「君がいると肩が凝る」と婚約破棄された整体師令嬢、森で騎士団長の背中をボキボキ鳴らす ~聖女の「癒やし」で腰痛が悪化した元婚約者が来ても、もう手遅れです~
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シャンデリアの煌めきが、私の網膜を刺激する。王城の大広間は、今夜も着飾った貴族たちの熱気と香水の匂いで充満していた。
「……くそ、忌々しい」
私の隣で、この国の王太子であるレオパルド殿下が毒づいた。彼は眉間に深い皺を寄せ、常に何かに苛立っている。周囲の令嬢たちはそれを「憂いを帯びた高貴な苦悩」と好意的に解釈して頬を染めているが、私の見立ては違う。
彼の不機嫌の原因は、政治的重圧でも実存的不安でもない。単なる、頚椎の配列異常だ。
私はレオパルド殿下の左腕に手を添えながら、エスコートされるふりをして彼の骨格を観察した。私の目は『魔力視』こそ持たないが、前世の臨床経験に基づいた観察眼により『骨格透視』とも言えるレベルに到達している。
(頸椎五番と六番の椎間板が圧迫されているわね。それに典型的な上位交差症候群。頭部が前方へ突出しているせいで、僧帽筋上部と胸鎖乳突筋が悲鳴を上げている)
成人の頭部の平均的な重さは、約五キログラムある。それをあのような猫背姿勢、いわゆるストレートネックの状態で支えれば、首にかかる負荷は二十七キログラムにも達する。七歳児を一人、常に首に乗せて生活しているようなものだ。それで機嫌良くいろと言うほうが無理な話である。
「ルイーゼ、貴様は今日も陰気だな。私の隣にいると、余計に肩が凝る」
「申し訳ございません、殿下。ですが、顎を引いて肩甲骨を寄せるように意識していただければ、その不快感も幾分かは……」
「うるさい! 貴様はいつも姿勢だの筋肉だの、色気のないことばかり」
レオパルド殿下は私の忠告を一蹴し、さらに背中を丸めた。
ああ、いけない。その姿勢は骨盤の後傾を助長し、内臓を下垂させてしまう。彼の下腹部が少しぽっこりしているのは、脂肪のせいではなく内臓の位置が悪いからだというのに。
「可動域、死んでるな……」
思わず前世の口癖が漏れそうになった、その時だった。
「レオパルド様ぁ!」
鈴を転がすような甘い声と共に、会場の空気が一変した。
人垣を割って現れたのは、淡いピンク色のドレスを身にまとった小柄な少女。平民出身の聖女、ココットだ。彼女は私の存在など見えていないかのように、レオパルド殿下の正面に飛び込んだ。
「そんなに辛そうなお顔をして……かわいそうです、レオパルド様。私が癒やして差し上げます」
「おお、ココットか。来てくれたのか」
ココットが両手を掲げると、ふわりとした温かい光が殿下を包み込んだ。聖女特有の光魔法だ。周囲からは「なんと尊い」「これぞ聖女の奇跡」と感嘆の声が漏れる。
光が収まると、レオパルド殿下は恍惚とした表情で大きく息を吐いた。
「ああ……痛みが消えた。体が羽のように軽い」
「よかったぁ。やっぱりレオパルド様には笑顔が一番です!」
「ありがとう、ココット。君の光は、まるで春の陽光のようだ。それに比べて……」
殿下はちらりと私を見て、侮蔑の色を目に浮かべた。
私は扇子で口元を隠し、冷ややかな視線を伏せた。
(またか。あれは治癒じゃない、ただの麻痺よ)
聖女の光魔法は、確かに外傷を塞ぎ、痛覚信号を遮断する効果がある。だが、それは脳内麻薬を強制的に分泌させて痛みを誤魔化しているに過ぎない、強力な対症療法だ。
殿下の頸椎のズレも、凝り固まった深層筋の癒着も、何ひとつ改善していない。むしろ、痛みという生体の警告アラートを強制解除したことで、彼は無理な姿勢を続け、症状を悪化させるだろう。
「愛の力ですわ!」
誰かが叫び、拍手が起こった。
愛? 愛で癒着した筋膜が剥がれるものですか。愛で亜脱臼が整復されるなら、医療従事者は廃業だわ。
私は心の中のカルテに『予後不良』と書き込み、静かにその場を後にした。
◇ ◇ ◇
