第五話『幸運と不運』by粗大ごみ
宮野さんは一寸動きを止めた後、無言のままトートバックをごそごそと漁り、機械的にスマートフォンを取り出した。彼女はうつむいたまま、手のひらのスマートフォンを眺めていた。まだ喉の奥に言葉が残っていた僕は、頭をかきながら「嫌ならいいけど……」と苦笑いをした。彼女は頭を上げると、そんな僕にニッコリと笑いかけ、「嫌じゃないですよ」と言った。僕も彼女に向けて笑いながら、ポケットからスマートフォンを出した。大きな一歩を踏み出した時の動悸はいつの間にか静まっていた。
その時だった。僕の視線の先の方から、太った男性が、彼女の名前を呼びながら駆けてきた。彼女は「お父さん……」と呟き、気まずそうに顔を伏せた。彼女の父親は僕たちのそばまで来ると、僕の顔に唾が飛ぶくらいに、「今何時だと思ってるんだ!」と怒鳴った。彼女は「心配かけて……ごめんなさい」と父親の顔も見ずに謝った。少しいい気になっていた僕も、彼女をかばうつもりで謝った。しかし、その行為はむしろ彼女の父親の怒気を過熱させたようだった。
「お前には良識ってもんがないのか? こんな遅くまで……未成年が酒を飲んで!」
彼の怒りを抑える答えを持っているはずもなく、僕はこうべを垂れたまま再び謝った。彼女の父親は「もう二度と娘と会わないでもらおうか!」と僕に向かって怒鳴ると、宮野さんの腕を乱暴に引いて行ってしまった。街灯がチカチカと点灯し消えた。蜘蛛の巣はもう見えなかった。
重い足を引きずって帰宅した僕を、「いつの間に彼女ができたんだ?」と父親はからかった。男女平等の実施が国是となった現代においても、こと貞操に関してはそうではないらしい。女性はいつの時代も大変だろうと僕は思った。
父親を適当にあしらった後、風呂に肩までつかりながら、僕は宮野さんのことを考えた。彼女は僕が今まで出会った女性の中で一番きれいな人だった。彼女は、僕に小学生の頃の初恋の相手を思い出させた。なんてことはない、僕は彼女のことを好きになったのだった。……僕は、愛するということは相手の幸せを願うことだと考えた。長年の女性に対する経験不足が生んだ自己卑下的な考え方かもしれないが、僕はこれを是とした。彼女の父親が会うなと言うのだ、彼女も、これ以上僕と関わりたくないだろう……。僕はそんなことをつらつらと考えながら、風呂から上がった。
寝巻に着替え布団に入った僕は、八木のことを思い出した。彼は、彼女の連絡先を知っているだろうか……? もし、知っているなら……。
……僕は宮野さんのことを忘れることができなかった。彼女のことを思わずにはいられなかった。僕は、彼女に謝りたいと思った。そして、もっと話がしたいと思った。こんな僕は利己的なのだろうか……?
僕は深い眠りに落ちていった