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航が咳払いをした。梨央が、結菜の袖を小さく引く。修は何も言わない。峰岸の声だけが木の壁に吸われず、まっすぐ残った。
結菜は控えの紙を握りしめた。紙の薄さが、逆に心許ない。握ったところで守れないものがある。
それでも、ここまで来た。帰る理由を作るのは簡単だ。でも、帰ったら二人はまた同じ場所に戻るだけだ。言わない。決めない。先送りにして、少しずつ腐る。
峰岸が鍵を二本、カウンターの上に並べた。無造作ではない。並べ方に意味があるみたいに、正確に平行。
「お食事は十九時から一階の食堂です。静香さまがお着きになりましたら、改めてご案内します」
「部屋は……私たち、それぞれ?」
結菜が聞くと、峰岸は淡々と頷いた。
「はい。本日は、二階の三部屋をご用意しております。鍵は二本ですので、お戻りの際はカウンターへお声がけください」
「鍵、二本しか——」
梨央が言いかけて、笑う。
「なんか修学旅行みたい」
修は笑わない。「効率的ですね」とだけ言った。
航が結菜の顔を見た。何か言いたそうで、言わない。航の沈黙が、結菜にはいつも“様子見”に見える。考えてから言う人なのか、責任を持ちたくない人なのか。結菜は、まだどちらだと決めたくなかった。
峰岸が先に階段へ向かい、ゆっくり上がる。木の階段がきしむ。音が生々しいのに、誰の生活にも繋がっていない。宿の二階廊下は狭く、部屋の扉が三つ並んでいる。廊下の壁に、時計がかかっていた。丸い、ありふれた壁掛け時計。秒針の音がやけに大きい。
結菜は一瞬だけ、何気なくその時計に目を止めた。電波も入らない山奥で、正確な時計があるのはありがたい。
「こちらが相沢さまのお部屋です」
峰岸が一つ目の扉を開ける。畳の匂い。布団はまだ敷かれていない。窓の外は真っ黒で、木の影が揺れているのか、揺れていないのかも分からない。
続いて梨央と修の部屋。どちらも似ている。違いは、小さな置き物の位置と、壁のシミの形だけ。
「お風呂は一階奥です。貸切ではありませんが、混み合う時間を避けていただければ」
峰岸は淡々と説明し、最後に廊下の端にある掲示板を指した。
「ご滞在中のお願いがございますので、ご一読ください」
結菜は掲示板に近づいた。紙が何枚か貼られている。太字の見出しに「お願い」。その下に小さな文章。読む前に、梨央が結菜の背後で言った。
「結菜。……これ、嫌なら言って。帰ろうって」
「嫌、って何」
結菜は振り返る。梨央の目は冗談じゃない。いつもの軽さがない。守るために軽くしてきた人が、軽くできない何かを前にしている。
修が廊下の時計をちらりと見て、「時間、押してる」と言った。峰岸はその言葉に反応しない。航は掲示板から目を逸らし、窓の外を見ている。
結菜は掲示板の一枚目を読もうとした。だが視界の端に、別の紙が見えた。宿の宿帳とは別の、手書きの一覧。タイトルが「本日の目的」みたいな言葉で、その下に同じ文言が並んでいる。
関係の精算。
関係の精算。
関係の精算。
結菜は息を止めた。偶然じゃない。偶然で済ませたかった。でも、峰岸の「同意は取れてます」という言葉が、さっきより重く響く。
その瞬間、階下から、引き戸の開く音がした。
遅れてくる、と言われていた名前が脳裏をよぎる。




