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「これ、誰が考えたんだろ」
結菜が言うと、梨央は答えない。答えないことで答えている。
修がいつの間にか廊下の端に立っていた。気配が薄い。まるで“そこにいた”ことを後から追加されたみたいに。
「ルールって、便利だよね」
修は淡々と言った。
「便利?」
「守ると安心できる。破ると悪になる。……単純」
修は掲示板を見ながら言う。まるで、ルールではなく人間のことを言っている。
結菜は三枚目、「非常時について」に視線を移した。
非常用具一覧が印刷されている。懐中電灯、救急箱、毛布、携帯ラジオ。
その中に小さく——「重り×2」。
重り。何のための重りかは書かれていない。
「重りって、何」
結菜が呟くと、梨央がすぐに首を横に振った。
「今はいい。覚えとくだけでいい」
覚えとく。梨央の声が、命令じゃなくお願いとして届く。お願いなのに、断りにくい。
階段の下から足音が上がってきた。峰岸だ。きしむ階段を一定の速度で上がる。速度が一定なのは、急いでいないからではない。一定であることが目的みたいだ。
峰岸は掲示板の前で一礼した。
「ご確認いただけましたか」
結菜は頷いた。頷きながら、受領確認書の控えを思い出す。あの小さな括弧書きが、この宿のルールの鍵になっている。鍵。二本しかない鍵より、よほど鋭い鍵だ。
「鍵は二本しかないんですか」
梨央が先に聞いた。梨央はこういうとき、結菜より先に矢面に立つ。守るため。守るという言葉の優しさに、結菜は甘えてきた。
峰岸は淡々と頷いた。
「はい。本日は満室のため、鍵の運用を簡略化しております」
「簡略化って、危なくないですか」
「危なくありません。合意があれば例外です」
峰岸は同じ言葉を繰り返す。合意があれば例外。万能の札みたいに。
結菜は思わず聞いた。
「合意がないと、廊下に出られない?」
「原則は、そうです」
「必要がある場合は?」
「関係者同士で合意し、署名控えをご提示ください」
「……誰に提示するんですか」
「受付に。——必要があれば、私が確認します」
峰岸の言い方は丁寧で、拒否がない。その丁寧さが、逆に怖い。拒否がないルールほど、人を縛る。
峰岸は廊下の時計を見た。
「お食事は十九時です。それまで、ごゆっくり」
言って、階段を下りていく。一定の速度。一定の音。一定の気配。
峰岸がいなくなると、廊下の空気が少し緩んだ。
緩んだ瞬間、結菜は気づいてしまう。緩む、ということは、今まで緊張していたということだ。緊張していたのは、峰岸が怖かったからではない。ルールが怖かったからだ。
結菜は自分の部屋に戻り、受領確認書の控えを畳の上に置いた。控えは“控え”なのに、ここでは通行証みたいな顔をしている。
航はベッド代わりの畳に腰を下ろし、スマホをいじっていた。圏外。画面は無力なのに、手だけは動く。
「梨央、何て」
航が聞く。
「鍵が二本しかないの、おかしいって」
「おかしいけど、旅館ってそういうこともあるだろ」
「……そういうこと?」
結菜は受領確認書の小さな文字を指でなぞった。「合意の確認は署名控えの提示で代替する」
「ここ、読んだ?」
航は一瞬だけ目を泳がせた。
「全部は」
「全部じゃなくていい。ここ」
結菜が指差すと、航は覗き込んだ。読んで、眉を僅かに寄せた。
「……控えって、そういう意味か」
「そういう意味って何」
結菜の声が尖る。尖るのが嫌で、結菜はすぐに息を吐いた。
航は答えない。答えないことが癖になっている。その癖が、ここでは罪にされるかもしれない。沈黙は不誠実。拒否は放棄。——封筒の中身はまだ読んでいないのに、結菜の頭のどこかが勝手にそういう言葉を作ってしまう。作るな、と自分に言いたい。作るのは得意だ。勝手に意味を補完して、勝手に苦しくなる。
「……静香って、誰」
結菜は話題を変えた。変えないと、喉に棘が刺さる。
航は窓の外を見る。闇。
