30.ダルトン商会の崩壊
ダルトン商会の看板が下ろされたのは、議会から六日後の朝だった。
大通りに面した、三階建ての石造り。その正面から、鉄の枠ごと看板が外された。作業をしていたのは、商会の職人ではなく、市の役人だった。
俺は、ギルドの二階の窓から、それを見ていた。
思っていたような気分にはならなかった。
「勝ったって顔じゃないわね」
フィオナが、隣に立った。手首の痕は、まだ薄く残っている。
「取引停止と解体。商会が抱えてた荷は、市が差し押さえて競売。従業員は三百人います」
「その三百人が、全員、悪いことをしてたわけじゃないってこと?」
「……はい」
「そうね」
フィオナは、それ以上言わなかった。慰めもしなかった。彼女のそういうところが、俺には有難かった。
昼過ぎ、俺は西街区に歩いた。
ギレムの店は、まだそこにあった。間口が三歩ぶんの、看板のない仕立て屋。
戸を開けると、中から声がした。
「そこ、返し縫いだ。三針でいい。四針やると布が硬くなる」
ギレムが、椅子に座っていた。膝の上で手を組んでいる。相変わらず、右手は細かく震えていた。
その向かいに、十四、五の娘が座って、針を動かしていた。
「ああ、ギルドの」
ギレムが顔を上げた。
「聞いたよ。ダルトンが潰れたそうだな」
「はい」
「そうかい」
老人は、それだけ言った。それから、娘のほうへ顎をしゃくった。
「姪の子でな。去年から預かってる」
「……縫っておられるんですか」
「わしがか? 無理だ。指がこれだ」
ギレムは、震える手を持ち上げて、また膝に戻した。
「だがな。目はまだ利く」
彼は、娘の手元を見た。
「この子が三針で止めたか四針やったか、離れてても分かる。糸の引き加減で布の落ち方が変わるのも分かる。分かるが、自分ではできん。だから、口で言う」
娘が、顔を上げずに「うるさいのよ、おじいちゃん」と言った。ギレムが笑った。
「……あんたに店を残してもらった日、わしはもう縫えんと言ったな」
「はい」
「あのときは、店だけ残っても意味がないと思っとった」
老人は、壁の棚を見た。色ごとに並んだ糸巻き。三十年ぶんの並べ方。
「意味は、あった。この並べ方を、この子が覚えたからな」
俺は、しばらく何も言えなかった。
守るというのは店のことなのか、と、あの日フィオナに聞いた。答えは出ないままだった。
出ないままでよかったのかもしれない、と今は思う。答えを俺が出す話ではなかった。
店を出て、大通りへ戻った。
ダルトン商会の建物の前で、荷馬車に木箱を積んでいる男がいた。
レイフ・ダルトンだった。
上等だった上着は、そのままだ。ただ、襟のあたりが少し汚れていた。彼は俺に気づいて、荷を積む手を止めた。
「……ああ」
彼は、笑わなかった。丁寧な笑い方も、しなかった。
「叔父は牢だ。俺は、帳簿の引き渡し。それが済んだら、南へ行く」
「そうですか」
レイフは、木箱の縁に腰を下ろした。
「あんた、いくつになった」
「十八です」
「そうか。二年前だな。あの仕立て屋の店で会ったのが」
「はい」
「俺は、あのとき言ったな。正しさで買える時間は、二年ぶんだけだと」
俺は、頷いた。あの言葉は、二年ずっと頭のどこかにあった。
レイフは、大通りの向こうを見た。看板の外れた壁に、四角い日焼けの跡が残っている。
「今日で、ちょうど二年だ」
「……はい」
「二年で、俺のほうが先に終わった」
彼は、そう言って、初めて短く笑った。自嘲でも負け惜しみでもない、乾いた笑い方だった。
「言っとくが、俺は詫びる気はない。あの仕立て屋も、革細工も、他の三十軒も、潰す気で潰しにいった。あんたに邪魔されなきゃ潰してた」
「知っています」
「知ってて、よく普通に喋れるな」
「あなたが何をしたかと、あなたが今どうかは、別の話です」
レイフは、少しのあいだ、俺の顔を見ていた。
それから、周りを見回した。誰もいないのを確かめる仕草だった。
「ひとつ、置いていく」
「なんですか」
「うちの叔父はな、最初から強欲だったわけじゃない。二十年前は、街で三番目に律儀な商人と言われてた」
俺は、黙って聞いた。
「あの書式——六月前の書面通知だの、定義をわざと空けとくだのって書き方。あれを叔父に教えたのは、伯爵じゃない」
背筋に、冷たいものが走った。
「……誰ですか」
「知らん。俺は一度も会ってない。叔父は『王都の先生』としか言わなかった」
「先生」
「そうだ。年に二回、書式の見本が届いてた。手紙もなし、名前もなし、封蝋もなし。紙だけだ。叔父は、その紙が来ると三日は誰とも喋らなかった」
レイフは、立ち上がった。
「あんたが議会で潰したのは、叔父と伯爵だ。書式を作った人間は、名前も出てない」
「なぜ、それを俺に」
彼は、荷馬車の縄を締めながら、こちらを見ずに答えた。
「叔父を潰した相手が、次に潰される側に回るのは、少し面白くない。それだけだ」
荷馬車が動き出した。
俺は、その場に立ったまま、遠ざかる背中を見ていた。
帰り道、香辛料商のメルダの店の前を通った。彼女は店先で樽を洗っていた。
「聞きましたよ。あの商会、潰れたんですってね」
「はい」
「よかった。……北の道は、まだ駄目ですけどね」
彼女は、そう言って笑った。恨みのない笑い方だった。
「伯爵さまは、まだいらっしゃるから」
その一言が、夕方まで、俺の耳に残った。




