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タイトル未定  作者: 橋本陽


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2-2

コメントお待ちしております。

「これ、誰が考えたんだろ」

 結菜が言うと、梨央は答えない。答えないことで答えている。

 修がいつの間にか廊下の端に立っていた。気配が薄い。まるで“そこにいた”ことを後から追加されたみたいに。

「ルールって、便利だよね」

 修は淡々と言った。

「便利?」

「守ると安心できる。破ると悪になる。……単純」

 修は掲示板を見ながら言う。まるで、ルールではなく人間のことを言っている。


 結菜は三枚目、「非常時について」に視線を移した。

 非常用具一覧が印刷されている。懐中電灯、救急箱、毛布、携帯ラジオ。

 その中に小さく——「重り×2」。

 重り。何のための重りかは書かれていない。

「重りって、何」

 結菜が呟くと、梨央がすぐに首を横に振った。

「今はいい。覚えとくだけでいい」

 覚えとく。梨央の声が、命令じゃなくお願いとして届く。お願いなのに、断りにくい。


 階段の下から足音が上がってきた。峰岸だ。きしむ階段を一定の速度で上がる。速度が一定なのは、急いでいないからではない。一定であることが目的みたいだ。

 峰岸は掲示板の前で一礼した。

「ご確認いただけましたか」

 結菜は頷いた。頷きながら、受領確認書の控えを思い出す。あの小さな括弧書きが、この宿のルールの鍵になっている。鍵。二本しかない鍵より、よほど鋭い鍵だ。


「鍵は二本しかないんですか」

 梨央が先に聞いた。梨央はこういうとき、結菜より先に矢面に立つ。守るため。守るという言葉の優しさに、結菜は甘えてきた。

 峰岸は淡々と頷いた。

「はい。本日は満室のため、鍵の運用を簡略化しております」

「簡略化って、危なくないですか」

「危なくありません。合意があれば例外です」

 峰岸は同じ言葉を繰り返す。合意があれば例外。万能の札みたいに。


 結菜は思わず聞いた。

「合意がないと、廊下に出られない?」

「原則は、そうです」

「必要がある場合は?」

「関係者同士で合意し、署名控えをご提示ください」

「……誰に提示するんですか」

「受付に。——必要があれば、私が確認します」

 峰岸の言い方は丁寧で、拒否がない。その丁寧さが、逆に怖い。拒否がないルールほど、人を縛る。


 峰岸は廊下の時計を見た。

「お食事は十九時です。それまで、ごゆっくり」

 言って、階段を下りていく。一定の速度。一定の音。一定の気配。

 峰岸がいなくなると、廊下の空気が少し緩んだ。

 緩んだ瞬間、結菜は気づいてしまう。緩む、ということは、今まで緊張していたということだ。緊張していたのは、峰岸が怖かったからではない。ルールが怖かったからだ。


 結菜は自分の部屋に戻り、受領確認書の控えを畳の上に置いた。控えは“控え”なのに、ここでは通行証みたいな顔をしている。

 航はベッド代わりの畳に腰を下ろし、スマホをいじっていた。圏外。画面は無力なのに、手だけは動く。

「梨央、何て」

 航が聞く。

「鍵が二本しかないの、おかしいって」

「おかしいけど、旅館ってそういうこともあるだろ」

「……そういうこと?」

 結菜は受領確認書の小さな文字を指でなぞった。「合意の確認は署名控えの提示で代替する」

「ここ、読んだ?」

 航は一瞬だけ目を泳がせた。

「全部は」

「全部じゃなくていい。ここ」

 結菜が指差すと、航は覗き込んだ。読んで、眉を僅かに寄せた。

「……控えって、そういう意味か」

「そういう意味って何」

 結菜の声が尖る。尖るのが嫌で、結菜はすぐに息を吐いた。

 航は答えない。答えないことが癖になっている。その癖が、ここでは罪にされるかもしれない。沈黙は不誠実。拒否は放棄。——封筒の中身はまだ読んでいないのに、結菜の頭のどこかが勝手にそういう言葉を作ってしまう。作るな、と自分に言いたい。作るのは得意だ。勝手に意味を補完して、勝手に苦しくなる。


