直談
天文十八年(一五四九年)七月 摂津国川辺郡 伊丹城
「随分と兵が多いですね、兄上」
伊丹城を囲む兵を眺めながら、長慶の弟――安宅摂津守冬康が笑みを浮かべた。穏やかな青年で、覇気のある長慶や次弟の之虎、武辺者で厳めしい顔つきの末弟一存の誰とも似ていない面差しをしている。その外見に違わず穏やかな性格で、家中の取り纏めには欠かせない男だ。
「丹波方面に兵を割く必要が無いからな。江口城での戦いも、そのお陰で随分と楽になった。孫四郎殿には感謝せねばならぬな」
長慶が上機嫌に笑うと、摂津守も笑みを浮かべる。凡そ戦場に居るとは思えない長閑さだが、事実として戦況は三好方の圧倒的優勢であった。
三宅城を退去した細川右京大夫が、既に丹波を抜けて山城に落ち延びた……という情報は既に周知のことであったし、江口城防衛を果たせなかった六角軍も引き揚げた。“一万もの大軍を引き連れて、わざわざ六角四郎義賢の武名を下げに来たのか”と京洛で散々な評判になっているという噂は、長慶の耳にも入ってきている。
これらの情報を伊丹城へ向けて盛んに喧伝し続けた結果、守備兵の戦意は日に日に低下し続けている。もう一押しがあれば総攻めの必要もなく勝てるだろう、そう長慶は見当を付けていた。
「さて、どうしたものかな」
「力攻めという手もあるとは思いますが?あまり時間を掛けると他の摂津衆に対する調略にも影響が出かねませぬ」
「ここまで丹念に追い込んだのだ。今力攻めなどすれば伊丹城の連中、自棄を起こして死兵になりかねん。そうなれば却って面倒なことになるぞ」
「それはそうでしょうが、しかしこのまま何もせず囲むだけというのもあまり芸がありませんな」
にべもない摂津守の言葉に眉を顰め、長慶は僅かに頷いた。短兵急に攻めて城が落ちれば良いが、落ちなければ三好軍の武威が疑われる。
そうなれば親細川派が蠢動し始めるだろうし、何より死兵相手に真正面から戦うのは兵の損耗が洒落にならない。伊丹城はそれなりに堅固な構えをしていることだし、あまり気が進まないというのが偽らざる本音だった。
「もう一手、押し込むための駒が欲しいものだ」
「右京大夫様が山城から近江坂本に逃亡したと言うのは?」
「山城が守るに難い土地であることは伊丹次郎も承知の上だろう。それに、とうに逃げた男が更に遠くに退いた程度ではな」
摂津守が吹き出すのを横目に、長慶は小さく鼻を鳴らした。待てば何かしらの果報も齎されるだろうが、時は三好家にだけ利するものではない。
右京大夫が近江勢を糾合して攻め上ってくるのであれば、それに対応するために相当数の兵力を割かねばならない。そうなれば戦が更に長引くということになる。一気呵成に摂津を三好の勢力圏へと塗り替えるためには何としても伊丹次郎に膝を折らせねばならないのだが……。
考えても悪材料しか思いつかんな。長慶がそう自嘲していると、俄に陣中が騒がしくなった。
「喧嘩か?」
「さて、怒鳴り声は聞こえませぬが」
摂津守も首を傾げている。人をやって調べに行かせようかと長慶が思案したその時、陣内に転がり込むようにして使番が駆け込んできた。息を切らせている所を見るに、相当急いで来たのだろう。
「どうした、外の騒ぎの件か?」
傍に控えていた石成主税助が問い糾すと、なんとか息を整えた使番は大きく頷いた。
「波多野孫四郎様が僅かな供回りと共にお見えになられ、殿に目通り願いたいと申しておられます」
その言葉が耳朶を打った瞬間、長慶は周りの音がすっと遠のいたかのような錯覚を覚えた。
求めていた“詰めの一手”が転がり込んできた。本来ならば喜ぶべきなのだろう。だがこれほどまでに誂えたような機に現れたとなると、却って不信感が湧いてくるのもまた致し方のないことであった。
「真に波多野孫四郎なのだな?使者ではなく?」
「我が主日向守様が直々に確認してございます。その上で、間違いなく御本人であると」
押し殺したような唸り声が響いた。摂津守か、主税助か、それとも長慶自身か。
大叔父の三好日向守長逸は何度か波多野家への使者として丹波へ赴き、波多野孫四郎と顔を合わせたことがある。その大叔父自身が本人だと太鼓判を押したのだ。長慶は自分にそう言い聞かせるようにして、ひとつ頷いた。
「ならば、陣の外でお待たせするわけにはいかんな。直ぐに此処まで案内せよ。主税助は床机の用意を。急げよ」
一礼した使番と主税助が弾かれたように動き出すのを見届けると、長慶は床机にどっかと腰を下ろし、深い溜息を吐いた。摂津守が気遣わしげに様子を伺っているが、今はそれすらも気にならなかった。
