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第十七話『あの日、あの場所で』by49号

 靴底が弾けるようだった。

 ざっ、ざっざっ、ざっざっざっざっ……

 静かな夜の公園に、砂とこすれ合う靴音だけが響く。まだ二十メートルくらいしか走っていないのに、僕は、男子らしからぬ荒い呼吸をしていた。

 無我夢中で、息が上がってでもスピードを速くした。彼女が、美葵さんが住む家まで、僕はただ走り続けていた。人ひとりにできることなんてたかが知れていて、今できるのは、好きになった女の子へ向かって全力疾走することくらいだった。

 降り始めた雨に気付かぬまま、僕は公園の出口を目指した。

 目指していた。



 どうして、彼女は笑っていられるのだろう。

 時々、自分の娘に対して、そんなことを思ってしまう。こんなことでは父親失格だということは分かっているのだけれど、今でも美葵のことを、どこか不気味に感じる時があった。きっと“別れた”妻と似ているせいだ。

 男というのはなにをするにも一様に、不器用で、遅すぎる生き物だった。暑さも落ち着いてきた季節が、霞んでいた記憶をしつこくかき乱す。

「これが正答、か?」


 窓が泣いている。


 突発的に浮かんできたフレーズが、俺の脳内で反響する。

「雨か」

「っ、雨ですな」

 一瞬、運転席の池坊が口ごもった。当然といえば当然だった。彼とて、さっき轢かれそうになったバカ野郎が誰なのか、下調べしていない執事ではあるまい。珍しく、俺の方がからかう。

「仇でも見つけたような顔ですなあ」

「いずれ、そうなるかも分かりませぬぞ」

「マジレスはやめてくれって」

「……まじれす、とはなにかの技でしょうか」

 思いきり意味を間違えているうちに、車は宮野家の前まで辿り着いていた。荘厳な門が、がらがらがらがら、と騒がしく開く。監視カメラとかで遠隔操作してくれたらしいが、池坊はその場で車を停めた。やっぱり、こいつは分かっている。

「……悪わりいな」

「謝罪のお言葉は、帰ってから存分に頂戴致しますぞ?」

 相変わらず楽しげな池坊を残して、俺はドアを開けた。


 目の前に現れたのは、ひどく見慣れた顔だった。


「よう」

「はあ……八木が……はあ……なんでここに……?」

 両手を膝へ乗せながら、息も絶え絶えの僕が質問する。今日の彼はやたらフォーマルな格好で、というかピアスもないし黒髪だったけれど、それが八木であることに疑いようがなかった。たぶん、小学校時代の同級生と再会する感じに似ている。でもどうして、染め直しなんかしたんだろう……

「“なんで”って、そりゃあ、俺の花嫁を取り戻すためさ」

 有象無象の疑問をぶっ飛ばすには、いささかダメージが強すぎたようだ。思考がフリーズしてしまった僕へ対して、高校からの親友が、さらなる異次元ワードを繰り出してきた。

「宮野の親父さんが一代限りで会社閉めるらしくって、ゆくゆくは八木グループをまとめるくらい実力をつけて欲しいからとかで、まずは宮野の奴と結婚して事業を引き継げって言われてる。そんで実際のトコ、俺もアイツも気が進まねえんだが、まあ親に心配掛けたくもないし、ちょっと面倒なことになってるんだ……分かるか?」

 そもそも僕の理解を求めているんだろうか、と思ってしまうような内容だった。最初の句点以降からすでに、日本語を聞いている心地じゃなかった。八木グループなんて、新聞とかテレビとか、ずっと遠い世界のことだと考えていた。ずっと先の世界だと思っていた。

 一つだけ、一つだけなら、分かっていることがある。

「……そこ、ちょっと通してもらっていい?」



 この家には窓が少ない。しっかりした造りの窓なんて、私の部屋と厨房くらいにしかないんじゃないか、と半ば本気で思っている。聞くところによると、お母様を追い出してしまった後から、お父様がそうするように指示したらしかった。

 なのに。

「お父様?」

 今も。

「…………ああ、すまんな。用意できたか」

 彼は時折り、こうして窓の跡を眺めていた。まるで、壁の向こうで夜空が広がっているみたいに。その先になにかを求めるように。

「はい」

 目尻はしっかり落として、口角は緩ませるくらい。この十何年で会得した『宮野美葵』らしい上品な笑みにお父様は、一度もちゃんと笑い返したことがなかった。いつも、なんと言えばいいのか分からず、ちょっと困ったような顔をするだけ。苦手、だったりするのだろうか。

 そうか、と答えたきり、また表情も戻ってしまった。

「美葵、八木君には無礼のないよう」

「はい」

 私の肯定は、ほとんど本来の意味を為していない。お父様を安心させるためだけにある言葉だった。

「では、下へ行こう」

「……はい」


 “自分”って、誰なんだろう。


 傘も差さずに、俺は公園の出口で突っ立っていた。

「どけっていうのは、無理な注文だ」

 ブルータスと対峙するカエサルみたいな顔で、親友はその言葉を聞いた。驚き、意味を反芻し、理解する。

「それでも、僕は美葵さんにどうしても会いたい。だから通してくれ」

「俺を殴ってでもか?」

「……必要なら」

「なら俺を倒してからだな」

 両腕を広げて挑発して見せると、さすがの彼も躊躇ためらいを感じたようだった。

 隙は見逃さない。



 !!

 あと一瞬遅れていたら、きっと一メートルくらい吹き飛ばされていたかもしれない。僕は八木のストレートを間一髪で避けられたが、代わりに体勢を崩してしまった。

「八木、お前……」と僕は文句を言おうとする。

 彼は笑わっていなかった。

「俺は本気だぜ? ――だから選べよ」

 戦うか、戦わないか。

 ……いや、そんなんじゃない。

 能動か、受動か。

 親友が、ゆっくりとテイクバックを取っていく。

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