翌日、私は王城の執務室に呼び出された。
重厚なマホガニーの机の向こうで、レオパルド殿下が組んだ脚を貧乏揺すりさせている。その横には、勝ち誇った顔の聖女ココットが寄り添っていた。
「単刀直入に言おう。ルイーゼ・フォン・マヌアル伯爵令嬢。貴様との婚約を破棄する」
予想通りの言葉に、私は表情筋ひとつ動かさずに淑女の礼をとった。
「謹んでお受けいたします」
「……なんだ、その態度は。泣いて縋りつくかと思ったが」
殿下は拍子抜けしたように鼻を鳴らし、それから憎々しげに言葉を続けた。
「貴様と一緒にいると、どうにも体が重くなるのだ。貴様の陰気なオーラが私の生気を吸い取っているに違いない」
「それは殿下の座り方が悪く、坐骨神経を圧迫しているからでは」
「まだ言うか! ココットを見ろ。彼女のそばにいると、私は常に安らぎを感じる。彼女こそが真の国母にふさわしい」
ココットが殿下の腕に抱きつき、上目遣いで私を見た。
「ごめんなさいね、ルイーゼ様。でも、運命の愛には逆らえないんですぅ。私、レオパルド様の専属セラピストとして一生お支えするって決めたので」
専属セラピスト。無資格の素人が使うには重すぎる言葉だ。
私は内心でほくそ笑んだ。これで解放される。顔を合わせるたびに「顎を引け」「足を組むな」「腹圧を入れろ」と注意しても聞く耳を持たない、コンプライアンス意識の低い患者もといフィアンセから。
「承知いたしました。お二人の愛が真実のものであること、疑いようもございません」
私は淡々と事務手続きに入った。
「つきましては、婚約破棄に伴う慰謝料についてですが」
「金か? 卑しい女だ」
「正当な権利です。王都の中心部にある屋敷は不要です。その代わり、王都の北外れ、森の近くにある王家所有の別邸、あそこを譲渡していただきたいのです。加えて、リフォーム代と当面の運転資金として金貨三千枚を」
そこは以前から目を付けていた物件だった。静環境が保たれており、療養所を開くには絶好の立地だ。
「ふん、あの古ぼけた別荘か。好きにするがいい。手切れ金代わりだ」
「感謝いたします。書類はすでに用意してありますので、こちらにご署名を」
私は懐から取り出した羊皮紙を素早く広げた。殿下は内容もろくに確認せず、乱暴にサインをする。その筆圧の強さとペンの持ち方を見るに、近いうちに腱鞘炎も併発するだろう。
「では、これにて失礼いたします」
書類を回収し、私は踵を返した。
部屋を出る間際、背後からココットの声が聞こえた。
「もう、レオパルド様ったら肩がガチガチ! また魔法でふわふわにしてあげますね」
「頼むよ、ココット。ああ、やっぱり君の魔法は最高だ……」
私は扉を閉め、廊下に出た瞬間に大きく万歳をした。
やった。自由だ。
もう、あの崩壊寸前の姿勢を見なくて済む。
これからは、私の技術を本当に必要とし、私の指導に従ってくれる「良い患者」だけに囲まれて生きていくのだ。
「あ、そうですか。お大事に」
誰にも聞こえない声で元婚約者への別れの言葉を呟くと、私は足取り軽く王城の長い廊下を歩き出した。
その歩行姿勢は、踵から着地し、拇指球で地面を蹴る、解剖学的に完璧なフォーム。私の自慢であり誇りであるが、その価値に殿下が気付くことはついぞなかった。
◇ ◇ ◇
森の近くに位置する別邸に移り住んでから、一ヶ月が過ぎた。
私はこの屋敷を『整体サロン・リ・ファイン』と名付け、ひっそりと開業した。看板も出さず、宣伝もしない。完全紹介制の隠れ家サロンだ。もっとも、まだ客は一人も来ていないけれど。
「今日も静かね……」
雨が窓を叩く音だけが響く夜。私は施術室として改装した元客間で、「ボブ」と命名した愛用の人体骨格模型を磨いていた。
サロンの内装は完璧だ。間接照明による落ち着いた光、アロマの香り、そして特注の頑丈な施術ベッド。ここに横たわる「救うべき身体」がいつ来ても、即座に対応できる。
その時だった。
ドォン、という重い音が玄関ホールから響いた。雷ではない。何かが扉に衝突したような音だ。
