1-4
静香。
胸の奥が、ひやりとした。
遅れてきたのは彼女だけじゃない。
ここにいる誰もが、言いかけては飲み込み、笑ってはごまかしている。
結菜は思う。——この宿でいちばん遅れて到着するのは、人じゃない。
本当のことを言うための、言葉だ。
部屋の襖が閉まると、音が吸われた。廊下のきしみも、峰岸の足音も遠のく。畳に正座した結菜は、膝の上に両手を置いたまま動けなかった。旅館の部屋は、こんなに無防備だっただろうか。目線を上げると、壁の掛け軸が「無心」と書いてある。笑えない。
航は鞄を置き、窓を少し開けた。冷気が入る。
「寒い」
「すぐ閉める。……空気、変えたくて」
航の言い方は、いつも“理由”に見えて、実は“逃げ道”でもある。そう思う自分が嫌で、結菜は視線を畳に落とした。
「梨央が来るなんて、聞いてない」
結菜はようやく口にした。
「俺も、詳しくは——」
「詳しくは、じゃなくて。知ってたの? 知らなかったの?」
問い詰める声になった。結菜は一瞬だけ唇を噛む。責めたいんじゃない。責めると決めたら簡単になるから、責めないでいたいだけだ。
航は沈黙した。沈黙が長いほど、結菜の胸の中に別の言葉が湧いてくる。どうせ、また。どうせ、曖昧に。どうせ、私が決める羽目になる。
「……聞いてた」
航がやっと言った。
「聞いてた、って」
「梨央が、来たいって。俺は止めた。けど、結菜が逃げると思って、って……」
「逃げる?」
結菜の声が裏返った。逃げる、という評価が、胸に刺さる。自分が臆病だと認めるより先に、誰かに認定されるのが嫌だった。
「逃げるって、何から」
「……話すことから」
航は言い切らない。言い切らないのに、結菜の中では言い切られたのと同じように形が決まってしまう。
結菜は立ち上がり、鞄のチャックを開けた。何か手を動かしていないと、言葉の棘にやられる。洗面道具、充電器、替えの服——充電器の端子を見て、結菜は苦笑した。圏外なのに。電波がない山奥に、癖で持ってきてしまっていた。
スマホを取り出す。案の定、表示は圏外。時計だけが、無機質に時間を示している。
「さっきさ、峰岸さん……私たちの苗字、間違えた」
結菜は話題を変えた。変えた自分に、少し安堵した。責めるより、違和感を共有する方がまだ優しい。
「俺が予約のとき、同じ苗字で書いた」
航はすぐ答えた。さっきは言えなかったのに、こういうことは言える。
「なんで?」
「面倒だったから」
面倒。航の口から出ると、責任から逃げた言い訳に聞こえる。結菜はまた、嫌な自分を見つけた。
「……面倒って、何が」
「予約のフォーム、同伴者の欄がさ。苗字が別だと、チェックが増えるんだよ」
「そうなんだ」
結菜は頷いた。ここでは追及しない。追及したら、別の場所に飛び火する。
鞄の底に、茶色い封筒があるのが見えた。結菜の指が止まった。封筒の角が少し折れている。見覚えがある。見覚えがある、というより、見ないふりをしてきた形だ。
結菜は封筒を引き上げた。表に印刷された文字が、薄いインクで滲んでいる。
同意書。
その下に、細い字で別のタイトルがある。読みきる前に、結菜は封筒を裏返してしまった。見てしまうと、そこに戻ってしまう気がした。
「それ、何」
航が聞く。
「……仕事の。資料」
咄嗟に嘘をついた。嘘だ、と自分でも分かっている嘘。結菜は封筒を鞄に戻した。戻したことで、もっと目立った気がした。
航はそれ以上聞かない。聞かないことが優しさなのか、関心の薄さなのか。結菜にはまだ判別できない。
判別できないから、怖い。
そのとき、襖が軽く叩かれた。




