あなたに悪役は無理だと思う。
以前書いた、『立派な悪役を目指して頑張ります!』の続編で、羽依視点の話です。『立派な悪役を目指して頑張ります!』を読んでからのほうがいいかなぁ、と思います。
『画鋲に注意!』
「……えっ?」
そんな張り紙を見て、唖然としてしまうのも仕方ないと思う。
私が靴を入れる場所に貼ってあるそれは、変な内容に不似合いなほど綺麗な字で書かれていた。
この綺麗な字、もしかして……と思いつつも、とりあえず上履きを靴箱から出して中を覗いてみる。
わお、ぴっかぴかの画鋲。
どうやら犯人さんは、わざわざ新しい画鋲を買ったらしい。
学校のを使えばいいのになー、と思いながら画鋲を取り出し、上履きに履き替える。
手に残った画鋲をどうしようと迷ったのは、ほんの数秒だった。少し視線を上げれば、靴箱の上にちょこんと乗っている画鋲箱が見えたのだ。
ぴかぴか具合も一緒だし、たぶんというか絶対、これにしまえってことだよね?
画鋲をしまって教室に向かう。が、張り紙も持っていこうと思いついて、方向転換。
うーん、犯人さんは私が帰るのを待ってから画鋲を入れたのかな? それとも、朝早く来たんだろうか。でも私、最近はいっつもクラスで一番先に来てるし……やっぱり、昨日のあの後、か。
そんなことを考えているうちに教室に着き、自分の席に鞄を置く。
……犯人はあの子なのか、そうじゃないのか。いや、あの子だと思うんだけどね?
だけど、違う可能性もある。私はなぜか、女の子から人気の高い男子の友達、知り合いが数人いるのだ。その男子に思いを寄せる女の子から、こういうことをされてもおかしくはない。
今までいじめられたことはなかったけど、嫉妬が爆発していじめが開始された、って可能性もあるよね。ある、けど。
だとすると、張り紙を用意するなんて有り得ないんだよなぁ。
むむむ、と唸りながら教科書を机にしまおうとすると、がさっと紙の音がした。
……これはもしや。
手を突っ込めば、昨日までは入っていなかった紙の感触。教科書を入れようとしたことによって、ぐしゃっとなってしまっている。
おもし……こほん、嫌な予感がしたけど、紙を取り出してみる。
『ばーか ばーか!
あほ!
どじー!
まーぬーけー!
あんぽんたん!
ぶす
きもい ださい』
……うん、予感が当たった。
「ぶっ」
咄嗟に口を押さえて、周りを確認する。うん、人の気配はない。
けど、一人で大笑いするのも何だか嫌なので、必死で笑いを堪える。
何だろう、この可愛い悪口! しかも、すっごい綺麗な字なのが更に笑いを誘う……っ! 張り紙と同じ字だし、あの子だろうか。
というか、仮にあの子だとしたら『ばか』とか『あほ』とか漢字で書いてもいいと思うんだけど……平仮名なのが可愛い。ちょっぴり字が震えてるのを見るに、罪悪感に苛まれながら書いたな、これ。ブスとキモい、ダサいだけちっちゃい字なのも、他のと違って相手を傷つけやすい言葉だから?
