第十三話「脱出不可能」
薫は七菜荘に戻り、春希だけとなり、ベンチにスペースが空く。春希はそこをポンポンと叩いて、ある者の名を呼ぶ。
「おいでよ、レガナン」
「呼んだかナン?」
音もなく、空気を乱すこともなくして、そいつは、レガナンは春希の隣に座った。改めてその姿を見ても気味が悪い。
「もう一度聞くけど、本当に十年経って追放されるより早く、現世に帰ることはできないの?」
これは確認のためでもあり、腹を括るためでもあった。本当に無いのであれば、十年間我慢してやる。そんな覚悟で訊いた質問。それに対しレガナンは、一瞬ニタッと笑ってゆっくりと口を開き、
「あるよ」
と短く、しかし、しっかりと答えた。
「ほ、本当!? あるんだな、ここから脱出する方法が! 教えてくれよ、レガナン!」
早くあいつらに会って安心させたい。もう迷惑をかけたくない。といった現世に残してきた者たちへの想いと、七菜荘のみんなを喜ばせたいといった想いで、春希はレガナンに強く問い続ける。
すると、レガナンは「ケヒヒッ」と薄気味悪く笑った。
「あるにはあるナン。でも、実行可能とは思えないナーン」
「な、なんだよそれ……。言ってみろよ、その方法を!」
すごい剣幕で問い詰める春希に、レガナンはニヤッと不敵な笑みを浮かべ、答える。
「欲望の枯渇、だナーン」
一瞬、レガナンが言い放った言葉の内容を理解できず、春希の動きが止まる。そして理解した途端、ははっと気の抜けた声が出る。
「なーんだ、そんなことでいいのか。欲望の枯渇? 賢者になれってこと? ははっ、上等じゃん。なってみせ――」
「無理だナン」
「……は?」
またして無理だと言い張るレガナン。その言い草、表情に煽りのようなものは含まれていなかった。まるで、諦めろと諭しているかのように見える。
「……どうして無理だって言い切れるんだよ」
「うーん、そうだナーン。春希クン。質問に質問を返すようで悪いけど、答えて欲しいナン。――人間の動力源って何ナン?」
「は? 人間の……動力源?」
動力源とはつまり、エネルギーの事だろうか? 人間を動かすエネルギー……
「食べ物か?」
「ブッブー。春希くーん、頭固すぎナン」
レガナンの物言いに、少し苛立ちを覚える。
「じゃあ、正解は何なんだよ」
「ナナン? 正解は――欲望だ、ナン!」
レガナンの答えに、春希は訝しげな顔をする。レガナンはそれを見越していたのか、ニヤリと笑い、話を続ける。
「春希くんが出した解答の『食べ物』、確かに、消化された食べ物は体に吸収されてエネルギーになるナン。じゃあ、なんで人間はそのエネルギーを作るナン?」
「そ、それは、生きるため――」
「そう! 生きるためだナン! つまり、生存欲!」
その言葉を待っていたかのように、レガナンの声が跳ね上がる。
「美味しいものが食べたい、珍しいものが食べたい――食欲! 愛するモノを独り占めにしたい――独占欲! 多額の金が欲しい――金銭欲! 異性と肉体的な関係を持ちたい――色欲! 何人の上に立ち、それらを支配したい――権力欲! ……他にもまだたくさんあるけど、聞きたいナン?」
そんな、レガナンの気遣いなのか分からない問いに、春希は首を横に振る。
「人間の行動は、必ず欲望が指示したものなんだナン。今の春希くんみたいに、ボクにこのことを訊いてきたのは、知りたいという欲――知識欲、元の世界に帰りたいという欲――帰省欲などなど、そういう欲望が、君を動かしたんだナン」
レガナンが口にする言葉を一つ一つよく聞いて、頭の中で考える。
レガナンの言う通りかもしれない。どんな行動にも、きっかけとして、それをしよう、したいという欲望がある。
その事実を踏まえて、春希は問う。
「じゃあ、動力源――欲望を失った人間は、どうなるんだ?」
「そうだねぇ、言うなれば、廃人、かナン?」
「は、廃人……!?」
「そうだナン。生きたいとも死にたいとも思わない、食欲も睡眠欲も金銭欲もなんもなーんも無い、廃人だナン」
動力源を失った人間。そうか、ガソリンを失った車は動かない、電気を失った豆電球は光らない。欲望を失った人間も――動かない。
「ノルマを達成しないのが決定づけられた人間なんて、ボクはいらないナーン。だから、そうなってしまった場合、元の世界に帰してあげるんだナン!」
そこで、春希はあることに気付く。この世界で絶対とされる、五つのルール。その二つ目に確か――
