第一話「選ばれた男」
春が冬を追い越し、暖かくなってきて、桜も咲き乱れる今日。
今年からめでたく、新高校生となる少年――柴田春希は、とある一大決心をしていた。
それは――今まで校則によって禁止とされていた、バイトをする事である。
春希の家庭は決して裕福とは言えず、かと言って、格別な貧乏というわけでもない。
両親は共働きで、いつも夜遅く帰ってくる。それに加え、春希の他に、今年から中学二年生になる弟が一人、小学五年生になる双子の妹が二人いる。
両親がほとんど家を空けているため、春希は今日まで、近所の人に協力してもらいながら、家事やら弟たちの世話をしてきた。しかし今では、去年、春希が受験生になったのを機に、近所で、昔から馴染みがあり、母親の親友である木下由紀子が家事と世話の殆どをしてくれるようになったのだが。
故に、春希は知っている。自分の家庭に、贅沢をする余裕などないことを。クリスマスや各々の誕生日などのイベント時には、木下家のご厚意に招かれて、木下家が開くパーティーを楽しんできた。だが、そこに自分たちの両親はいない。その事実が、彼らを今まで悲しませてきた。
だから決めたのだ。
自分も稼ぎを入れ、少しでも両親を楽にさせること。
親切な木下家に、お世話になってばかりでいられるわけでもない。今度は自分が、木下家に恩返しをすることを。
しかし、たかが高校生。稼げる額もたかが知れている。複数のバイトの掛け持ちも考えたが、それだとトラブルが発生しやすくなり、さらに迷惑をかけてしまう可能性があるため、断念した。
さて、どうしたものか。
悩みつつも、前向きに良い案件がないか、街中を歩いて模索する。春希の目に、電柱に貼られた一つの広告が飛び込んできた。
その電柱に向かって歩を進め、それを覗いてみる。
『人類のために、葵のもとで働きませんか? 報酬は巨額の富となります』
(人類のため? 巨額の富?)
今までに見てきた広告にはない文句に、少し戸惑う。
明らかに怪しい。絶対、こういうものには裏があるものだ。
「そんなうまい話無いよな」
そう呟き、その場から離れようとする。だが、『巨額の富』という言葉に名残を惜しむ。
何故、具体的な金額を提示せず、『巨額の富』と表したのか。これじゃあ、誰もが怪しむ内容を一層怪しめているものだ。
その場から離れようとした足を踏み止め、もう一度、例の広告を見る。当然、何度見ても内容が変わることはなく、例の文と、その周りに、頑張りましたと言わんばかりに描かれた動物の絵だけだ。犬やライオンなど、ポピュラーな動物に加えて、グリフォンやユニコーンなどファンタジーなものも描かれている。
その時、もう一つ不審な点に春希は気づく。
(これ、問い合わせ先無いじゃん)
一体、この求人先は何を考えているのだろうか。万が一でも、この広告に興味を持った者をどうする気だったのか。
「……はぁ」
改めて思うその広告の阿呆らしさにため息をつく。
この広告は怪しいところの物だと断定したところで、さっきまであった名残は完全に消え、今度こそ、その場を離れようと足を踏み出した、その瞬間――
「お前、それに興味を示したのか」
背後から聞こえた、男性か女性かは判別し難い、中性的な声。瞬間的に反応して、後ろを振り向く春希。しかし、振り向いた先には、今まで見ていた広告と、それが貼られていた電柱だけだった。
……気のせいか?
「こっちへ来い」
二度目の謎の声。周りを見渡すが、声の主と思わしき影は見当たらない。いやまず、この場に春希以外には人っ子一人いない。
こっちへ来い、と言われた。呼ばれているのだ。何故。あの広告と、何か関係があるのだろうか。……もしそうだったら、やはり関わらない方が……
「こっちだ」
「お、お前は誰なんだ!」
また聞こえた謎の声に、意を決して、春希は聞き返してみる。
……静寂。春希の問いに、返事は返ってこなかった。
(何なんだよ、一体……)
少し気味が悪くなってきた。早く、この場から離れたい気持ちに駆られてくる。
そして、春希は足を一歩――例の電柱がある先の裏道へ向けて、進める。
(……あれ? どうして俺は、こっちに向かって歩いているんだ……?)