これくらいで罪悪感とか……桜宮さん、可愛すぎるよ。最近の人なら、たとえこの学校に通うお嬢様、お坊ちゃまでもこれくらいの言葉は普通に使っている。……あんぽんたんは、流石に使う人が少ないだろうけど。
他の人である可能性が、これで完全に消えた。絶対桜宮さん……いや、もう杏璃ちゃんでいいや。画鋲もこの紙も、杏璃ちゃんが犯人だ。
……笑い堪えすぎてお腹痛い。
* * *
いきなりだが、私には前世の記憶というものがある。頭がおかしいとは思われたくはないので、誰にも言ってないけど。
……いや、前世の記憶があるからって、何ということもない。何だか前とはちょっぴり違う世界に生まれてしまったが(具体的には有り得ない髪色とか?)、それだけだ。転生チート、というものがあるわけでもないし、知っているゲームの世界、というわけでもないので、記憶も役立てることはできない。
記憶が役に立っているとしたら、勉強くらいかな。
おかげで特待生として、学費その他諸々免除でこの学校――お嬢様、お坊ちゃまばかりが通う学校に入ることができた。女手一人で育ててくれている今世のお母さんにも、ちょっとは親孝行ができたんじゃないだろうか。お母さんは、自分がこの学校に入れなかったから、お金の問題がなければ私には入ってほしいと言ってたし。
と、まあ、それは置いといて。
精神年齢が四十を超えているからか、杏璃ちゃんのこんな……いじめ? なんて、ものすごい可愛い悪戯にしか思えない。もしかしたら精神年齢関係なく、誰でも可愛い悪戯にしか思えないかもしれないけど。
杏璃ちゃんは、私の友人、白泉希月君の婚約者だ。そして、白泉君の片想いの相手でもある。
婚約者であるのに片想い。しかも、杏璃ちゃんは全く気付いていないっていう。
……不憫な人だ、白泉君。
白泉君とは同じクラスのうえ、何だか話が合って、入学して少しするころにはもう友達になっていた。
そして、今は十月。もうすっかり仲良しになり、杏璃ちゃんに関する話も嫌というほど聞かされるようになった。
杏璃ちゃん本人と話したのは、昨日が初めてだったけど。
……うん、びっくりした。
こっそりと中庭に呼び出されて、何をされるのかと思えば。
噛みまくり、しどろもどろな杏璃ちゃんに罵倒され(必死すぎて可愛かった)、なぜか濡らしたくないものを置く机を用意してまで、温かい水をかけられた。
正直、いきなり水をぶっかけられたことに対しては、少し怒っていないこともない。「わたくしのことは思う存分嫌ってくださいね!」と言っていたけど、どういうことだろう? わざとらしくタオルを落としていってくれたので、まあそれで体を拭いたけど、やっぱりちょっと寒かったし、生徒から注目も集めた。
……その視線は、なぜか「あぁ……」って感じのものだったけど。
教室に戻ると、皆から心配された。が、「杏璃様がついに……!」とか、「桜宮さん、勇気出したなー」とか、のほほんとしたコメントつき。え、杏璃ちゃん、皆にバレてていいの!? と呆然としたが、確かに目立つ杏璃ちゃんが私を呼び出して、噂にならないはずがない。だけどさ、ちょっとは普通に心配してくれたっていいと思うんだ……。
婚約者様にいたっては、ものすごい落ち込んで私のほうをちらりとも見なかったし。何があった。
そして朝の画鋲、今の紙。
……杏璃ちゃん、何がしたいんだろうなぁ。
記念に取っておこう、と紙の皺を伸ばして綺麗に折りたたんでいると、教室の扉がガラッと開いた。
いきなりのことだったのでびくっと体が反応する。も、もうちょっとゆっくり開けようよ?
「おはよう」
「……あ、おはよう」
おお、婚約者様の登場だ。
って、うん?
「珍しいね、こんなに早いなんて」
いつもは杏璃ちゃんと一緒に、もっと遅く来るのに。
あ、白泉君が来たってことは、杏璃ちゃんも一緒かな? 丁度いいし、色々訊きにいこうかなー。
「……少し、花城に話があってな。杏璃がいたら話しづらいし、用があるから先に行くと言って来た」
……白泉君は大体いつも仏頂面だけど、今日は更にひどい。
そして今の言葉、ね。相手が他の人だったら、もしかして私に告白!? とか思ったりするかもしれないけど。……いや、思わないけど。
白泉君の場合は、絶対に杏璃ちゃん関係の相談だなぁ。
「……もしかして、昨日のこと?」
「ああ」
ぶっきらぼうに答えた白泉君は、自分の席に鞄を置いて、私の前の席の椅子をくるりと移動させ、そこに座った。こんなところ、誰かに見られたら誤解されそうだ。
白泉君の気持ちは皆知ってるし、大丈夫だとは思うけど……でも、あの人に見られるのはちょっと嫌だ。あと五分くらいで話が終われば問題なしだけど、終わらなかったらちゃんと説明しておこう。
「杏璃に呼び出されたらしいな」
白泉君は苦々しい顔で話を切り出す。
ああ、そのことか。
「うん、変な呼び出しだったけど。あ、それから今日は上履きに画鋲が入ってたし、机の中にはこんな紙も」
たたんでいた紙を開いて見せると、「あいついつの間に……」とがっくりする白泉君。
「悪い、よく言って聞かせる」
「別に面白かったからいいよ。ふふっ、でも喜ぶべきなんじゃない? もしかしたら、私に嫉妬して嫌がらせ? を始めたのかもしれないし!」
私がそういった途端、白泉君から負のオーラが溢れ出す。
……やばい、何か変なこと言った?
