第九話『あなたの心が知りたい』by無駄に哀愁のある背中
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結局、日取りはお互いに前期末テストが落ち着いた頃、夏休みの直前の金曜日である明日になった。よくよく考えれば、期末テスト直前に飲み会とか、あの八木達の合コンは一年生のくせに肝が座っている。まあでも、今日のために八木と一緒にオシャレだと思われる服装を使いどころもなく無駄に溜まっていたバイト代を使って購入して、デート場所も考えた。八木の提案で、初デートで大学の後だからそんな重すぎないように、一本映画を見て夕食をするだけのプランになった。宮野さんとは連絡を取り合って思ったが共通の話題があまりなかった。それもそうだ、育ちも環境もすごく違うのだから。だからこそ、共通の話題を作れる映画になったというのもある。宮野さん……君は一体、なにを考えているだ? 僕に対してなにを思ってくれてるのだろう? ただ、『君のこと』が知りたい……。
携帯を握りしめて、机に座りながらそんなことを思った。部屋に置いてある扇風機が顔に当たる。夏のまとわりつくような暑さを感じながら、窓から外を見た。
明日は晴れるといいな……天気予報は通り雨程度は降るって言っていたけど……。
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お父様を出し抜く一番の確実かつ怪しまれない方法というのは存在する。大学のクラスメイトとのうちでお泊まり会としてしまうことだった。これをすると、帰りがこの前にみたいに遅くなっても大丈夫だし、お父様が私の友達と連絡を取るはずもないから問題はない。この前にみたいに社会体験のためのとかいう中途半端に正しい理由で飲み会に行くとああなりかねないし……。だから、明日は泊まる先の宛なんてないのに、お父様にはそんな嘘をついた。でも、それぐらいしても七海さんに会いたいんだ。それが、ありのままの『宮野美葵』の意志なのだから。
私はもう寝てしまったお父様宛の置き手紙に、そんなことを思いながら『友達の家に泊まります! なので、夕飯は要りません』と嘘を書いた。エアコンの微かな音が聞こえる……冷房の二十五度に設定された室内は快適だった。
明日は晴れるのかな? 多少雨が降って、涼しくなるといいけど……。
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涼しげなワンピースを着た女の子が駆け寄ってきた。
「ご、ごめんなさい。待ちましたよね……?」
「待ってないですよ! まだ、待ち合わせ5分前ですし!」
宮野さんは軽く息を切らしながら、そう言った。走って少し酸素不足になった顔は紅色にほんのりと染まっていた。会うのはあの飲み会以来初めてであったため、あの暗い夜では気付かなかった宮野さんの様子が見えた。髪は黒で驚く程ストレートに伸びた黒髪だった。それに対して、顔は色白とまではいかないけど白く、顔のパーツをはっきりとさせている。目は相変わらず大きく、鼻筋はすーっと通っている。そして……。いろんな言葉が彼女の顔を表現し続けて、脳みそにその言葉と宮野さんの表情が写真の様に保存されていく気がした。
「あの、私、なにか顔についてます……?」
「え、いや、なんもくっついてないです!」
「じゃあ、ここで立ち話もなんですし、早いですけど映画館行きませんか?」
「うん、そうしましょう!」
宮野さんに指摘されるまで、じーっと彼女の顔を見ていたようで、宮野さんに言われて初めて気がついた。にしても、宮野さんと自分自身の敬語が二人の距離感を強く感じさせた。
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私はまだ自分が……いや周囲の人間に作ってもらった『宮野美葵』の殻を破けていない。来る前に使わないように決めていた敬語も自然と口から出てしまった。本当の“弱い”私を見てもそれを受け入れてくれた七海さんを失望させてしまった感じがした。私は七海さんの気持ちを知りたいがために、私を一心に見てくれているのに「あの、私、なにか顔についてます……?」なんていう、まるで喧嘩を売るようなこと言ってしまうし……私は本当に愚かだ……。
今だってそうだ。映画を見ているのに意識は映画には全くない……。右斜め下の視界に入る彼の飲み物と左腕が気になって仕方がない。七海さんはこの映画にどんな気持ちで見ているのだろうか? でも、面と向かって彼の顔を覗く勇気もなければ、『宮野美葵』という人間はそういう能動的な行動をしないという額縁に囚われたままだ……。ただただスクリーンの映像変化を眺めている自分にため息が出そうだった。
その刹那、彼の左腕が動いた……。
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さっきから映画を映画として見れていない。映画は割と好きな方だ。でも、今は全く集中ができない。きっと、横に宮野さんがいて異常に意識してしまっているからだ。宮野さんの細い右手が足の上に置いているのが視界の端に見えているだけで、その手をさりげなく握れれば……と思ってしまう。でも、それは向こうからの了承を得てすることなんじゃないか……グルグルと考えが回り動けない。すると、なぜだかあのウザイ先輩のドヤ顔と言葉を思い出した。
『ヒントは能動と受動、だ』
……うるさい! 今は能動的になるべきじゃないんだ。きっとそうなんだ……そう……。
『やればできんじゃん、そのまま押し切っちまえよ。逃げるとか逃げないとかそういうんじゃなくてよ、たまには思ったまま行動してみろよ。どうせ言ったりやったりするまえにぐるぐる考えすぎて迷うんだろ』
まさかこんなことを思う日がくるなんて……負けましたよ、先輩。悔しいけど、あなたはこのことに関しては正しいよ。このことについて『だけ』だけど。
僕は宮野さんを驚かせないように、左腕をゆっくり動かして、その細い右手の上に自分の左手を添えた。添える瞬間、僕は怖くて目を閉じてしまった。だが、不思議なことが起こった。僕の左手の感触がヒトの手の甲を触ったような感覚でない……。例えるなら、握手に似た感触だった。
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ゆっくりと七海さんの左手が私の右手に近づくのが見えた。私はとてもびっくりしていた。もしかして、この人は……私の殻を外から割ってくれようとしてくれるのかな? 最初は手を逸らそうと思った。でも、私は七海さんのこの行為から逃げるということはこれから先も逃げ続けるということをどこかで理解していた。たった数秒の出来事のはずなのに、色んなことが頭の中を流れた。でも、ある声でその流れは突然止まった。
『もっと自分のしたいようにしなさい。あなたは『宮野美葵』であなたの人生はあなたのものなんですから』
その声はずっと前に聞いた声……お母様の声だった。お母様がお父様の家から追い出される時に言った言葉だった……。私はその七海さんの動きを受けとるために、右手を翻した。そして、七海さんの左手が当たった時にそっと握った。
私は七海さんのほうを見た。七海さんも私を見ていた、映画館の暗さでもわかるぐらい顔を真っ赤にしながらね。私はそんな表情に『宮野美葵』らしい作り笑いではなく、微笑みで答えた。