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第一章残り少しだったので少し長めにしてみました。
読みづらくはないですか?
感想アドバイスお待ちしております。
「相沢さま。少々よろしいでしょうか」
峰岸の声だ。
結菜が襖を開けると、廊下に峰岸が立っていた。背後には梨央と修もいる。梨央は手を振るが、目が笑っていない。修は相変わらず静かだ。
「お食事までお時間がございますので、共有事項だけ先にお伝えします」
峰岸は掲示板の紙を一枚、指先で軽く叩いた。
「館内では、時計の表示が基準となります。お手持ちの時計と異なる場合がございますが、館内表示に従ってください」
結菜は思わず峰岸の目を見た。異なる場合がある、と先に言うのは不自然だった。普通は、合っている前提で運用する。
「……ずれてるんですか」
結菜が言うと、峰岸は表情を変えずに答えた。
「山間部で、外部の電波が不安定です。——こちらで合わせております」
合わせている。つまり、手動で。つまり、間違える可能性がある。
峰岸は続ける。
「もう一点。夜間の廊下の移動についてです。基本は控えていただきますが、必要があれば——」
言いかけて、峰岸は結菜と航、それから梨央と修を順に見た。見て、確認した。
「——合意があれば例外です。ご不安な点があれば、必ずカウンターへ」
梨央が「合意って、誰と?」と軽く言った。軽く言いながら、声が硬い。
峰岸は淡々と答えた。
「関係者同士の合意です。控えの提示があれば、例外を適用します」
控え。さっきサインした受領確認書の控え。結菜の手の中にある薄い紙が、急に重くなった。
峰岸は一礼し、階段へ向かう。梨央が結菜の腕を掴んだ。
「ねえ。封筒、持ってる?」
囁き声。結菜は息を止める。持っている。さっき見つけた。見ないふりをしたやつ。
「……なんの話」
「結菜」
梨央が名前だけを呼んだ。名前だけが、圧力になる。
修が一歩近づく。
「いまは、見ない方がいい。……たぶん」
修の「たぶん」が、結菜の背中を押した。押したのは安心ではなく、恐怖だった。見ない方がいいものが、確かにここにある。
航は、廊下の時計を見上げていた。秒針が、正確に音を刻む。
結菜はふと、峰岸の言葉を思い出す。
同意は取れてます。
——誰が、何に同意したんだろう。
階下から、また引き戸の音がした。今度ははっきりと、人の気配がある。ロビーで誰かが「遅くなりました」と言う声が聞こえた気がした。
結菜は廊下の端へ歩き、階段の手すり越しに一階を覗こうとした。だが、梨央がそっと肩を押さえて止める。
「まだ、会わない方がいい」
梨央の声が震えていた。
「……誰?」
「静香」
梨央は答えた。答えた瞬間、修が目を伏せた。航は動かない。
結菜は、知らないはずの名前に心臓が反応するのを感じた。
この宿で遅れてくるのは、人じゃない。
言葉だ。
そして、言葉が来る前に、人は“同意”させられる。
結菜は部屋に戻り、襖を閉めた。閉めた瞬間、外の気配が切れたようで、逆に自分の心臓の音が大きくなる。畳の上に座り込み、鞄の中の封筒をもう一度探した。
指先が、封筒のざらついた紙に触れる。引き抜く。今度は裏返さない。表の文字を読む。目で追うだけで、喉が乾いた。
同意書/透明化テスト。
「透明化」なんて、優しい言葉のようで、残酷だ。透明にする、というのは、見えなくすることでもある。見えなくなるのは誰なのか。見えなくされるのは誰なのか。
結菜は封筒の口に指をかけた。封を切れば、中には条項が並んでいるはずだ。読めば思い出す。思い出せば、決めなきゃいけない。
——見ない方がいい。
修の言葉が、耳の奥で反響する。修は航の友人だ。結菜と直接の関係は薄い。その修が「見ない方がいい」と言った。なぜ? 何を知っている?