「……普通。普通そう思うだろう?」
「う、うん」
「しっと? いえ、わたくしは悪役として、するべきことをしただけですわ。羽依さんは本当に素晴らしい方ですから、希月くんの相手に相応しいと思うんです!」
「……はぁ?」
流れ的に、今の白泉君の言葉は杏璃ちゃんのものだろう。白泉君が言うと気持ち悪さしか感じないが、杏璃ちゃんなら……ああ、とてもいい笑顔で言いそう。白泉君から話を聞く限り、無自覚に結構ひどいことするからなぁ。
……って、悪役?
「悪役って?」
白泉君は不機嫌そうにため息をついた。
「知らん。だが、中学生になったあたりから『立派な悪役になるため!』とか言って、色々やっていたぞ。それだけで、悪役らしいことは何一つしていなかったんだが……いきなりどうしたんだろうな」
「いやいや、私知らないって。そもそも、何で私が白泉君の相手に相応しいって言ってるの? まさか……嫉妬してほしくて、杏璃ちゃんの前で私の話をいっぱいした、とか?」
ふと思いついたことを言ってみれば、ぎろっと睨まれる。
「……杏璃が嫉妬なんてするはずないだろう。それなのにお前の話をするなんて、杏璃に誤解されて応援されて終わりだ」
「わお。あれだね、白泉君。今言ってて悲しくなったでしょ」
黙り込んだ白泉君は、しばらくしてぼそっと「うるさい」と言った。
……可哀想に。
白泉君は勉強も運動もできるし、一見完璧に見えるのに……へたれ、なんだよなぁ。だからこそ、私は白泉君とここまで仲良くなれたんだろうけどさ。たまに、どうかと思うこともある。
「ほらほら、勇気出して。早く告白しないと、誰かのものになっちゃうかもよ? 杏璃ちゃん、男子からも女子からもすごい人気だし」
ファンクラブもあるしねー。会員は女子のほうが多いらしい。杏璃ちゃんの場合、男子よりも女子に何かされちゃいそうで心配だ。
白泉君は、難しい顔で私の言葉に答えた。
「……好きだ、と言ったことはある」
「あー、展開読めちゃったー」
「はい、わたくしも好きですわ! と満面の笑みで言われて、どうしろと。だから希月くんには本当に好きになった人と結婚してほしいって、何が『だから』なんだと思う?」
「あは、何だろう」
笑うしかない。
杏璃ちゃん……ひどい。自覚がないのが更に。これが計算して言ってるなら相当怖いんだけど、それはないだろうな。昨日話しただけでも、杏璃ちゃんの性格はわかったし。
それにしても、立派な悪役、ねぇ。
無理だな、絶対。杏璃ちゃんには正義の味方……いや、天使だな。ううん、女神? 何となく、そういう感じのものが似合っている。そんな子に悪役なんかできるわけがない。
「どう言えば伝わるだろうか……」
白泉君は力ない声でうなだれる。
前世も含めて恋愛経験はほぼ皆無なので、こんな相談はされても困る。
だけど、大事な友人の相談だ。しかも、こんなに参った様子は初めてだし。これはちゃんと考えて答えなくちゃいけないだろう。
……杏璃ちゃんには、やっぱり直接的な言葉じゃなきゃ駄目だよね。好き、は違う意味で取られる可能性もあるし(というか実際そうみたいだし)、愛してる、のほうがいいかな。
それだけだと味気ないし……いっそのこと、プロポーズまでしたらどうだろうか。すでに婚約者ではあるけど。
「えーっと……。愛してる。お前以外の奴と結婚するなんて考え――」
ガラッ。
「たくもない。って、へ、ちょっ、ああ!?」
教室のドアに目をやれば、固まっている佐藤君。
慌てて時計を確認すると、確かにもう彼が来る時間になっていた。
え、待って。この場面で来たってことは、もしかして私の言葉しか聞こえてないんじゃないかな? 愛してるとか、こんな、朝から男女が二人……っ! え、え、誤解してる? してますか!? というか、何でこのタイミングなの!?