「昔、知り合った」
「どういう知り合い」
「……大学のとき」
「それだけ?」
結菜は航を見た。航は結菜を見返さない。
結菜は思った。航は静香を怖れている。怖れているから沈黙している。沈黙するほど、結菜は勝手に補完して、勝手に怖くなる。
この循環を、結菜は嫌というほど知っている。
ドアの外から足音が近づいた。今度は軽い。梨央の足音だ。
梨央はノックもせずに襖を開け、顔だけ出した。
「結菜、夕食前に静香と会える?」
結菜は頷いた。頷きながら、喉が鳴る。
「会う」
「うん。……じゃあ、食堂行こ。修も一緒」
梨央は言って、すぐに引っ込んだ。引っ込む直前、結菜は梨央の手に受領確認書の控えが握られているのを見た。控え。通行証。合意の代替。
結菜は鞄を持ち、封筒を入れたまま立ち上がった。封筒は重い。重いのは紙のせいじゃない。紙が持っている意味のせいだ。
廊下に出ると、壁掛け時計の秒針が音を立てていた。廊下の端の掲示板の下、非常用具一覧の「重り×2」が小さく視界に入る。
結菜はそれを見て、なぜか「まだだ」と思った。重りの意味はまだ知らない。知らないまま進むしかない。
階段を下りると、食堂から湯気と匂いが漂ってきた。味噌汁、焼き魚、炊き立ての米。普通の夕食。普通の匂い。普通のはずなのに、ここではそれが作り物みたいに感じる。普通であることが、逆に不自然だ。
食堂にはすでに修が座っていた。四人掛けの卓が三つ。峰岸は奥で鍋を運んでいる。宿が満室と言うわりに、他の客の気配がない。結菜は周囲を見回してから、梨央に小声で言った。
「他のお客さんは?」
「……いないよ。今日ここにいるのは私たちだけ」
梨央は言い切った。言い切り方が、前から決まっていたみたいだった。
「満室って言ってたのに」
「満室は満室。部屋が埋まってる、って意味」
梨央の言い方は曖昧なのに、結菜は背筋が冷えた。埋まってる。人で、じゃない。
そのとき、入口の引き戸が開いた。
静香が入ってきた。
結菜は初めて顔を見た。二十代後半くらい。派手ではない。髪は後ろでまとめ、目はまっすぐで、化粧は薄い。なのに、目だけが異様に強い。強いのは怒りではなく、決めてきた人の目だ。
静香は結菜を見て、ほんの一瞬だけ表情を固めた。固めたのは驚きではない。確認。峰岸の目と同じ種類の確認だった。
「相沢さん」
静香は結菜の苗字を呼んだ。
「……結菜さん、でいい?」
結菜は頷いた。頷くと、静香は航を見た。航の肩が、ほんの僅かに跳ねた。
静香はそれを見逃さず、でも追及もせず、椅子に座った。
「遅れてごめん。……この宿、時計が進んでるよね」
いきなり時計の話。結菜の胸が小さく跳ねる。
静香は淡々と続けた。
「私、こういうの嫌いなんだ。時間の基準が一つしかない場所」
梨央が「そういう場所に来たの、誰だっけ」と軽く言う。軽く言って、重くするのが梨央の癖だ。
修は箸を取らずに静香を見ている。航は黙って水を飲んだ。
峰岸が料理を並べ、最後に一礼した。
「皆さま、揃いましたね。——本日のお食事をお楽しみください」
峰岸が去り際に言った。
「夜間のルールだけ、改めて。館内時計で零時以降、廊下は控えてください。必要があれば——合意があれば例外です」
またその言葉。合意があれば例外。
静香が小さく笑った。
「合意って便利だよね」
静香の笑いは温度がない。
結菜はその笑いを見て、確信した。静香はここに“話し合い”に来たんじゃない。話し合いの形をした何かを、終わらせに来た。
食堂の空気が、湯気の匂いとは別の重さを持つ。
静香は箸を取らずに、結菜の鞄に視線を落とした。鞄の口から、茶色い封筒の角がわずかに覗いている。
静香はその角を見て、言った。
「それ、まだ開けてないよね。——透明化テストの同意書」
結菜の指先が冷たくなった。
航の水を飲む音が、やけに大きく響いた。
結菜は答えようとして、答えられなかった。
沈黙。
沈黙がここでは、ただの沈黙で終わらない気がした。