侍女たちはすでに下がらせている。私は護身用の杖……の代わりにツボ押し棒を手に、用心深く玄関へ向かった。
扉を開けると、そこにはずぶ濡れの大男がうずくまっていた。
漆黒のマントに、騎士団の紋章。フードの下から覗くのは、苦悶に歪む強面。
「……すまない。助けを、求む……」
男はそう呻くと、その場に崩れ落ちた。
私は即座に駆け寄り、脈を確認する。意識はあるが、呼吸が浅い。外傷による出血はない。ならば原因は――
私は彼を仰向けにしようとして、手が止まった。彼の身体が、まるで一枚の鉄板のように硬直していたからだ。
特に右肩から背中にかけての筋肉が、異常なほどの緊張を起こしている。
「……動かずに! 無理に動くと筋肉が断裂しかねません」
「う、ぐ……腕が、上がらぬ……息も、できん……」
「失礼いたします」
男が脂汗を流しながら訴える。
私はマントを剥ぎ取り、濡れたシャツの上から彼の背中を触診した。指先に伝わるのは、岩のように凝り固まった筋肉の感触。
僧帽筋、菱形筋、さらには深層の脊柱起立筋までが、ガチガチに癒着している。
(右肩甲骨の下制不全。胸椎の回旋制限。それに……肋椎関節の可動域も消失しているわね)
これは古傷を庇い続けた結果、代償動作で他の筋肉が限界を超え、連鎖的にロックがかかった状態だ。いわゆる「ぎっくり背中」の最重度版である。
「貴方は……騎士団長のヴォルフガング閣下ですね?」
「鉄髭の武人」として名高い、王国の最強騎士。噂通りの巨躯だが、その背中は悲鳴を上げていた。
「……なぜ、私の名を」
「その特徴的な髭と、鍛え上げられた広背筋を見れば分かります。詳しい話は後です。とにかく、このままでは呼吸不全になります。少し痛みますが、処置をしますよ」
私は有無を言わせず、彼の脇の下に腕を差し込んだ。
全体重を使って彼を引きずり、施術室へと運ぶ。持ち上げるのは無理でも、引きずることならなんとかできた。
◇ ◇ ◇
施術ベッドにうつ伏せになったヴォルフガング閣下は、まな板の上の巨大なマグロのようだった。
私は白衣に見立てた施術着の袖をまくり、気合を入れる。
「さて、閣下。これから貴方の身体を『解体』します」
「か、解体だと……? 貴様、何をする気だ」
「安心してください。筋肉の緊張を徹底的にほぐして、ついでに骨格も矯正するという意味です。魔法は使いません。物理のみで治します」
私はオイルを手に馴染ませると、彼のごつい背中に手を置いた。
まずは表面の緊張を解く。僧帽筋の上部繊維に親指を沈め、ゆっくりとスライドさせる。
「ぬぉっ……!?」
閣下がビクリと反応した。
「痛いですか? そこ、老廃物が溜まってゴリゴリ言ってますよ」
「そ、そこは……古傷が……」
「ええ、分かります。右肩の腱板損傷を庇って、肩甲骨が外側に張り出していますね。そのせいで菱形筋が常に引き伸ばされて、虚血状態になっています」
私は淡々と解説しながら、指圧の強度を上げた。
凝り固まった筋肉のしこりをピンポイントで捉え、虚血圧迫を加える。血流を一気に遮断し、パッと離すことで新鮮な血液を送り込むのだ。
「ぐぅぅぅぅ……ッ!!」
野太い呻き声が部屋に響く。
普通なら手加減するところだが、このクラスの凝りには情け容赦は無用だ。私は体重を乗せ、肘を使って肩甲骨の内縁をゴリゴリと剥がしにかかった。
「は、離せ……! 切れる、何かが切れるぅッ!」
「切れません。剥がしているだけです。癒着した筋膜をね」
「あ、あ、そこっ、そこはダメだ! んぐっ……!」
痛みの中に、奇妙な快感が混じり始めたのだろう。閣下の抵抗が弱まり、代わりに吐息が漏れ始める。
硬かった背中が、少しずつ私の指を受け入れ始めた。今だ。
「吸ってー。はい、吐いてー」
私は彼の呼気に合わせて、胸椎に手根を当てた。
狙うは胸椎三番と四番。回旋の要となる関節だ。
「ふぅぅぅ……」
「リラックスしてくださいねー。はい、力抜いてー」
瞬間、私は一気に圧を加えた。
ボキィッ!!