結菜は封筒を開けずに、畳の上に置いた。置いた瞬間、紙が“場”になった気がした。そこにあるだけで、空気が変わる。
スマホを握る。圏外の表示。電波がないなら、外の世界に助けを求めることも、いつもの逃げ道を使うこともできない。結菜は笑いそうになった。逃げ道を塞がれたのは、今日が初めてではないのに。
ふと、ドアの向こうから足音がした。廊下を歩く音。二階の廊下は狭い。誰かが通れば、きしみが伝わる。結菜は息を止めた。さっき峰岸は「夜間の廊下は控えて」と言った。いまは夜間じゃない。まだ夕食前だ。それでも、ルールという言葉が、足音に意味を付ける。
足音は、自分の部屋の前で止まらず、奥へ行って戻っていった。誰かが階段を下りる音。次に、ロビーのあたりで声がする。さっきの“遅くなりました”は、気のせいではなかったらしい。
結菜は障子を少しだけ開け、庭を見た。外は暗い。雪は降っていない。風だけが木の枝を揺らす。枝の影が、窓ガラスに黒い線を描く。その線が、人の輪郭に見える瞬間がある。
結菜は目を細めた。考えすぎだ。
襖の向こうで、またノックが鳴った。今度は梨央だ。梨央は入ってくるなり、声を低くした。
「ごめん。びっくりさせた」
「……説明して」
「うん。でも、その前に一個だけ聞く。——結菜、帰る?」
梨央の目が真剣だった。結菜は即答できなかった。帰る、と言えば楽になる。帰らない、と言えば戦うことになる。
「帰らない。……たぶん」
結菜が言うと、梨央は苦しそうに笑った。
「たぶん、って言い方、昔から変わんないね」
「どういう意味?」
「変わった方がいい時もある」
梨央は言って、息を吸った。
「静香ね。二年前の——」
言いかけて、梨央は言葉を飲み込んだ。飲み込んだことが、結菜には分かった。飲み込む必要のある言葉だということも。
「二年前の、何」
結菜が促すと、梨央は首を横に振った。
「……本人から聞いた方がいい。私は、私の言葉でまた壊したくない」
梨央のその言い方が、結菜には異様に聞こえた。梨央が“壊す”なんて言葉を使うのは珍しい。梨央はいつも、壊す前に柔らかく包もうとする人だから。
「あなたの言葉で、壊した?」
結菜が問い返すと、梨央は答えない。答えないことが、答えだった。
梨央は封筒をちらりと見た。畳の上の封筒。
「それ、開けないで。今は」
「なんで」
「開けたら、結菜が“正しい”方に行くから」
結菜は凍った。正しい方。梨央は、結菜をよく知っている。結菜が、正しさで安心する癖があることも。正しさで、誰かを追い詰めたことがあることも。
追い詰めた、という言葉が喉を掻く。そんなつもりじゃなかった、と言い訳したい。言い訳が一番醜いと知っているから、言えない。
梨央は立ち上がり、襖に手をかけた。
「夕食、十九時。……その前に静香、会っておいた方がいい。会わなかったら、もっと怖くなる」
「怖い?」
「うん。怖いよ。私も」
梨央はそう言って出ていった。
結菜は一人になった部屋で、封筒を見つめた。時計は——部屋にはない。廊下の時計の秒針の音だけが、薄い壁越しに聞こえる。
カチ、カチ、カチ。
その音に混じって、一階から声がした。今度ははっきり聞こえる。
「……相沢さん、ですよね」
誰かが結菜の苗字を呼んでいる。峰岸の声ではない。梨央の声でもない。女性の声。淡々としているのに、妙に胸に残る。
結菜は立ち上がり、襖を開けて廊下に出た。出た瞬間、廊下の空気が冷たい。足元灯は点いていない。まだ、人感センサーが反応する時間じゃないのかもしれない——そんなことを考える自分が可笑しい。ここに来てから、結菜は仕組みのことばかり考えている。
階段の上から一階を覗くと、ロビーに二人の影が見えた。峰岸の向こう、コートを脱いでいる女性。顔は角度的に見えない。けれど、航がその影を見た瞬間に固まるのが見えた。
航の肩が、ほんの少しだけ跳ねた。
結菜は思った。
やっぱり、これは偶然じゃない。
偶然じゃないのに、同意は取れていることになっている。