身体が思うように動かない。誰かに操られているかのように、自分の身体が勝手に動いている。春希の頭はこの状況を上手く飲み込めず、混乱していた。
裏道に入って少し歩いたところで、春希の身体は自由が利くようになってきた。
「よしよし、来たな」
「来たなって……俺の意思でじゃ……」
「それは違うな。――あの紙にかけた催眠は、『己の本心に従え』と言うものだったからな」
「さ、催眠……? 本心って……どういうことだよ」
未だ正体の知れない者が話す、意味の分からない事に、春希の頭は益々混乱状態に陥っていく。
「お前、あの紙の内容の何に興味を持った。言え」
自分の質問には答えず、一方的に訊いてくる奴に、少し苛立ちがこみ上げてくるが……仕方ない、ここは相手の思うようにしてやろう。
「……ほ、報酬だ。それ以外に無いだろ、あの内容に!」
「ほう……つまり、『巨額の富』だな。欲しいのか、莫大な財産を」
「あ、あぁ」
「何故だ」
「何故だ、って……それは……お、弟たち――家族のためだよ! 俺は、あいつらにもっと笑顔を……!」
「家族を笑顔にしたい……。そのための、『巨額の富』……つまり、一つの欲望のための、もう一つの欲望、か……」
欲望……確かに、この思いはそれに属するものだ。しかし、それがどうしたというのだ。奴は何故、そんなに気をかけているのだ。
奴の反応に疑問を生じ、少し考えていると、「分かった」と奴の声が聞こえてくる。
「それはよかったな。じゃあ、次は俺の番――」
「では、案内しよう」
「なっ……だから、俺の話を少しは聞け……っ!? な、何だよこれ!」
突然、今まで目の間に広がっていた光景が、パズルのピースのように崩れ落ちていく。挙句の果てには、春希を真っ暗な闇が包み込んでいた。
その光景をただ、春希は呆然と眺めていた。数秒後、ふと我に返り、奴に向かって叫ぶ。
「何をしたんだよ……俺をどうしようと言うんだよ!」
「君は選ばれたのだよ」
半ば奴の返事を諦めつつ問うた、春希の問いに、初めて奴が答えた。しかし、それは春希の問いの意図には沿わないものだった。
(選ばれた? 何にだ? あの広告に書いてあった、人類のために働く者にか?)
春希は頭を回らせる。奴の言葉の意味は何なのか。人類のためとはどういうことなのか。
しかし、それらの答えに辿り着く前に、次なる現象が春希を襲う。
「では、来てもらおう」
その言葉が聞こえた直後、春希の身体に浮き上がる感覚が襲いかかる。自分は飛んでいるのか? そう思った直後、突然、瞳に飛び込んできた景色を見て、それは間違っていると確信した。――春希は遥か上空から落下していた。
「うわあああああああああああああああっ!!」
あまりにも突然な出来事に加え、自分の命が危機に瀕していると分かった春希は、ただただ絶叫していた。
(何だよこれ! 何なんだよこれっ!? 俺は死ぬのか!? わけの分からないまま、あいつらを置いて、誰にも恩を返せてないまま、今ここで死ぬのか!?)
刻々と近づいていく地面との距離。あの地面に到達した瞬間、自分の身体はどうなってしまうのだろうか。想像して身を震わせる春希。
一旦、周りを見渡す。今まで自分がいた裏道――町ではなかった。山に囲まれ、南には海があり、中央には高層ビルなどの建物が並ぶ大都会。自然と技術が共存する町が、そこにはあった。
「おや、君が新しくこちら側に来た人間ナン? ウェルカムトゥアンダーグラウンド! ナン!」
「――っ!? ど、どこから!?」
自分を、この意味のわからない状況に追いやった張本人の声が聞こえてきた。だが、またもや姿は見えない。
「ここだよ、ここ……ナン! 君の後ろナン!」
「後ろ……?」
遂に奴の姿が見れる。内心ドキドキしながら、春希はゆっくりと、後ろを振り返ようとする――が、何者かに首を固定されているのか、全く動かない。
「ぐっ……」
「まあまあ、落ち着いてよ! こんなところで初めての対面っていうのは、ちょーっと残念な気がしないかナン?」
「しねえよっ! ていうか、俺に次はねえんだよ!」
「どうしてナン?」
「この状況から分かるだろ!」
おかしい。裏道で会った時の奴と、何かが違う。声は一緒だ。だが、今話している奴は……アホっぽい。
「……ふむふむ。君がこっちへ来る事に決まった欲望は……何これ……ナン」
「おい、何を一人でぶつぶつと言ってんだよ」
「うーんとね、今ね、君の情報を見ていたところでね、ナン」
(俺の情報? 一体どうやって知り得たんだ……?)
「ぶふっ。君って、なかなか面白いナーン」
「……は? 俺が面白い?」
「でもね、これじゃあ駄目なんだよねーナーン。この程度じゃ……ナン」
奴は何を言っているのだろうか。分からない。だが、少しイラッとくる。
「たしかに、面白いっていうのも判断基準にしたけどナーン……少し修正しなきゃナン……」
「おいっ! 一人でぶつぶつ言ってねえで、少しは俺にも情報を――」
「ナンッ! ……ンン、これは面白くなりそうだナン!」
春希を置いて、一人だけで話を進めていく、奴。春希は頭が痛くなってくる。
「あーっと、もう時間が無さそうナーン」
「時間って……うおおおおおおおおっ!?」
気づけば、今まであれだけ遠かった地面が、ほんの数百メートル近くにまで近づいていた。
「あ、そうそう。ボクはレガナン。よろしくね」
「このタイミングで自己紹介とかふざけ――あああああああっ!!」
「またね、春希クン。君の健闘を祈って……グッナン!」
「健闘って、どういう意味――あっ」
レガナンが話を切り終えたところで、地面まであと残り、百メートル。
九十メートル。
八十メートル。
七十メートル。
そこからは早かった。一瞬にして、自分の身体は、かなりの勢いで――地面に叩きつけられていった。




