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零時のログ  作者: 橋本陽


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4/14

1-4

 静香。

 

 胸の奥が、ひやりとした。

 遅れてきたのは彼女だけじゃない。

 ここにいる誰もが、言いかけては飲み込み、笑ってはごまかしている。

 結菜は思う。——この宿でいちばん遅れて到着するのは、人じゃない。

 本当のことを言うための、言葉だ。


 部屋の襖が閉まると、音が吸われた。廊下のきしみも、峰岸の足音も遠のく。畳に正座した結菜は、膝の上に両手を置いたまま動けなかった。旅館の部屋は、こんなに無防備だっただろうか。目線を上げると、壁の掛け軸が「無心」と書いてある。笑えない。


 航は鞄を置き、窓を少し開けた。冷気が入る。

「寒い」

「すぐ閉める。……空気、変えたくて」

 航の言い方は、いつも“理由”に見えて、実は“逃げ道”でもある。そう思う自分が嫌で、結菜は視線を畳に落とした。


「梨央が来るなんて、聞いてない」

 結菜はようやく口にした。

「俺も、詳しくは——」

「詳しくは、じゃなくて。知ってたの? 知らなかったの?」

 問い詰める声になった。結菜は一瞬だけ唇を噛む。責めたいんじゃない。責めると決めたら簡単になるから、責めないでいたいだけだ。


 航は沈黙した。沈黙が長いほど、結菜の胸の中に別の言葉が湧いてくる。どうせ、また。どうせ、曖昧に。どうせ、私が決める羽目になる。

「……聞いてた」

 航がやっと言った。

「聞いてた、って」

「梨央が、来たいって。俺は止めた。けど、結菜が逃げると思って、って……」

「逃げる?」

 結菜の声が裏返った。逃げる、という評価が、胸に刺さる。自分が臆病だと認めるより先に、誰かに認定されるのが嫌だった。

「逃げるって、何から」

「……話すことから」

 航は言い切らない。言い切らないのに、結菜の中では言い切られたのと同じように形が決まってしまう。


 結菜は立ち上がり、鞄のチャックを開けた。何か手を動かしていないと、言葉の棘にやられる。洗面道具、充電器、替えの服——充電器の端子を見て、結菜は苦笑した。圏外なのに。電波がない山奥に、癖で持ってきてしまっていた。


 スマホを取り出す。案の定、表示は圏外。時計だけが、無機質に時間を示している。


「さっきさ、峰岸さん……私たちの苗字、間違えた」

 結菜は話題を変えた。変えた自分に、少し安堵した。責めるより、違和感を共有する方がまだ優しい。

「俺が予約のとき、同じ苗字で書いた」

 航はすぐ答えた。さっきは言えなかったのに、こういうことは言える。

「なんで?」

「面倒だったから」

 面倒。航の口から出ると、責任から逃げた言い訳に聞こえる。結菜はまた、嫌な自分を見つけた。

「……面倒って、何が」

「予約のフォーム、同伴者の欄がさ。苗字が別だと、チェックが増えるんだよ」

「そうなんだ」

 結菜は頷いた。ここでは追及しない。追及したら、別の場所に飛び火する。


 鞄の底に、茶色い封筒があるのが見えた。結菜の指が止まった。封筒の角が少し折れている。見覚えがある。見覚えがある、というより、見ないふりをしてきた形だ。

 結菜は封筒を引き上げた。表に印刷された文字が、薄いインクで滲んでいる。

 同意書。

 その下に、細い字で別のタイトルがある。読みきる前に、結菜は封筒を裏返してしまった。見てしまうと、そこに戻ってしまう気がした。


「それ、何」

 航が聞く。

「……仕事の。資料」

 咄嗟に嘘をついた。嘘だ、と自分でも分かっている嘘。結菜は封筒を鞄に戻した。戻したことで、もっと目立った気がした。


 航はそれ以上聞かない。聞かないことが優しさなのか、関心の薄さなのか。結菜にはまだ判別できない。

 判別できないから、怖い。


 そのとき、襖が軽く叩かれた。

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