「ねえ、レガナン。五つのルールの二つ目、『現世に戻った際、この世界で培った知識、記憶の一切を失う』。これによって、この世界での経験が消去されるって事は、欲望がなくなったって事も消去されて、欲望は再び湧いてくるんじゃ――」
「それは無いナン」
「……えっ。な、なんでだよ!? この五つのルールは絶対じゃないのかよ!?」
「絶対だナンよ?」
しれっと返すレガナンに、春希は再び苛立ちを覚える。
「じゃあ、なんで無いって――」
「春希くん。その二つ目のルール、しっかりと思い出して欲しいナン。――『一つ目のルールにより追放され、現世に戻った際』。これが前提とされてるはずナン」
「なっ……!?」
その前提である、一つ目のルール――『エージェントは十年間しかこの世界に住めない。十年経ったら即追放』。つまり――
「十年間経過して追放された時だけ、二つ目のルールが適用されるってわけ?」
「ピンポンピンポーン。大正解だナン! つまり、廃人になってこの世界を追放された際は、二つ目のルールは適用されず、廃人のまま現世で暮らしてもらうようになるナーン」
もしそうなってしまった場合、どうなるだろう。春希は考える。
現世に戻り、再会することによって、知人から行方不明という不安は解消される。だが、また新たな不安、迷惑を知人に与えることになるのではないか? 食べようとしない、話そうとしない、何もしようとない自分が帰ってきて、嬉しいだろうか? 否、そんなわけがない。むしろ――邪魔だ。
「……ンー、それにしても、春希クン、さっきから少し口調が荒くないかナン? あれかナン? みんなのために頑張ろうとしてるからかナン? ナナナーン、ちょっと笑っちゃうナーン」
それを言われて、初めて春希は自分の口調の変化に気づく。と同時に、疑問を一つ持つ。
「どうして俺がみんなのために訊いたって分かるんだ……分かるの?」
その問いに、レガナンは笑いながら返す。
「だって、ボクはこの世界の支配者だナーン。この世界で起きていること、全部知っているに決まっているじゃないかナーン」
「なんだか偉そうだね」
「実際にそうだナン」
レガナンはベンチから降りて、とことこと短い足で数歩前に歩く。
「それじゃ、ボクはそろそろお暇しようかナーン」
「待ってよ。もう一つ、質問いいかな」
「ナナン? また質問かナン? 欲張りだなぁ、春希クン。でも、欲深いことは結構なことだナン! ズバリ、その質問とは何だナン?」
「俺がに欲が無いって分かって、どうしてこんな力を与えるだけで、この世界から追放しなかったのかな」
一瞬、レガナンの表情から不気味な笑みが消えたが、レガナンはまた、いやそれ以上に不気味な笑顔を浮かべる。
「……どうしてそんな事を聞くんだナン?」
「そもそも、薫たちがディザイアフラワーの内容が見えないこと自体がおかしいんだ。俺には欲望促進のためとか言ってこの力を渡しておきながらさ。……ねえ、君はこの世界を作った理由に、現世の人間の欲望をコントロールするためだとか言ってたよね。でも、裏にもっと違う理由があるんじゃないのかな」
春希が言い終わると、静寂が訪れた。レガナンは何も答えず、固まっている。もう一声入れようと春希が口を開けた瞬間、レガナンは歩き始め、淡々と述べていく。
「神は人間を作ったナン。動源力として欲望を持たせたナン。すると、人間は神が予想していた以上に欲望に操られる人間であることが発覚したナン。それと同時に、人間と欲望の二つの関係は、単なる生き物と動源力のものじゃないことが分かったナン。それを神は、とても不思議だと感じたナン。
人間は己の欲望でペットを飼い、己の欲望でペットを捨てるナン。それに対して、人間は最低だと言うナン。でも、捨てられたペットを見た人間は、可哀想だと思う気持ちの中に、少しだけ喜びを見せるナン。どうにかして自分が飼ってやろう、それはその捨てられたペットを想う気持ちからきたものかもしれないけど、そうじゃない気持ちも絶対に混ざっているんだナン。
人間は死を恐れているナン。でも、時折人間は、逃げ道としてその恐怖を選ぶナン。最も強かった欲望を超えるナンね。しかもその中には、自分が好きだったもの、例えばギターを弾くのが大好きだった人間の中には、ギターの弦で自分の命を絶つ人間もいるナン。そう、自分が大好きだったものを、殺人の道具にするんだナン」
そこまで言って、レガナンは足を止める。首だけ振り返って、一層不気味な顔を春希に向けて言う。
「ほんと、人間って不思議だナン」
それだけ言うと、レガナンは春希の質問には答えずに、一瞬で姿を消した。