乾いた破砕音が室内に炸裂した。
「ぎゃあああああ!!」
「はい、もう一箇所。ボキッ!」
「ひでぶっ!!」
閣下の手足がビタンビタンとベッドを叩く。
私は構わず、頚椎、腰椎、骨盤と、流れるような手付きで矯正を加えていった。
バキバキと小気味よい音が連続し、そのたびに閣下は「おぉふ」「んあぁ」と得体の知れない声を上げる。
最後の一撃。
歪んでいた仙腸関節を、腰をひねる手技で整復した瞬間。
「あべしっ!!」
閣下は白目を剥いて、脱力した。
施術室に静寂が戻る。
私は汗を拭い、乱れた呼吸を整えた。
「……お疲れ様でした。施術完了です」
しばらくして、ヴォルフガング閣下はむくりと起き上がった。
その動きは、先程までの錆びついたブリキ人形のような動作とは別物だった。滑らかで、しなやか。
彼は自分の右腕を回し、首を傾げ、信じられないものを見る目で私を見た。
「……痛くない」
彼は呆然と呟いた。
「三十年だ。戦場で矢を受けて以来、常に背中に鉛が入っているような重みがあった。魔法治癒でも取れなかった、あの鉛が……消えている」
閣下は立ち上がり、その場で軽く跳躍してみせた。鎧を脱ぎ捨てたような軽やかさだ。
彼は私の前に歩み寄ると、その厳つい顔をくしゃくしゃにして、私の両手を包み込んだ。
「これは魔法ではない。神の御業だ……!」
「いえ、解剖学です。あと物理です」
「いや、奇跡だ! 聖女の光など比べ物にならん。貴女は、私の身体に新しい命を吹き込んでくれた!」
その瞳は、崇拝に近い輝きを帯びている。
私はやれやれと思いつつも、職人としての達成感に浸っていた。可動域が改善された関節を見るのは、いつ見ても最高のエクスタシーだ。
「お代は結構です。開業記念のモニターということで」
「バカな! この恩義、金貨の山でも返しきれん! ……そうだ、貴女の名は?」
「ルイーゼ。ただの整体師です」
ヴォルフガング閣下は私の名を噛み締めるように復唱し、深々と頭を下げて去っていった。
「また来る。必ずだ」と言い残して。
◇ ◇ ◇
それから数日後。
私の静かな隠れ家サロンは、予想外の事態に見舞われていた。
「ここが噂の『ゴッデスハンド』の館か!?」
「騎士団長閣下が『羽が生えた』と仰っていたぞ!」
「頼む、私の腰も見てくれ! 金ならいくらでも払う!」
屋敷の前には、屈強な騎士たちや、豪華な馬車に乗った高位貴族たちの行列ができていた。
どうやらヴォルフガング閣下が、騎士団や社交界で歩く広告塔になってしまったらしい。
「あの、当サロンは完全予約制でして……」
私が戸惑いながら対応すると、一人の老貴族がすがりついてきた。
「頼む! 五十肩で夜も眠れんのじゃ! 聖女様の魔法では、その場しのぎにしかならん!」
「私もだ! 剣の振りすぎで肘がイカれてしまって……!」
彼らの目には切実な色が浮かんでいる。
その姿を見て、私の職人魂に火がつかないわけがなかった。
目の前に、矯正すべき歪みがある。ほぐすべき凝りがある。
「……分かりました。順番に診ますから、並んでください。あと、問診票に記入を!」
こうして、私の『リ・ファイン』は、看板もないのに王都の貴族社会、主に身体の不調を抱える層の間で絶大な権威を持つ場所となった。
貴族たちは口を揃えて言う。「聖女の癒やしより、ルイーゼの指圧」と。
忙しくも充実した日々。
私は知らなかった。その裏で、王城に残してきた元婚約者の身体が、いよいよ崩壊の時を迎えようとしていることを。
◇ ◇ ◇
一方、その頃の王城。
この日、建国記念の外交式典が華々しく開催されていた。
王太子レオパルドは、各国の要人を前に演壇に立っていた。
煌びやかな正装に身を包んでいるが、その背中には冷や汗が流れている。
(痛くない……痛くないぞ……!)
