10.見習いの初仕事
ギルドの一階には、依頼人が待つための長椅子が並んでいる。
その日、長椅子の両端に、二人の男が座っていた。互いに顔も見ない。間に三人ぶんの空席があって、そこだけ空気が固まっていた。
「あれ、朝からずっとよ」
フィオナが腕を組んで言った。俺がこのギルドに来て、十日ほど経っていた。
「乾物商のケレスさんと、荷馬車のオルグさん。納期のことで揉めてる。三度も追い返したのに、また来た」
「誰が担当するんですか」
「本来なら私。でも今日は、南街区の火事の後始末で人手が要る」
フィオナは、俺を見下ろした。値踏みする目だった。この十日、彼女はずっとこの目で俺を見ている。
「……やってみる?」
言い方が、わざとらしいくらい軽かった。試されている、と分かった。
「はい」
俺が即答すると、フィオナは少しだけ眉を上げた。
「言っておくけど、私は隣で見てるだけよ。助け船は出さない。あなたが泣かせたら、あなたが謝る」
「わかりました」
俺は、長椅子の間に立った。七つの子供が二人の男の間に割り込んだ形になって、周りの職員が何人か手を止めた。
「銀翼商業ギルドの見習い、カイン・ヴォルティスです。お話をうかがいます」
ケレスという男が、じろりと俺を見た。痩せて、神経質そうな顔をしている。
「……冗談だろう」
「冗談かどうかは、俺の話を聞いてから決めてください。三度お帰りになって、四度目です。四度目も同じ結果でよければ、俺は引っ込みます」
ケレスは、口を開きかけて、閉じた。
話は単純だった。ケレスがオルグに乾物の運送を頼んだ。契約書には、こうある。
——荷は、約定の日より三十日以内に納むべし。遅延一日につき、銀貨一枚を違約金とする。
ケレスの主張。約定の日とは、契約を交わした日だ。だからもう期限は八日過ぎている。違約金は八枚。
オルグの主張。約定の日とは、荷を積んだ日だ。積んだのは契約の十二日後だから、期限はまだ四日先だ。
「どっちの言い分も通る書き方なのよ、これが」
フィオナが横で小さく言った。半分は俺への説明で、半分は「無理でしょう」という意味だった。
俺は、契約書を裏返した。何もない。もう一度表を見た。
「オルグさん。お二人の取引は、今回が初めてですか」
「いや……四度目だ」
「過去三回の受取証は、お持ちですか」
オルグは、荷袋から皺だらけの紙束を出した。運送屋というのは、これを捨てない。捨てたら食い詰めるからだ。
俺は三枚を並べ、日付を追った。
一回目。契約が春の七日、荷積みが十九日、納品が翌月の十六日。
二回目。契約が夏の三日、荷積みが十日、納品が四十日後。
三回目も、同じ形だった。
「ケレスさん」
俺は顔を上げた。
「この三回とも、契約の日から数えれば三十日を過ぎています。二回目に至っては十七日超過だ。違約金は、いくら請求されましたか」
ケレスの喉が、動いた。
「……請求は、していない」
「一度も、ですか」
「……ああ」
「では、うかがいます」
俺は、三枚の受取証をケレスのほうへ滑らせた。
「この三回、あなたは違約金を請求しなかった。それはあなたが優しかったからですか。それとも、あなたも『約定の日』を荷積みの日だと思っていたからですか」
ケレスは、答えなかった。
「答えにくければ、こう言い換えます。もしあなたが最初から契約日起算だと考えていたのなら、あなたは三度にわたって、取り立てられる金を黙って捨てたことになる。商人として、それをなさいますか」
「……するわけがない」
「では、あなたも荷積み日起算だと思っていた。少なくとも、三度はそう扱った。文言が曖昧なとき、当事者が実際にどう扱ってきたかが、その文言の意味です」
長椅子の周りが、静かになっていた。
ケレスは、両手で顔をこすった。それから、絞り出すように言った。
「……今回は、特別なんだ」
俺は、そこで攻めるのをやめた。
前世で、俺はこの手の「特別なんだ」を何度も聞いた。そう言うとき、人は嘘をついているのではない。言えていないことがあるだけだ。
「特別だと、いつオルグさんに伝えましたか」
「……伝えて、ない」
「なぜですか」
ケレスは、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「……仕入れ先の親方が、倒れた。あの店が畳まれる前に、乾物を売り切って、金にしておかないと。娘の、婚礼が春にある」
オルグが、初めてケレスのほうを向いた。
「……そりゃ、先に言えよ」
「言えるか。金がないから急いでますなんて」
俺は、二人の間に立ったまま、少し考えた。
「オルグさん。荷は、いま全部が街道の途中ですか」
「半分は、もう倉に入ってる。残り半分が明後日着く」
「では、倉にある半分だけ、明日届けられますか。残りは元の期限どおりで」
オルグは顎を掻いた。
「……できなくはねえ。荷馬車をもう一台出せば」
「ケレスさん。半分でも明日手に入れば、売り出しには間に合いますか」
「……間に合う。間に合うが、余計な馬車代は」
「そこは、違約金八枚を請求しない代わり、と考えては」
二人が、同時に黙った。
それから、ケレスが先に折れた。「……それでいい」と言って、初めてオルグの顔をまともに見た。オルグは鼻を鳴らして、「最初っからそう言え」と言った。
書き直した契約書に二人が署名して、出ていった。長椅子の間の三人ぶんの空席は、なくなっていた。
フィオナが、腕を組んだまま、俺を見下ろしていた。
「……ひとつ、聞いていい?」
「はい」
「過去の受取証を見ようって、どこで思いついたの」
「書いてあることが曖昧なら、やってきたことを見るしかないので」
「そうじゃなくて」
フィオナは、少し苛立ったように言い直した。
「なんで、あの人が『特別なんだ』って言ったところで、勝ちにいくのをやめたの。あそこで押せば、あなたの完勝だったでしょう」
俺は、少し考えてから答えた。
「勝っても、ケレスさんの店は畳まれます」
フィオナの眉が、動いた。
「……ふうん」
彼女は、それだけ言って、書類の束を俺の胸に押しつけてきた。ずしりと重かった。
「明日から、朝は受付。昼は書庫の整理。夕方に、私の案件の下読み。子供扱いはしないから、そのつもりで」
「……はい」
「まだ認めてないからね。今日のは、たまたま筋がよかっただけ」
そう言って、フィオナは背を向けた。
背を向ける寸前、口の端が少し上がっていたのを、俺は見た。見なかったことにした。




