【第1章 満室の台帳】1-1
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車を降りた瞬間、結菜は自分の息が白いことに気づいた。山の夜は、街の冷え方と質が違う。冷たさが皮膚の表面で止まらず、骨に沿って滑り込んでくる。
ヘッドライトを切ると闇がいっせいに押し寄せた。宿の建物だけが玄関灯に照らされて浮かび上がっている。木造二階建て。看板は小さく、文字は控えめで、名前より先に「宿」とだけ書いてあるように見えた。
「……静かだな」
助手席から降りた航が、わざとらしく明るい声で言う。明るさが薄い布みたいに、二人の間に一枚かかる。
「ここなら、話せるよ」
結菜は鍵をかけながら答えた。語尾が硬いのは自分でもわかっている。
来るまでの道中、二人はほとんど天気の話しかしていない。話したいことはある。言わなきゃいけないこともある。でも、口に出した瞬間に形が決まってしまう言葉を、結菜は怖れていた。決まってしまえば、戻れない。
玄関の引き戸を開けると、暖かい空気がふわりと頬に触れた。薪の匂いと、わずかに湿った木の匂い。ロビーは狭く、正面にカウンター、その横に古いソファと低いテーブルがある。壁に飾られた写真は風景ばかりで、人が写っていない。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、男が一礼した。四十代くらい。背筋がまっすぐで、無駄な動きがない。名札には「峰岸」とある。声も姿勢も、旅館というより役所の窓口みたいだった。
「ご予約のお名前を」
「相沢です。相沢結菜」
結菜が言うと、峰岸は宿帳を開き、躊躇なくペンを走らせた。
「相沢結菜さま。——お連れさま、相沢航さまですね」
結菜は一瞬、瞬きをした。苗字が同じではない。婚姻届の話は、まだ白紙のまま机の引き出しに眠っている。なのに、峰岸は当然のように「相沢航」と言った。
航が「……はい」と曖昧に返事をする。咎めるほどのことでもない、と結菜は自分に言い聞かせた。予約を取るとき、便宜上同じ苗字を書いた可能性だってある。
峰岸は手早く二枚の用紙を差し出した。
「こちら、宿泊規約の受領確認です。お名前とご署名をお願いします。複写になっておりますので、下の控えはお客さまがお持ちください」
「……控え?」
「はい。何かあったときのために」
結菜はボールペンを取って、名前を書いた。航も続けて署名する。複写の紙越しに、ペン先の圧が少しだけ指に返ってくる。紙の端に小さな文字が並んでいるが、読もうとしたところで峰岸が淡々と続けた。
「本日は満室でして、皆さま同じ目的でお越しです。お部屋のご案内の前に、こちらにご記入を」
宿帳のページが、ほんの少しこちらに向けられる。結菜の視線が、その紙面の上を滑った。
相沢結菜、相沢航。その下に、見知らぬ名前が並んでいる。梨央。修。峰岸はペン先で二つの欄を指した。さらにその下に、静香——と書かれ、横に小さく「遅着」とある。
「……この、梨央って」
結菜が言いかけた瞬間、玄関の引き戸がまた開いた。