彼は必死に自己暗示をかけていた。
今朝、ベッドから起き上がった瞬間に腰に走った鋭い痛み。それを聖女ココットが、いつものように光魔法で「消して」くれたのだ。
痛みは感じない。だが、足の感覚が妙に鈍く、腰から下が自分の体ではないような違和感があった。
「我が国の繁栄は、この強固な同盟によって――」
レオパルドは胸を張り、威厳を見せつけようと大きくのけ反る姿勢をとった。典型的な、過剰な腰椎前弯だ。
隣には聖女ココットが控え、彼に熱い視線を送っている。
彼女の愛があれば、どんな不調も乗り越えられる。そう信じて、レオパルドはさらに声を張り上げようと腹に力を入れた。
その瞬間だった。
ビキッ。
体内から、乾いた小枝が折れるような音が響いた。
それは聴衆には聞こえない、レオパルドの骨格内部だけで響いた破滅のファンファーレ。
「あ……」
演説が止まる。
レオパルドの視界が白く明滅した。
痛みはない。ココットの魔法が効いているからだ。だが、腰の筋肉が痙攣し、脊柱を支える機能が完全に喪失した。
上半身の重みを、腰椎が支えきれない。
「殿下?」
不審に思った隣国の大使が声をかけた直後、レオパルドの体は糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「ぐっ、うおおおお!?」
床に倒れ込んだ衝撃で、魔法による麻痺の壁を突き破り、本物の激痛が脳天を貫いた。
それは今まで経験したことのない、焼けるような、そして引き裂かれるような痛みだった。
「レオパルド様!!」
悲鳴を上げてココットが駆け寄る。
会場は騒然となった。「王太子が倒れた!」「毒か!?」と騎士たちが色めき立つ。
「だ、大丈夫です! 私が治します!」
ココットは涙目で両手をかざし、最大出力の光魔法を発動した。
眩い光がレオパルドの腰を包む。
「あああああぎゃああああああ!!!」
癒やされるはずのレオパルドが、獣のような絶叫を上げた。
光魔法は細胞を活性化させる。だが、今ここで必要なのは「鎮静」であり「冷却」だ。炎症を起こして熱を持っている神経組織に、さらに活性化のエネルギーを注ぎ込めばどうなるか。
それは、火に油を注ぐ行為に等しい。
「痛い! 熱い! やめろ、やめてくれぇぇぇ!!」
各国の要人が見守る中、王太子はのたうち回り、涎を垂らして失禁した。
聖女ココットはパニックになり、「なんで!? 治れ、治れぇ!」とさらに魔力を注ぎ込む。そのたびにレオパルドの悲鳴は高まり、地獄絵図と化した。
この日、王国の威信は、王太子の腰と共に砕け散ったのである。
◇ ◇ ◇
サロン『リ・ファイン』は、今日も盛況だった。
予約リストは半年先まで埋まり、私は休憩を取る暇もない。だが、患者たちの姿勢が改善され、笑顔で帰っていく姿を見るのは何よりの栄養剤だった。
「はい、次の方……あら?」
待合室のドアが乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、数名の近衛騎士と、担架に乗せられた蒼白な男。そして、金切り声を上げるピンク色のドレスの少女だった。
「ルイーゼ! 出てきなさいよ!」
聖女ココットだ。そして担架の上で「あう、あう」と呻いているボロ雑巾のような物体は、かつての婚約者、レオパルド殿下だった。
彼らの登場に、待合室にいた貴族たちが眉をひそめる。
「ちょっと、静かにしていただけますか? ここはリラクゼーションの場です」
私が冷静に注意すると、ココットは私の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「そんなこと言ってる場合じゃないの! レオパルド様が、私の魔法でも治らないのよ! 貴女、『ゴッデスハンド』なんて呼ばれてるんでしょ? なんとかしなさいよ!」
