。

「すみません、いきなりこんな話しちゃって、でも、あの、ずっと前から、好きだったんです。つきあってください」

 美恵子は一生懸命言った。弘志は返答に困って立ちすくんだ。知っていたから驚きはしなかったが、考えるべきことはいろいろある。今はとりあえず、何か「聞き取ったよ」というくらいの意味で、言葉を返さなければならない。

「え、そうだったんだ。アリガトウ」

 やっぱりこれだけじゃ済まないよなあ…と思い、一生懸命考えて言葉を継いだ。

「…考えとくよ」

「どのくらい、考えてくれるんですか?」

 美恵子は不安になってつかまる腕を緩め、顔を上げて訊いた。

 弘志にとっても、美恵子は十分魅力的だったし、そんなひたむきさをかわいいとも思った。だから、ちょっとだけ報いてもいいかなと思い、暗闇の中で美恵子の肩に腕を回した。美恵子は心臓が止まるほど驚いた。

「…このくらいは、考えとく」

 弘志はいきなり、わずかに触れるくらいに美恵子にキスをした。

 美恵子はぼうっとして、そのまま手を引かれて人形のように階段を下りた。

 弘志は外に出る前にさりげなく美恵子の手を離した。他の、自分目当ての女の子たちに「中で、何事かあった」と思われるのは困る。そのまま紳士を気取って美恵子を先に出し、自分は余裕の表情で手を振って皆に出迎えられた。

 全員が揃い、体操部の群れは宿に戻るため歩きだした。月明かりが時折陰る中、防砂林に沿って隊列は進んだ。

 美恵子がずっとぼうっとしていたので、典子は不審に思って顔をのぞきこんだ。

「美恵ちゃん、どうだった?」

 美恵子はうっとりと潤んだ瞳で典子を見返した。そして、周りに人の耳がないのを気配で確認してから、うっとりした声で言った。

「…キスされちゃった…」

「えーっ!」

 典子は小声で、でも最大の驚きをこめて叫んだ。

「なに、なに、どういういきさつで?」

 美恵子は夢見心地のまま、遠い目をして答えた。

「好きですって告白したの。そしたら、考えとくって…それで」

「返事はそれだけなの? そんなことしたのに!?」

「…うん、…それだけだった」

「えー。じゃあ、答え、わかんないじゃん。でも、OKのつもりなのかな?」

「うん、OKじゃないんだと思う…。でも、可能性はあるんだと思う…」

 弘志の意図はちゃんと美恵子に伝わっていた。

「うっわー、むかつくー。それでそーいうこと、する~?」

 典子は弘志の態度が断固として納得いかなかったし、なんだか親しい人同士がキスを交わしたというのがなんだかすごくショックな気もした。

 弘志と美恵子が気になる一方で、典子は、目が良貴を追ってしまう自分に気付き、困惑していた。

 恋ではなく、ひいきの男の子。典子は自分にそんな風に言い聞かせた。

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