「何の狙いがあると思う?」
「先ずは此方の様子を確かめに来たという所でしょう。ただ、自ら出張ってくる必要は無いように思います」
「他には?」
「一つは先の戦に兵を出せなかった事への詫びでしょう。これほど大勝ちするとは思っていなかったでしょうから、不安に駆られたと言うのは十分あり得る話です。もう一つは……」
「波多野を、或いは孫四郎を少しでも高く売り込むため、だな?」
摂津守が渋い表情で頷く。
今から十ヶ月ほど前、波多野家は代替わりから間もなく、更に先代の波多野備前守秀忠が病没したばかりで家中が不安定であることを理由とし、今回の戦へ兵を出すことを拒絶している。
理由自体は至極尤も無ことであったが故、長慶は丹波と摂津の国境を固める事だけを求めて特に咎め立てをしなかった。
そのことに対する詫びをするだけならば使者でも問題はないし、そもそも長慶が越水城に帰還してからでも十分な話だ。
だが、孫四郎元秀自身が、しかも態々滞陣中の伊丹城にまで赴いてくるとなれば話は違う。そこには何かしらの含意があると見るべきだ。
「殿、波多野孫四郎様がお出ましに御座いまする」
しかし、それを考える時間は無いようだ。日向守の声に応じると、陣幕を開いて二人の武者が入ってくる。一人は大叔父の三好日向守長逸。厳めしい顔立ちとがっしりとした体躯が目立つ、三好家の重臣だ。
そしてもう一人が波多野孫四郎元秀。立派な虎髯と、小柄だが引き締まった体躯が目を引く男で、年回りは長慶より僅かに下であろうか。大紋姿だが威圧感は鎧姿の日向守にも劣らない。蛇矛でも持たせればさぞかし絵になるだろう――そう思わせる佇まいだ。
長慶はにこやかに孫四郎の手を取り、床几へと促す。自らも床机に腰掛けると、その後に摂津守と日向守、そして波多野家の家臣たちも座る。
「済まぬな義兄上。本来であれば使者を立ててから此方へと赴くつもりだったのだが、思いのほか重臣達を説き伏せるのに時間がかかってしまった。御無礼の儀、平にお許し願いたい」
「気に病まずともよい。義弟殿は大切な親族。驚きこそすれ困ることなど無いのだからな。……して、用向きは何かな?差し当たって、態々この場にて話をせねばならぬことなど見当もつかぬが」
長慶が問いかけると、孫四郎よりも控える重臣達の方に緊張が走った。尋常ならぬ話か?疑念が首をもたげるが、しかし彼らの顔にも、孫四郎の顔にも物騒な色は見えない。
「そう構えることもございますまい、義兄上。――我ら波多野家、これより親族衆として三好家の傘下に加わりたく存じまする。お認め頂けましょうや?」
だからこそ、長慶をはじめ三好家の面々は、孫四郎が放った言葉が何を示しているのか……その意味を数秒間理解できなかった。
「本気で申しておるのだな?そなたを信じぬという訳ではないが、何しろ内容が内容だ。偽言を弄して我ら三好家を謀ろうなどというのであれば、両家にとってこれほどの不幸もあるまい。それを理解したうえで申しておるのだな?」
威圧するような長慶の言葉にもまったく動じず、孫四郎は重々しく頷いてみせた。その上で、懐から一枚の紙を取り出した。
「これなるは、波多野家に仕える家臣団全員の連名による起請文にござる。内容は言うまでもなく、今後三好家に誠心誠意仕えることを専一とするというもの。どうぞご披見くだされ」
腰を浮かせた主税助を目で制すると、長慶はおもむろに立ち上がって孫四郎と一呼吸の距離まで無造作に近付いて、手ずから起請文を受け取った。それが彼なりの誠意の表れであり、孫四が示した覚悟への答えでもあった。
起請文に並ぶのは一門衆の波多野与兵衛尉を筆頭に酒井、中沢、荒木……近隣に名の聞こえた者達の署名と血判がずらりと並んでいる。文面にも相違はなく、確かに言う通りの起請文であった。
「なるほど、これではお歴々が緊張しているのも仕方のないことではあったな」
長慶は苦笑を漏らすと、今この場においては何よりも重い一片の紙を押し戴き、そして懐に納めた。
「――この長慶、波多野家の覚悟に心より御礼申し上げる。そして、これからは両家手を取り合って歩んで参ろう」
波多野家が三好家の傘下となった。この報を聞いたある者は怒り、ある者は嘆き、またある者は将来の展望を思って暗澹たる思いを抱いた。
そしてその翌日、伊丹次郎もまた長慶の前に膝を屈し、程なくして摂津一国は三好家が支配するところとなったのである。