担架の上のレオパルド殿下が、虚ろな目で私を見た。
「ル、ルイーゼ……腰が……足の感覚が……」
「……随分と酷い顔色ですね。拝見します」
私は職業的条件反射で、彼に近づいた。
触診するまでもない。腰椎四番と五番のヘルニア。しかも、無理な魔力注入による炎症で、患部はパンパンに腫れ上がっている。
「俺の腰を治せ……これは命令だ……」
「命令?」
私は手元の予約表をパラパラと捲り、パタンと閉じた。
「あいにくですが、半年先まで予約で埋まっております。新規の患者様はお断りしているんですよ」
「なっ……! 私は王太子だぞ! 優先しろ!」
「ここは病院ではなく、私の私的なサロンです。王命だろうと、予約の順番は絶対です。患者は平等に扱う。それが私の流儀ですので」
冷淡に突き放すと、ココットが叫んだ。
「なんだ、がっかりした! 私の光魔法で治せないものを、魔力のない貴女ごときが治せるわけないものね!」
その言葉に、私はピクリと眉を動かした。
私は部屋の隅から、相棒の骨格模型「ボブ」を引き寄せた。
「いいですか、ココット様。貴女の光魔法は『再生』と『活性』に特化しています。それは裂傷や出血には素晴らしい効果を発揮します。私は、そこを否定したいわけではありません」
私はボブの腰椎を指し示した。
「ですが、今の殿下の腰で起きているのは『圧迫』と『炎症』です。飛び出した軟骨が神経を潰しているところに、貴女は『元気になあれ』とエネルギーを注ぎ込んでしまったようですね。その結果、神経は過敏になり、炎症は爆発的に拡大しました」
「え、えっと……よく分からないけど、愛の力が足りなかったってこと?」
「いいえ。解剖学的な知識が欠如していたということです」
私はボブの背骨をパチパチと動かしながら、淡々と続けた。
「愛や祈りで、物理的に歪んだ骨格は直りません。必要なのは、適切な牽引と、炎症が引くまでの安静、そして生活習慣の改善です。貴女がやっていた『痛みの遮断』は、警鐘を無視して走り続けるようなもの。殿下の腰を壊したのは、他ならぬ貴女の無知な献身ですよ」
「そ、そんな……」
ココットは顔面蒼白になり、後ずさった。
周囲の貴族たち、つまり私の常連客たちも、「なるほど」「やはり物理か」「聖女様も形無しだな」とひそひそ話している。
「ル、ルイーゼ……」
レオパルド殿下が涙を流して私に手を伸ばした。
「悪かった。私が間違っていた。ココットではなく、君が必要だ。だから頼む、この激痛を止めてくれ……! 君ならできるんだろう!?」
「ええ、できますよ」
私はにっこりと微笑んだ。
ただし、その笑顔は慈愛のそれではなく、メスを握る外科医のそれだっただろう。
「ですが、本来なら炎症が引くまで数週間は絶対安静にすべき状態です。それを今すぐ治せというのであれば、少しばかり手荒に『物理』の力を振るわざるをえません」
「な、何でもいい! やってくれ!」
「麻酔はありませんよ? 炎症部位を直接触りますから、おそらく人生最大の激痛を味わうことになります。気絶するかもしれませんし、あまりの痛みにショック死する可能性もゼロではありません」
「ひっ……!?」
「それでもやりますか? それとも、このまま一生寝たきりで過ごしますか?」
殿下は恐怖に顔を引きつらせながらも、今の激痛から逃れたい一心で頷いた。
「や、やる……頼む……!」
「承知いたしました。では、特別施術を開始します」
私は殿下をベッドに移し、ベルトで手足を厳重に拘束した。暴れたら脊髄を損傷しかねないからだ。
私は袖をまくり、殿下の腰に手を当てた。熱を持った患部が、服の上からでも分かる。
「行きますよ。息を止めていると血管が切れるので、叫んでください」
「え、まっ、待っ――」
私は親指に全体重を乗せ、神経を圧迫しているヘルニアの核を、容赦なく押し込んだ。
