第十四話『コスモナウト』by49号
鏡を見る。いかにも大人しそうな黒髪、耳たぶから消えかける穴なしピアスの跡、ヨーロッパで染められたとかいう鈍色の部屋着……
「よし」
なにが“よし”なのかはちっとも分からなかったけど、自分へ言い聞かせるようにそう呟いた。二千人の社員を擁する企業の御曹司として、まあ及第点といえる服装だった。いつもは茶色に、親と会うたびに黒くカラーリングしているのだから、将来禿げたところで文句も言えない。
八月は夜でも、なかなか暑苦しいものに感じた。風呂上がりだったから背中が少し汗ばんで、不快さに服を脱ぎたいとも思ったが、やっぱりやめておいた。
「それこそ、あるべきお坊ちゃまの姿ですな」
「……俺の部屋に入っていいと、誰が言った?」
「執事にノックは不要でございます」
相も変わらず、この老人は飄々としている。
「池坊」
いつの間に現れていた執事を呼ぶと、彼は明らかな悪意を持って答えた。
「なんでしょう、お坊ちゃま?」
「バカにしてるだろ」と文句を垂れながら、笑う。
少なくとも、俺が生まれた時からは務め続けている執事。こいつの人生は半分も知らないのに、こいつは俺の人生をだいたい、というかほとんど知っている。幼稚園時代の淡い初恋も、中高時代の成績表も、大学と家で別人みたいに変わる、この情けない姿も。池坊は、どんな時だって俺の側にいた。
それでも時どき、分からなくなることがある。自分の将来についてじゃない。どうあがいたって、金持ちの娘と結婚して、会社を継いで、ぐるぐる同じ毎日を過ごすだけだ。傍から見れば羨ましいだろうし、たぶんそこまで苦労もしない。
「十八の男が言うのもアレだけどさ、ずいぶんとお気楽な人生だよな」
「ええ。能天気この上なし、といったところでしょう」
いちいち突っかかることを口走っているが、今は小気味よいくらいに思えた。
「……だからかな。俺、分かんなくなっちまった」
「『本当の自分はどっちなんだ?』とはおっしゃりますまい」
影みたいに一緒だったこの執事なら、ガキの考えなんて手に取るように知れる。信頼というか安心というか、“いつも通り”という言葉がぴたりと当てはまっていた。友人と知り合いの境界線上にいる、大多数のやつらに囲まれているときよりもずっと、穏やかな時間だった。衝撃的なボリュームの連絡先は、付き合いがいいというよりもむしろ、メアドコレクターになったかのようだ。三回以上話した奴なんて一割もいない。
「池坊って、それで悩んだことあるか?」
俺の脳内でこの男は、生まれた時から老人のイメージだ。生涯、仙人と似たような雰囲気を醸し出していて、逆に青年時代を想像しろといったほうが難しい。悩み、とかいう単語とは無縁の存在にすら見えていた。
けれど執事は、あっさりと答える。
「ありますとも」
「で、答えは」
「いまだ見つからず、というところでしょうな」
ドヤ顔で答えてきたから、ここはあえてスルーしてみた。
「……ところでさ、この女はどうだ?」
言いつつ彼へ見せたのは、許嫁になったらしい女性の写真だ。うちの会社よりは小規模にせよ、なかなか調子がいいという社長のご令嬢、らしい。
「顔よし器量よし。申し分ないところですが」
「じゃあ、もしこの女が、俺が企画した飲み会へ突然現れたとしたら、どうする」
「確認は致しますが、もし、という仮定であって、あくまで実際に起こったわけではないでしょうし、そもそも未成年であるはずの亨さまがアルコールの類いを嗜むことなど――」
「ごたごた言わずに答えてくれよ」
威圧感を出して、俺がヤクザかチンピラみたいに命じる。池坊は咳払いひとつしてから、いかにも神妙そうな表情を顔へ貼り付けて答えた。
「私なら、酔っぱらったふりで不貞なことを提案し、その女性に辞退させてしまいますな。まさか婚約相手が茶髪にピアスとは知らないでしょうから、この家さえ見せなければよろしゅうございます」
「ご丁寧な回答をどうも」
予想はしていたが、やはり尾けられていたようだ。
寝るから出ていってくれ、と執事を追い出したものの、眠れずに窓の外ばかりを見続けた。照明の落ちた部屋へは月灯りが差し込んでいて、じーん、と眩しさに視界も霞む。涙を拭うことすら忘れて、俺は食い入るように夜空を眺めていた。
そしてほんとうに
そのまっ赤なうつくしいさそりの火は
音なくあかるく
あかるく燃えたのです
ずっと、もう思い出すことも叶わないほど昔、そんな童話を読んだことがある。幼い頃に田舎で見た満天の星空。あれだけが、唯一の拠り所になり続けた。耳にタコが、いや、破裂するくらい説得されても、結局天文学を諦めきれなかったのだ。次代社長として期待されていた経済も法律も蹴って、俺は理系に進んだ。
遠くを見ることは、きっと過去を見ることだと思う。
建物に隠れていたせいで、アンタレスは見えなかった。生温かい雫が頬を伝って、俺は初めて、自分が子供みたいに泣いていたことを知った。
「……教えてくれよ」
誰に話し掛けるわけでもないのに、情けなく震える声で呟く。七海が見ればなんて言うだろう、とか考えていたら、自然と笑みがこぼれた。八木グループの御曹司という看板をチラつかせるだけで群がってくる“友達”とは違い、あの同級生はいまだに俺の実家を知らない。知らないでいて、他の奴らより親しく接してくれるのだ。
何色にも染まらず、自分を貫いていられる。俺は、七海のそういうところが好きで、嫌いだった。
嫌いといえば宮野も同じだ。会ったこともないうちから婚約成立、とかいうふざけた現実から逃げようとしているのに、どうして許嫁本人が飲み会に来るんだ。あいつも俺なんかと結婚したくないって願うのか、と思うと余計に腹が立った。
七海も宮野も、レールに乗ったみたいな人生を押し付けてくる両親も嫌いだ。俺一人ではなにひとつできないことを、これでもかというくらい思い知らせてくる。
でも、俺だって自覚している。ちゃんと分かっている。
理想を見失ったのも。
現実から逃げているのも。
運命に逆らいきれないのも。
「全部、俺のせいだ……」
無駄・適度・49号でやっていきます