「……失礼しました」
先に我に返ったのは彼のようで、佐藤君はそそくさと扉を閉める。
「わー、ちょっと待って! 失礼しないでっ! じゃなくて、誤解、誤解だから! 佐藤君、ちゃんと人の確認しようね!? 私と白泉君だよ、愛してるとかは絶対ないから!」
必死に止めると、ドアを閉める直前だった佐藤君はその手を止め、こちらの様子を窺ってきた。
「白泉君はないにしても、花城さんが、ってことはあるし……」
「ないよ! 今はその……相談されてて」
視線で、相談の内容を言ってもいいかと訊く。たぶん、わかってくれるはず。
予想通り察してくれた白泉君は、しぶしぶとうなずいた。それを確認してから、佐藤君に視線を戻す。
「杏璃ちゃ……桜宮さんにどう言えば気持ちが伝わるのか、っていうのに答えてただけなんだ。別に告白してたわけじゃないから、出てかなくても……」
そこではっと、白泉君を見る。
「あ、いや、ごめん。白泉君は誰にも聞かれたくないから早く来たんだよね? だとしたら佐藤君、ちょっとの間だけ図書室にでも行っててくれないかな……?」
うぅ、せっかくの佐藤君とのおしゃべり時間がなくなってしまった。残念だけど、仕方ない。白泉君の相談事のほうがよっぽど大事だしね。
とは言え、やっぱり落ち込む。
「ごめんね、昨日貸してくれた本の感想、明日言うから」
あーもう、白泉君のバカ。
内心ぶつぶつ呟いていると、佐藤君はふっと笑った。
「……うん、わかった」
「ほんと、ごめんね……」
ありがとう、佐藤君。君は空気が読めるいい子だ。でもちょっとはショックそうな顔をしてくれてもいいのに、と思うのは……まあ、自分勝手な話だとはわかってる。
佐藤君の足音が遠くなるのを待って、白泉君を振り返った。
「それで、さっきみたいな感じでどうかな? 直接的だし、ちゃんと伝わると思うんだけど」
「……お前が早く来るようになったのは、あれが原因か」
「べ、別に、そんなんじゃないもん」
ぷいっと顔を背けてやる。
……うわ、そんなんじゃないもんって言って顔背けるとか、この歳で痛い。はっとして鳥肌立ちそうになった。
いや、十六歳なら許されるんだろうか? よくわからない。何だか最近、精神が肉体年齢に引きずられている気がする。
白泉君はそんな私を見て、苦笑した。おぉ、杏璃ちゃんの前以外では珍しい表情。
「ともかく、ありがとう。……いつか言えるよう努力する」
「へたれー」
「うるさい」
顔を思いっきりしかめてるのは、図星だからだよね、ね?
* * *
私がクラスで一番早く学校に来るようになったのは、夏休み後の話。
まあ、原因は。同じクラスの佐藤和真君……つまり、さっきの男の子が一番に学校に来る、と知ったからだ。うん、私も白泉君に図星を指されていたわけです。
少しの時間だけでも二人だけで話したいな、という何とも恥ずかしい理由だ。
やだやだ、私どこの乙女?
とか、最初は思っていたんだけど。
今じゃ、もういいやと諦めている。うん、歳取ってるのは精神だけだから。私は十六歳ですと言ったって、事実なんだから誰にも責められやしない。
でもね……思うんだよ。
こんな若い子好きになっちゃうって、どうなの!?
もしかして私、そういう趣味があったのか……と悩むこともしばしば。しかもこれ、恥ずかしながら前世込みでの初恋なんだよなぁ。
佐藤君はこう、何というか良くも悪くも平凡で。私自身もどこに惹かれたのかよくわからないけど、こう、一緒にいてほっとするというか。これって若い子のパワー?
……あーあ、佐藤君が気になってること白泉君にも知られちゃったみたいだし、今日のお返しに私の相談にも乗ってくれないかな。くれないか。
なんて考えながらの、教室移動。
普段は友達と一緒に移動するんだけど……トイレに行くから、と先に行ってもらっていたので、今は一人だ。別に焦る必要もない時間だから、のんびりと考え事ができる。
しっかし、何だかいつもより生徒たちがざわついてるなぁ。どうしたんだろう?
「……ん?」
階段を下りよう、としたとき。有り得ない光景が目に入って、私の思考は急停止した。
……え、マット? 何で?