「ぎぃぃやあああああああああ!!!!」
サロンの窓ガラスが震えるほどの絶叫が響き渡った。
待合室の客たちが青ざめて耳を塞ぐ。だが私は手を緩めない。ここが正念場だ。
「まだです! 戻れ、そこ! 入れッ!」
「あがッ、あぐッ、おごおおおおおお!! 死ぬ! 死ぬぅぅぅ!!」
「死にません! はい、もう一押し!」
ボコッ。
鈍い音が体内で響き、指先の抵抗がふっと消えた。飛び出していた軟骨が、椎間板の中に戻った感触だ。
「……はぁ、はぁ。整復完了です」
私が手を離すと、レオパルド殿下は白目を剥き、口から泡を吹いてピクリとも動かなくなっていた。
だが、呼吸は安定している。そして何より、あの歪んだ姿勢が嘘のように真っ直ぐになっていた。
「れ、レオパルド様!?」
「気絶しているだけです。すぐに意識が戻ります」
直後。
殿下がカッと目を見開いた。
「はっ……ひぃぃぃっ!?」
彼はベッドから転がり落ちるように飛び起き、壁際まで後ずさった。
その顔は恐怖で歪み、全身が小刻みに震えている。
「あ、悪魔だ……! 貴様、私を殺そうとしたな!?」
「いいえ、治したのです。足の感覚はどうですか?」
「うるさい! あんな痛みが治療なわけあるか! 拷問だ! 貴様は魔女だ、私を嬲り殺しにする気だったんだ!」
殿下は錯乱していた。あまりの激痛体験が、理性を吹き飛ばしてしまったらしい。
彼は自分が自分の足で立ち、腰を曲げずに叫んでいるという事実に気づいてすらいない。
「おい、何をしている! この魔女を捕らえろ! 不敬罪で処刑だ!」
殿下の金切り声に、近衛兵たちが反応した。
彼らは戸惑いながらも、私を取り囲むように間合いを詰めてくる。
「殿下、落ち着いてください。貴方の身体はもう……」
「黙れ! やれ! 斬り捨てても構わん!」
問答無用か。
私は小さく息を吐き、足幅を広げた。
先頭の近衛兵が、私の肩を掴もうと腕を伸ばしてくる。
「失礼」
私はその手首を掴むと、親指で肘の内側にある一点――尺骨神経溝を鋭く突いた。
「ぐあっ!?」
近衛兵の腕がビクリと跳ね上がり、力が抜ける。電気が走ったような痺れに襲われたはずだ。
私はそのまま彼の腕を引き込み、体勢を崩させると、無防備になった脇腹に、指の第二関節を突き立てた。
「肋間神経痛のツボです」
「がはっ……!」
大男が膝から崩れ落ちる。
私は一介の整体師。完全武装の正規兵であれば、ひとたまりもない。しかし、いまの近衛兵は殿下のお忍びの護衛と言う体であり、軽装だ。私の『骨格透視』の前には、服や皮膚など透けて見える。筋肉と骨格が丸裸だ。
あとは人体構造を熟知さえしていれば、神経節を狙うことなど造作もない。壊れている場所を治すのも、正常な場所を一時的に機能不全にするのも、私にとっては同じ「物理」だ。
「な、なんだと……!? 貴様ら、何をしている! 一斉にかかれ!」
殿下が喚く。残りの騎士たちが殺気立ったその時。
「――そこまでだ」
凛とした声が、加熱した場を切り裂いた。
サロンの奥から現れたのは、ラフなTシャツと短パン姿のヴォルフガング閣下だった。
騎士たちが動きを止める。最強の騎士団長の登場に、彼らは萎縮し、剣を下げた。
「ヴォルフガング……? な、なぜここに……いや、ちょうどいい! その女を殺せ! 私を害そうとした魔女だ!」
殿下が救世主を見つけたように叫ぶ。
しかし、閣下は動じない。彼は静かに殿下の前まで歩み寄ると、低い声で告げた。
「殿下。ご自分の足元をご覧なさい」
「は……?」
「担架で運ばれてきた貴方が、今は自力で立ち、誰の支えもなく歩いている。そして、それだけの大声を出せるほど腹に力が入っている」
閣下の指摘に、殿下はハッとして自分の身体を見下ろした。
痛みはない。あれほどの激痛も、足の痺れも消えている。
「こ、これは……」
