5-5 映画 「少女歌人の恋」 ⑤
だが、大門監督は、さらに、
「あなた、秘流というのを、もしかしたら、できるんでしょう。今、ここで、ぜひ、それをみたいのよ。どうかお願いしたいわ。」
その監督からの申し出には、すぐには、何の反応もしないソフィア。
だが、大門肇は、すぐに、そこに割って入った。
「ソフィアさん、監督は、ああ言ってるけど、君の好きな詠み上げ方でかまわないよ。他の人たちのようにね。とにかく、君にまかせるよ。それでいいですね、監督。」
すかさず、自分の発言を否定された監督は、はっと何かに気づいて、
「そ、そうね。ソフィアさん、あなたのいいように、詠み上げていいわ。あなたに任せます。」
すると、大門監督の方を、ちらっとみたソフィアは、おもむろに詠み上げ始めた。
「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」
この和歌の意味は、
「この世に桜という花がなかったなら、春の心はもっと穏やかでいられたのに。」という意味なのだが、一見、自然の歌のようでありながら、「桜=恋する相手」として読むこともできる比喩的な恋歌である。
「桜」は春に咲いては散る、儚く美しい存在。恋する相手もまた、心をかき乱す存在であることを暗示している。「たえて桜のなかりせば」という言い回しは、極端な仮定の形であり、「あまりにも心を乱すので、いっそなければ…」という優しい諦念を含んでいる。
愛しているがゆえに心が騒ぎ、落ち着かない。それもまた愛の美しさであることが、しっとりと伝わってくるという、実に奥深い一首である。
そして、ソフィアは、この、一見、春の桜の情景を詠み上げたように思える一首に、恋する乙女の情愛を込めた気持ちが、なんとも切なくて、美しかった。
すると、会場は、おおおおおおおーっと、いう、しかし、声にもならない、不思議などよめき、その詠み上げる響きと、さらに、深い意味が心に染みて、会場は、感動の嵐に包まれた。その中には、多くの人たちが、涙を流し、その和歌に酔いしれていた。
そもそも、和歌と演技には、大きな違いがあり、演技は「感情を“表現者の内から溢れ出させるための、身体と声を伴った表現」であるのに対して、和歌は「感情を“受け手の中に咲かせるための、節制された表現」であり、表現が全く違う。
しかし、根底にあるのは「真実の感情を届けたい」という一点で同じである。つまり、和歌は芝居のように感情を盛るのではなく、静かに、でも心を乗せて詠むのが美しいとされている。
まるで心の奥の「声」をそのまま吐き出すように、詠み上げていく。詠む人自身が、歌に込められた情景や気持ちを頭に浮かべながら読むことで、聞く人にも伝わる力が生まれる。
今回のソフィアの場合などは、春の季節に桜の咲いている情景を想像して詠むと、表現が深まる。そして、その情景の中に、本来の意味を持つ淡い恋心を漂わせる気持ちとなって、詠み上げる。
これは、あくまでも、相手に伝えようとするのではなくて、詠み上げる歌に込める。それこそが、和歌の詠み上げ方であり、静かに聞き手の耳に入ると、聞き手の心の中で、その言葉の深く込められた思いが花開いて、心に染みていく。まさに、演技とは、真逆の伝わり方をするので、あえて、感情を表現した詠み方をしないことが大切なのである。




