第十九話『僕らを繋ぐ蜘蛛の巣』by適度に自信のある腹
「なあ、七海。もう立てないだろ。俺とお前は付き合いも長い。足がガクガク震えて立てないんだろ? もう負けを認めろよ」
八木の口から冷たい言葉が聞こえる。背中がびっしょりで体の温度が下がり、恐怖だけでなく晩夏特有の夜の冷え込みも相まって、体が震える。
「僕はやっと正直になれたんだ」
どんなに声が出せても、寒くて痛くて悲しくて、足が一向に動かない。
「もう口だけは止せよ。いつもお前なら、『僕以外の誰かが彼女を幸せにする』って言うだろ? なのに、なんでだ? 誰に何を言われたんだ」
そうだ、僕は八木の言う通りのやつだ。僕と美葵がいることは美葵にとって損だと思って、何度も遠ざかろうとした。でも、なんでだ……なんで僕は彼女を幸せにしたいと思い、八木に負けを認めないんだ……? ムカつくことに、頭に浮かんだのはあの先輩のドヤ顔だ。ホントムカつく。どこで、あのクソ先輩に毒されたのだろうか? でも、痛い時も寒い時も悲しい時も、今みたいに全部を感じる時もあのクソ先輩の変な言葉にたぶらかされていると、思いながらも、その言葉を道しるべにしてここまで歩んできた。よくよく考えれば、今の出来事だって、あのクソ先輩は当ててきてやがる。
ボソッと無意識に呟いた。
「池坊先輩め」
「? なんか言ったか。まあいいや、聞こえなかったけど。もう寒くなってきた。七海、親友として最後に言っておく。俺はこのカゴの中の運命を受け入れる。でも、その運命の中でも、楽しく過ごす。もちろん、美葵とも一緒に楽しく過ごす。だから、お前は家に風邪をひかないうちに家に帰って。友人代表のスピーチでも考えてくれ」
あのウザい先輩の顔を思い出しても、立ち上がれないなんて、もっとスポーツをやっとけば良かったと思い始めた。その矢先、声がした。
「慶! 大丈夫!?」
間違いなく、美葵の声だった。恋する人間の思考回路っていうのは不思議だ。声を聞いただけで、足の震えは止まり、立ち上がれた。愛の力なんてほざくつもりはないけど、彼女に心配させたくないという気持ちで立ち上がれた。
「立てたのかよ。スゴイな、七海。お前はやっぱすげぇやつだよ」
「なあ、八木。僕も君を親友だって思ってる。掛貝のないモノだって思ってる。でも、これだけは譲れない。君が美葵と結婚したとしたら、彼女を幸せにしてくれるのはわかってる。でも、譲れないんだ!」
「そういうところが、大嫌いなんだよ。自分で自分自身の運命を作るお前も、俺と同じく自分のレールがあるのにそこからもがきでようとする美葵も、大嫌いなんだよ!」
そういうと、八木は俺の顎にめがけて拳を振るってきた。体は躱すほどの体力などなかったが、ちゃんと立つほどの体力も本当はなく、僕は雨に濡れたアスファルトで滑り、その拳を躱した上に、僕の滑った右足の膝が八木の鳩尾に入った。
「ゴッフ!」
八木は勢いよく倒れた。お互いの勢いがあったせいでかなり深く膝が入ったようで、のたうち回っていた。
「おい、大丈夫?!」
「痛いな。こんなにも思いっきり、溝内入れられたのは初めてだよ。痛すぎて、立てねぇ」
「ごめん」
「謝るなよ、七海。そういう優しいとこも、嫌いだぞ。まさか、殴り合いの喧嘩でも勝てないなんて」
僕はそう言った八木の横を走り、宮野家の門を通った。玄関と門のちょうど中間あたりだろうか。美葵も走ってきた。
「美葵!」
「慶!」
お互いに勢いよく抱きついた。彼女の体が異常に暖かく感じた。
「行こう!」
「うん」
どこに行くのかなんて、わからなかった。でも、どこかに行きたかった。僕は彼女の手を取り、門を通って外にでた。その時、走り横切った時の八木の顔が少し笑っているようだった。
「痛いな」
そう呟くと、突然黒い影が顔に掛かり、雨が顔に当たらなくなった。
「痛いでしょうな?」
「池坊か」
「そうですよ、亨様。風邪をひきます、早く車に戻りましょう」
「毒舌はなしか」
「流せるほど、こころが元気ではないでしょう?」
「案外、清々しい気分だ」
「あなた様はマゾヒストでしたっけ?」
「早速、毒を言うな。肩を貸してくれ」
「はい」
池坊は俺を後部座席に乗せると、娘を連れて行かれ呆然として何もできない宮野の父親に一礼をすると、車を出した。
「にしても、さっきのお言葉の意味はなんですか?」
バックミラーで俺の様子を確認しながら言った。
「清々しいか?」
「はい」
「ああ、あれは七海に負けるということが、あいつへの勝利条件になるからだ?」
「あいつといいますと?」
「親父だよ、これで初めて、俺はあいつも思い通りにならなかった。結婚は白紙。これで、俺はあいつに勝ったことになる」
「どうしても勝ちをとらないとこころが済まない人なんですね、あなた様は。そういうところは旦那様に似ておりますね」
「別にいいだろ、俺の性格なんだから。そうだ、池坊、お前の娘の話が聞きたい」
「私の身辺などご興味などなかったのに、どうしたのですか?」
「ちょっとした心情の変化だよ。早く話してくれ」
池坊は少し口に手を当て、含み笑いをすると話しだした。