我に返るまでに、十秒くらいかかった気がする。もしかしなくとも、皆がざわざわしてるのってこのマットのせいなんだろうか。
階段の下には、ふわっふわの綺麗な大きいマットが置いてあった。そう、例えば。階段の一番上から飛び降りても怪我をしなさそうな。
ああ、そういうことか。
後ろを振り向けば、そこには予想通り杏璃ちゃんの姿が。私が振り返ったのを見て、彼女は慌てて壁に張り付いた。
ちょい、それは何のつもりかな。隠れ場所がないから、壁に張り付けばバレないと思ったとか? 本気で思ってるならアホの子すぎて可愛いからね?
まあ、いくら杏璃ちゃんでも、後ろにいることがバレてから突き落とす、なんてことはしないだろう。階段から突き落としたら、ふかふかマットがあったって大怪我する可能性があることくらいわかるはずだ。自分から飛び降りるならともかく、誰かに押されたりとか、予想外のことにはとっさに反応できないし。杏璃ちゃんがそんなことをするとは思えない。
と思っていたのに、足音は近づいてくる。
……おーい。杏璃ちゃん? 階段周辺の人たち、皆こっち見てるんだけど。注目集めてるのに、まさか突き落とそうなんて……。
「――えいっ」
「へっ?」
可愛らしいかけ声と共に、背中が押された感覚。
思わず声が漏れ、目を見開いてしまう。
……弱い、弱いよ杏璃ちゃん。よろめきさえしなかったよ。
しかもここ、下から三段目だから。急に押されたら反応できずに落ちて怪我するかもだけど、三段目でマットがあれば余程のことがない限り無傷だよね。手を捻る、くらいの可能性はあるけど。
ちょっと呆れながら振り向くと、杏璃ちゃんはきょとんとしていた。
「あら?」
あら、じゃないよ……。
杏璃ちゃんはあわあわとし始める。突き落とせると本気で思っていたらしい。
……確か杏璃ちゃんって、定期テストの点数は学年トップから落ちたことないはずなんだけどなぁ。全教科満点取ってたこともあるし。私も一応特待生だから、毎回五位以内に入ってはいるけど……それでもわからない問題で十点くらい、ミスで五点くらいは必ず落としてしまう。全教科満点ってもはや化け物だよね。
「杏璃ちゃ……桜宮さん」
危ない、間違えて杏璃ちゃんって呼ぶところだった。
私の声に、杏璃ちゃんはびくっと反応する。……ここまで怯えられると、こっちがいじめてるような錯覚に陥ってしまう。うぅ、悪役は私か。
「あのね、もっと強く押さないと人ってよろけないよ?」
「ふぇ……あ、はい……?」
困惑気味に返事をする杏璃ちゃん。
「それから、マットはどうやって用意したの?」
「え、えーっと……家にあったものを、お手伝いさんたちと協力して持ってきましたの。学校に着いてからは皆様に手伝っていただきました」
その言葉に、こちらの様子を窺っていた生徒たちがばっと目を逸らす。おーい。あ、逸らさなかった子も……って、あれは松永さんと梅澤さんじゃないか。あの二人は杏璃ちゃんとほとんど一緒に行動しているし、絶対杏璃ちゃんの協力者だ。
「……色々突っ込みどころはあるけど、とにかく、こんなに大きいマットが階段の下にあったら皆の迷惑になるからね。先生の許可も取ってないんじゃない?」
「あ、いえ、先生方の許可は取りましたわ」
「え」
「階段から落ちても怪我をしないように、と言ったのですが……」
うんうん、嘘はついてない。ついてないけど先生たち、そんなんで許可出すな!