「……静香って、誰」

 結菜は話題を変えた。変えないと、喉に棘が刺さる。

 航は窓の外を見る。闇。

「昔、知り合った」

「どういう知り合い」

「……大学のとき」

「それだけ?」

 結菜は航を見た。航は結菜を見返さない。

 結菜は思った。航は静香を怖れている。怖れているから沈黙している。沈黙するほど、結菜は勝手に補完して、勝手に怖くなる。

 この循環を、結菜は嫌というほど知っている。


 ドアの外から足音が近づいた。今度は軽い。梨央の足音だ。

 梨央はノックもせずに襖を開け、顔だけ出した。

「結菜、夕食前に静香と会える?」

 結菜は頷いた。頷きながら、喉が鳴る。

「会う」

「うん。……じゃあ、食堂行こ。修も一緒」

 梨央は言って、すぐに引っ込んだ。引っ込む直前、結菜は梨央の手に受領確認書の控えが握られているのを見た。控え。通行証。合意の代替。


 結菜は鞄を持ち、封筒を入れたまま立ち上がった。封筒は重い。重いのは紙のせいじゃない。紙が持っている意味のせいだ。

 廊下に出ると、壁掛け時計の秒針が音を立てていた。廊下の端の掲示板の下、非常用具一覧の「重り×2」が小さく視界に入る。

 結菜はそれを見て、なぜか「まだだ」と思った。重りの意味はまだ知らない。知らないまま進むしかない。


 階段を下りると、食堂から湯気と匂いが漂ってきた。味噌汁、焼き魚、炊き立ての米。普通の夕食。普通の匂い。普通のはずなのに、ここではそれが作り物みたいに感じる。普通であることが、逆に不自然だ。


 食堂にはすでに修が座っていた。四人掛けの卓が三つ。峰岸は奥で鍋を運んでいる。宿が満室と言うわりに、他の客の気配がない。結菜は周囲を見回してから、梨央に小声で言った。

「他のお客さんは?」

「……いないよ。今日ここにいるのは私たちだけ」

 梨央は言い切った。言い切り方が、前から決まっていたみたいだった。

「満室って言ってたのに」

「満室は満室。部屋が埋まってる、って意味」

 梨央の言い方は曖昧なのに、結菜は背筋が冷えた。埋まってる。人で、じゃない。


 そのとき、入口の引き戸が開いた。

 静香が入ってきた。


 結菜は初めて顔を見た。二十代後半くらい。派手ではない。髪は後ろでまとめ、目はまっすぐで、化粧は薄い。なのに、目だけが異様に強い。強いのは怒りではなく、決めてきた人の目だ。

 静香は結菜を見て、ほんの一瞬だけ表情を固めた。固めたのは驚きではない。確認。峰岸の目と同じ種類の確認だった。

「相沢さん」

 静香は結菜の苗字を呼んだ。

「……結菜さん、でいい?」

 結菜は頷いた。頷くと、静香は航を見た。航の肩が、ほんの僅かに跳ねた。

 静香はそれを見逃さず、でも追及もせず、椅子に座った。

「遅れてごめん。……この宿、時計が進んでるよね」

 いきなり時計の話。結菜の胸が小さく跳ねる。

 静香は淡々と続けた。

「私、こういうの嫌いなんだ。時間の基準が一つしかない場所」

 梨央が「そういう場所に来たの、誰だっけ」と軽く言う。軽く言って、重くするのが梨央の癖だ。

 修は箸を取らずに静香を見ている。航は黙って水を飲んだ。


 峰岸が料理を並べ、最後に一礼した。

「皆さま、揃いましたね。——本日のお食事をお楽しみください」

 峰岸が去り際に言った。

「夜間のルールだけ、改めて。館内時計で零時以降、廊下は控えてください。必要があれば——合意があれば例外です」

 またその言葉。合意があれば例外。

 静香が小さく笑った。

「合意って便利だよね」

 静香の笑いは温度がない。

 結菜はその笑いを見て、確信した。静香はここに“話し合い”に来たんじゃない。話し合いの形をした何かを、終わらせに来た。


 食堂の空気が、湯気の匂いとは別の重さを持つ。

 静香は箸を取らずに、結菜の鞄に視線を落とした。鞄の口から、茶色い封筒の角がわずかに覗いている。

 静香はその角を見て、言った。

「それ、まだ開けてないよね。——透明化テストの同意書」

 結菜の指先が冷たくなった。

 航の水を飲む音が、やけに大きく響いた。


 結菜は答えようとして、答えられなかった。

 沈黙。

 沈黙がここでは、ただの沈黙で終わらない気がした。


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