「ルイーゼ殿は、貴方が望んだ通り、貴方の身体を治したのだ。その恩を仇で返すとは、王族として以前に、人として恥ずべき行為ではありませんか」
正論。
完膚なきまでの論理的帰結。
殿下の顔が赤くなり、次に青くなった。自分が何を叫んでいたのか、ようやく理解したのだろう。だが、プライドがそれを認めさせない。
「だ、だが、痛かったのだ! 死ぬほど痛かったのだぞ!」
「良薬は口に苦し、と言います。その痛みは、貴方がこれまで身体を粗末にしてきたツケだ。彼女の施術のせいにするのは筋違いというもの」
閣下は冷ややかな目で殿下を一瞥し、そして近衛兵たちに向き直った。
「私の大切な主治医に剣を向けたこと、覚悟はできているのだろうな」
その一言に含まれた「圧」だけで十分だった。
騎士たちは「申し訳ございません!」と一斉に平伏した。腰を抜かした殿下とココット嬢を引きずって、大わらわに退散していく。
「待て! ヴォルフガング! 私はまだ……! ルイーゼぇぇ! 助けてくれぇぇ!」
嵐が去り、サロンに静寂が戻る。
私は、倒れたままの騎士の肘をトンと叩き、痺れを解除してやってから、閣下に向き直った。
「……助かりました、閣下」
「いや、私が手出しするまでもなかったようだがな」
閣下は苦笑し、私の手を取った。
その手は大きく、温かく、そして微かに震えていた。
「だが、二度とあのような危険な真似はさせない……ルイーゼ嬢」
彼は真剣な眼差しで私を見つめ、片膝をついた。
施術前の短パン姿だが、その姿はどんな正装の騎士よりも高潔に見えた。
「私の屋敷に来てほしい。専属の治療師としてではない……公爵夫人としてだ」
サロンの客たちから歓声が上がる。
私は驚き、そして自然と笑みが溢れた。
「ヴォルフガング様。それは、私の技術が必要だからですか?」
「違う。最初はそうだったかもしれんが、今は……貴女のその強さと、真摯な瞳に惹かれている。貴女がそばにいてくれるだけで、私の心は正しい位置に収まるような安らぎを覚えるのだ」
「……ふふ。嬉しいプロポーズです」
私は彼の手を握り返し、その逞しい上腕二頭筋を愛おしげに撫でた。
「謹んでお受けいたします。私も、貴方の素晴らしい筋肉……いえ、完璧な骨格……じゃなかった。貴方自身のことが大好きですから」
◇ ◇ ◇
その後、王国には大きな変化が訪れた。
レオパルド殿下は、一連の騒動と精神的不安定さを理由に廃嫡され、辺境の温泉地で長期療養生活を送ることになった。
ココットも世話係として同行を命じられたが、道中で行方をくらましたらしい。
そして、私ことルイーゼ・フォン・アイゼンバルト公爵夫人は。
「はい、ワン、ツー! 腕を大きく回してー! 肩甲骨を意識してー!」
爽やかな朝の光の中、私は公爵領の広場で叫んでいた。
目の前には、数百人の領民たち。老若男女、騎士も農夫も、全員が私と同じ動きをしている。
私が考案した「国民健康体操」計画。
予防医学こそが最強の医療。国民全員が正しい姿勢と柔軟性を手に入れれば、快適な生活と労働が保証されて、ひいては国が富む。
「最後は深呼吸! 吸ってー、吐いてー!」
隣では、夫となったヴォルフガングが、誰よりも美しく完璧なフォームで皆に手本を示している。
「ルイーゼ、今日もいい朝だな。筋肉が躍動しているのを感じる」
「ええ、あなた。今日も素晴らしい体幹ですわ」
私たちは視線を交わし、汗ばんだ額を寄せ合ってキスをした。
その瞬間も、私たちは互いの姿勢が崩れていないかを確認し合っている。
愛とは、互いを支え合うこと。
そして、互いの骨格を正しい位置に保ち続けること。
すなわち「物理」を疎かにしないこと。
私はこの世界で、最強の「健康」を手に入れたのだ。
さあ、体操の後はスクワット。私の幸せな戦いは、まだ始まったばかりなのだから。




