第十話「最後の一人」
あの後、瑤香は体などを洗わず、シャンプーだけをした状態で浴場を出て行った。一人になった春希は、頭や体を洗って、浴槽に浸かった。その間ずっと、瑤香に言われたことを考えていた。
「助けて欲しい、か……」
その後、彼女は続けた。「この世界に長居するべきでない」と。それは何故なのかは話さなかったが、重大なことなのは彼女の声色から感じ取れた。
結局考えはまとまらないまま、逆上せる前に浴場を出る。今日は既に五回ディザイアフラワーを使ったため、着替えは準備できず、着ていたものをまた着る。
「ふわぁ……」
あれから部屋に戻ってしばらく考え込んでいると、欠伸が出た。春希は自分が思っている以上に体が疲れていることに気づき、今日はもう寝、明日考えることにした。周りは静かで、どうやら既に春希以外の者は寝てしまっているらしい。
畳んで置いてあった布団を床に敷き、布団の中に入る。暖かくなってきたとはいえ、まだ朝と夜は冷え込むこともあり、布団の中に入るとぽかぽかと気持ちよくなってくる。
「それに、この布団いい香りがするな……」
そんな呟きをした直後、春希は気づく。この布団の香りの正体に。
「そ、そういえばこれって、薫の……」
薫のお下がりの布団であることを思い出し、顔が一気に熱くなっていく春希。頭は混乱し、掛け布団を剥ぐか剥ぐまいかを考え始める。
「ど、どうしよ……や、やばい、すごい暑くなってきた……暑い……って、本当に暑い!」
春希は布団を思いっきり剥ぐ。その額には、汗がにじみ出ている。
「まるで夏だよ……あっ、もしかして!」
春希は廊下に出て、玄関までなるべく音を立てないように慎重に進み、静かに戸を開けて外に出る。
七菜荘から少し歩いたところに、人影が一つあった。
「やっぱり」
街灯が一つもないため、辺りは真っ暗で、黒いシルエットでしか把握できないが、その影はしゃがんで何かを探しているということだけは容易に分かる。
よく見えてはいないが、春希はその影が何をしているのかが分かっていた。たぶんディザイアフラワーを探しているのだ。急激に夏になったのも、あの影が《夏が早く来て欲しい》というような内容のディザイアフラワーを摘み、嗅いだからなのだと。
加えて、春希はその影の正体も分かっていた。それは今まで春希が出会った七菜荘の住人の影ではない。春希はその影に近づいて、影の正体の名を口にしようとした、その時、
「――あっ、そ、それはダメだ!」
春希は己の目に飛び込んできた文字を認識し、叫びながらその影を突き飛ばす。すると、影が横に倒れていくのとは反対に、文字は春希の方に飛んで行き、春希の鼻の前にきたところで――春希は鼻で呼吸をしてしまう。
「うぐっ……あ、あああ……かはっ」
文字が消えると同時に、春希は胸を抑えて苦しみ始める。しまいには両膝をついて、地べたにぶっ倒れる。
春希は苦しみの中、さっき見た文字を思い出す。――《死んでしまいたい》。それは、この夜という時間帯が招いた、欲望。夏という季節も、影響しているのかもしれない。
目を閉じてもがいていた春希だが、近くに気配を感じ、ゆっくりと目を開ける。すると、そこには先程春希が突き飛ばした影、いや、七菜荘の住人の最後の一人である楓が立っていた。
「あはっ……あははっ……あはははっ」
楓の笑い声と、歪んではいるがどこか嬉しそうな顔を認識した瞬間、春希の意識はぷつんと途絶えた。