何なんだろうこの学校……おかしいよ、全体的に。
「でも、そうですわね」
頭を抱えたい衝動駆られていると、杏璃ちゃんは眉をへにょんと下げた。
「確かに、これでは他の方にもご迷惑をかけてしまいますわ……。考えなしで行動してしまい、申し訳ありません。マットはわたくしが、責任を持って撤去します。あ、もちろん一人でやりますので、ご心配なさらず!」
かなり心配だ。
あの大きいマットを、この生粋のお嬢様が一人で運ぶなんて……無理だろうし、それを見て手を貸さないのも人として問題があると思う。
「手伝うよ。そもそも私を突き落とすためのものなんでしょ?」
「……あ! はい、そうでしたわ!」
はっとしたように、杏璃ちゃんは口を押さえる。
「あら、でも失敗してしまいましたし……せ、せっかく用意していたセリフが……っ! ざまあみなさいって一度言ってみたかったのに……」
独り言のようだが、ばっちり聞こえている。
……何でここまで、私をいじめ? ることにこだわるんだろうか。誰かをいじめよう、とか考えそうな性格じゃないのに。
首をかしげながらも、杏璃ちゃんに声をかける。
「ごめん、次の授業遅れそうだから、マットの移動手伝うの後ででいいかな?」
「はい、もちろんですわ。……って、いえ、羽依さんのお手を煩わせるわけには!」
あれ、私、羽依さんって呼ばれてたんだ? だったら、杏璃ちゃんって呼んじゃおう。
「ねえ杏璃ちゃん。立派な悪役ならね、ここは私一人に押し付けるべきだと思うよ」
「お、押し付けるだなんて! ……うー。うぅぅ……。お、押し付けてもよろしいですか?」
「もちろん駄目だけど」
「えっ」
がーん、という表情を浮かべる杏璃ちゃん。可愛かった。
* * *
結局、マットは昼休みに片付けた。杏璃ちゃんが休み時間に携帯で車を呼び出していたので、そこまで一緒に運んだのだ。沙絵ちゃんと珠紀ちゃん、白泉君も一緒に。
杏璃ちゃんが複雑そうな顔だったのは気になったが、私的には杏璃ちゃんと少し近づけたようで嬉しい。
「花城さん」
放課後、今日は部活もないので、さあ帰ろう、と立ち上がったところで、佐藤君に呼び止められた。
「ん? どうしたの?」
佐藤君は言いづらそうにしながらも、「その」と口を開く。
「昨日の本……桜宮さんがよく読んでるって聞いて貸してみたんだけど」
「え、あれを杏璃ちゃんが?」
確かに、今まで佐藤君が貸してくれた本とは毛色が違うなとは思ったけど……。なかなか面白かったから、特に気にしてなかった。
あー、なるほどね。『悪役のすゝめ』か。杏璃ちゃん、あれ読んで行動してるな。
私の言葉に、佐藤君はうなずく。
「桜宮さん、前から花城さんに何かしようとしてたから。あの本読んでれば、何か対策ができるんじゃないかなって。今日も階段から突き落とされそうになったんだよね?」
「そうだけどねー。あれで突き落とされてたら、たぶんこっちが悪者だったと思うよ」
本気で。だって、傍から見たってあれくらいの強さでよろけるはずがないことはわかる。もしよろけるんだとしたら、それはわざとやっているとしか考えられない。
佐藤君もわかっていたようで、
「……やっぱり?」
と、少し呆れ顔。
ああ、佐藤君も杏璃ちゃんの性格はよくわかってるか。というか、杏璃ちゃんに悪役なんかできないっていうのが、全校生徒共通の認識だろう。……そっか、だから皆協力するのか。だから皆、私を心配しながらも杏璃ちゃんに感心するのか……!
「まあ、それでも。桜宮さんだって魔が差す可能性だってあるんだから、気をつけてね」
……純粋な心配が、心に染み入る。
「ありがとう。それにしても、よく杏璃ちゃんが私に何かしようとしてたってわかったね?」
そう尋ねると、佐藤君は「……う」と言葉に詰まった。訊かれたくなかったことらしい。
しかし、だ。今の反応で浮かんでしまった考えを、はっきりさせずに終わらせるのは嫌だった。別に佐藤君以外なら、こうなんだろうって自己完結するんだけど。
「えっと……もしかして佐藤君って」
強張った顔で、佐藤君は私の続く言葉を待つ。
「――杏璃ちゃんのファンクラブの人?」
「……え?」
「え、違った? ご、ごめん、勘違いか。杏璃ちゃんの愛読書とかも知ってるし、もしかして、と思ったんだけど」
よかった、この反応だと違いそうだ。
ほっと安心していると、なぜか佐藤君もほっとした表情を浮かべた。
「違う違う。えーっと、ファンクラブに入ってる友達が教えてくれたんだよ」
「へー。……でも、何で佐藤君に?」
どうせなら私に教えてくれればよかったのに、と首をかしげてしまう。
「そ、それはたぶん……ほら、桜宮さんに裏切り者って思われたくなかったからじゃない? で、花城さんと比較的仲がいい僕に教えてくれたんだよ」
「なるほど」
確かに、私に直接言ったら、杏璃ちゃんに裏切ったって思われる可能性があるね。
……というか、ファンクラブの情報網恐るべし。どこまで杏璃ちゃんについて知ってるんだろう。ちょっと入ってみたい気もする。
「教えてくれてありがとね、佐藤君」
そう言って笑いかけると、佐藤君の顔が少し赤くなった。
これは照れてるな? とにやにや見ていたら、ぶすっとしたしかめっ面をされてしまう。まるで白泉君のようだ。佐藤君にこういう顔は似合わないんだけど……まあ珍しい顔だし、ちゃんと記憶しとこっと。
「それじゃあ、また明日」
ばいばい、と手を振ると、佐藤君も振り返してくれた。
「うん、また明日。……って、あっ」
ふー、今日はいい日だったなぁ。杏璃ちゃんとも話せたし、佐藤君の珍しい顔も見れたし! 何だか二人との距離が縮まった気がして嬉しい。
しっかし、今の「また明日」ってやり取りだけでときめいちゃう私って……。相当精神年齢が若くなってる。あれ、でも初恋なんだし、別にときめいたりしてもおかしくないのか……なぁ?