「そういえばですね、今度娘の次男の大学三年生がコンビニのアルバイトで、娘に車を買ってあげるかなんかで、娘が大はしゃぎしておりましてね。まあ、この次男っていうのが年の割にはフケ顔でして……」
……
慶に手を取られ、無我夢中に走っていると、気付いたらコンビニの前にいた。私と慶は雨宿りをするために、コンビニの入口の横に二人でたった。
「美葵、大丈夫?」
「大丈夫! 慶は思いっきり食らってたけど」
慶は殴られた頬を手で軽くさすると、言った。
「僕は大丈夫。寒いし、なんか買ってこようか?」
「じゃあ、暖かいやつを、なんでもいいよー」
慶は中に入っていった。空から降り注ぐ雨は家から逃げ出した時よりも弱くなっていた。ポツリ……ポツリ……っと。雨に濡れた来客用のドレスは布が多いためか、雨で重くなってしまっていた。明るい青のドレスだったが、深い青に所々が雨で滲んでいる。ドレスを見てお父様のことをふと思い出した。ここまでひたすら走ったけど、お父様はどんな思いなのだろうか? きっと怒ってるのだろう……でも、ここまでしたんだ。もう戻らない。さようならでもいいから。
「コーヒーって普通派? 微糖派? ブラック?」
コンビニから出てきた彼は私に尋ねた。
「微糖で!」
彼はレジ袋から微糖の缶コーヒーを私に渡した。すると、なぜか一緒に出てきたコンビニのアルバイトさんにも尋ねた。
「先輩はどっちですか?」
「ブラック嫌いだから、普通の頂戴」
その人は慶からコーヒーを渡すと、開けて飲みだした。私は恐る恐る彼が一体何者なのか尋ねた。
「あのさ、彼は誰?」
「ああ、僕さ、ここでアルバイトしててその先輩。なんか、事情話したらコーヒー奢ってくれるって言ったからさ」
「初めましてー」
その男の人は私に挨拶をした。私もちょっと驚いたが、会釈で返した。
「飲み終わったら、とりあえず僕の家に行こう。行けるとこもないしね。お手洗い行ってくるから、その後向かおう」
「うん!」
彼は缶コーヒーを私に預けると、トイレに行ってしまった。私は彼の缶コーヒーと自分の缶コーヒーを手に持って、ほのかな温かみを感じていた。二人になったのを気まずく思ったのか、その先輩は話しかけてきた。
「君が、あの七海が自分の厄介なポリシーを捨てて、ものにした子かぁ」
「なんか、そう言われると……」
「あいつはさ仕事に真面目で、でも馬鹿正直だから、なんかあるとすぐに支障が出るんだよ。君のことを思っている時はかなり上の空だったようだよ」
「そうだったんですか……」
会話はそれだけだった。彼は飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に捨てると、店内に戻っていった。たかが、それだけだったが、私はなぜかほっこりとした。それはその人の人間としての特性かもしれないし、私が見れなかった彼の一瞬を教えてくれたからなのかもしれない。私は彼が戻ってくる同時に彼の家に向かった。
今の私には何も残っていない。妻を失い、娘を失った。残ったのは罰を受け、雨に打たれる私だけだ。どうせ美葵とあの青年には行く場所など限られているから、青年の家に行けば美葵を連れて帰ることはできるだろう。でも、そのように連れ戻したところで、もう美葵の思いは私に戻ることはないだろう。どうしようもない考えが頭を回る。でも、実は答えは出ている。
妻にも娘にも押し付けて、失ったのだ。だったら、私にできる残された道は押し付けずに今度は希望に添うことだ。あの青年を信じて、娘を金銭的に援助してあげることしかできないことを指している。たった一夏で、大事に18年育ててきた娘を失うとは……自分が宮野美葵という人物を……娘を……しっかり見ていなかったことを指していた。どれだけ無理をさせたのだろうか? たまに見せる虚ろな笑顔はこういうことだったのか?
私が青年の家に青年と美葵宛の手紙と援助用の美葵の銀行通帳を入れて送ったのは、美葵の夏休みが終わる直前だった。私も大人げない。娘のことを本当に見て、援助する形に切り替えるために、こんなに時間がかかるなんて。
美葵を連れて、家に向かっていると小雨になっていたが雨が遂に止んだ。僕の家の前に着いた。美葵の家に比べてれれば酷くこじんまりとした感じで、美葵に合うか心配だった。僕が家の鍵を取り出して開けようとしていると、美葵は入口の生垣の横をずっと眺めていた。鍵を見つけて開けても、彼女はそこを眺めたままだった。なんだろうかと思い、僕はその横に立った。
「家の鍵があいたよ。狭いけど入って……あ!」
「うん、蜘蛛の巣」
「綺麗だね」
「ねぇ、覚えてる?」
「ああ、覚えてる」
「なら、いいんだ」
水滴を持った蜘蛛の巣は光を反射して、不規則にキラキラと輝く。美しく幻想的な風景。いつもこの蜘蛛の巣も僕の道しるべになってくれたものなのかも知れない。
家に入ると、親に驚かれた。まあ、これまで女の影もなかった息子がずぶ濡れの女の子を連れて帰ってきたのだ。不思議ではない。案外、二人は受け止めてくれて、僕たちは僕の部屋で眠りについた……。そうそう、この時、僕にとっても美葵にとっても、人生においての初めてのキスをしたんだ……。