……お、杏璃ちゃんと白泉君だ。一緒に帰るところか。
話している内容は聞こえないけど、杏璃ちゃんはにこにこ楽しそうに笑っている。対する白泉君も、柔らかい優しい笑顔だ。
杏璃ちゃん、気付いてあげればいいのになぁ。白泉君がそんな表情するのは、杏璃ちゃんの前だけだって。……いや、杏璃ちゃんなら気付いてても特に気にしないような気もする。
何だかあの二人を見ていると、一人で帰るのが急に寂しくなった。いや、この学校に通ってるのってお嬢様お坊ちゃまばっかりだからさ……。高校から入った外部生(つまり、あまりお金持ちじゃない子)もいるけど、外部生の友達で今日一緒に帰れるような子はいなかったはず。
うーん、佐藤君も確か外部生で、電車通学してたような……。断られるの覚悟で、一緒に帰ろうって言ってみればよかっただろうか。あ、でも部活かな。
まあ、また明日って言ってくれただけで満足なんだけど。
「……行っちゃった」
まさか佐藤君が「一緒に帰らない?」と言おうとしてくれていたなんて、私は知る由もないのだった。
花城羽依
前世の記憶はあるものの、ここが乙女ゲームの世界だとは知らない。
でも攻略対象の人たちとはそれなりに親しい。特に希月と。
それでもいじめられないのは、人に好かれやすい性格であるからという理由も少しある。
佐藤のことが好きだが、初恋は叶わないって言うしなぁ、と諦めてしまっていたり。話せるだけで幸せ。
桜宮杏璃
自分が乙女ゲームの悪役に転生したということを知っている。
ゲームの主人公である羽依が大好きだったので、幸せになってほしくて悪役を目指している。
自分は立派に悪役を演じていると勘違いしている、残念な子。
希月の気持ちに気付く気配は全くない。
羽依がいじめられないのは、杏璃と杏璃のファンクラブの力が大きい。
現在、自分にできる悪役の行動がネタ切れになってきていて悩み中。
白泉希月
杏璃のことが好きだが、全く気付いてもらえない不憫な子。でもへたれだから仕方ない。
羽依のことは気の合う友達だと思っている。
現在、羽依に考えてもらった言葉をいつ杏璃に伝えるか悩み中。でもきっと言えない。
佐藤和真
羽依と希月のクラスメート。顔は平凡。実は美術での特待生。
羽依のことが好きだが、僕じゃ花城さんと釣り合わないし……、となかなか勇気が出せない。
羽依が早く来るようになってから、二人だけで話す時間ができてすごく嬉しい。話せるだけで幸せ。
松永沙絵・梅澤珠紀
杏璃の親友たち。羽依の前では杏璃の取り巻きのフリをしたりもしている。
階段から突き落とすのはやめたほうがいいと思いつつも、杏璃にはどうせ無理だろうと判断して傍観。
だが、後でちょっぴり説教をした。
杏璃が悪役になるのを(面白いから)応援してはいるが、やりすぎたと杏璃が落ち込むのは見たくないので、その前には止めるつもり。