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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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長旅編 第8話  研修室


1 薔薇の余香と午後の教室


薔薇の香りをまだほんのりまとったまま、ふたりは予定より三十分も早く研修室に戻ってきた。


部屋の前方では、ダビデ、トム、ジェリーの三人が座り、ギターと、ダビデの恋人・明日香が声をひそめて談笑していた。


カラオケで少し打ち解けたとはいえ、まだお互いをどう呼べばいいのか、彼らの祖国がどこなのかもわからないままだった。


ふたりが部屋に入ると、自然と視線が集まった。まだ、トレーナーの姿はない。


なんとなく張りつめたような空気を感じたそのとき、ジェリーが「やあ」と声をかけてきた。


 


「君たち、もう仲良くなったんだね。どこに行ってきたの?」


 


横浜のみなと公園から町を見下ろしてきたと答えると、


 


「え、それなら僕も行きたかったな。声かけてくれればよかったのに」


 


と、あのときのカラオケの調子で、間に入ってきた。


 


「ねえ、写真見せて、見せてよ」


 


彼が歌った『ライオンハート』を思い出す。不思議な力を持っていた歌。そして、みんなで歌った『世界に一つだけの花』。


その一体感を思い出した。まるで、ベタな日本のドラマの中に入ってしまったような感覚をおぼえた。


歌詞に出てくる「花屋」で働く響香のことを、一瞬、思い出した。


ただ、ふと気づく。よくありそうで、実はそんなシーンを見た覚えがない——異国の人たちと、あの曲を輪になって歌う場面を。


 「一番なんて、決められないのよ。私たち、一つ一つが素敵なんだもの。まるで、歌みたいでしょ?」


花束を抱えた響香の姿が、ふと目に浮かんだ。



 


そんなことを思っていると、研修室の張りつめていた空気が、ざわざわと楽しげなものに変わっていった。


 


話題に出た「黒船」という言葉に、ダビデが反応した。


 


「くろふね」


 


ゆっくりとしたダビデの低音ボイスが、四文字を静かに響かせると、視線が一斉に彼に集まった。


 


「坂本龍馬やったんだって。やってみてよ」


 


ジェリーがすかさず言う。


伸子は、名古屋の四間道でダビデに初めて会ったときのことを思い出した。即興で侍になりきった、あの芝居。あちこちで、同じような芝居をやっているのだろうか。


 


「高知……いや、土佐から来た坂本龍馬は、黒船をどんな角度から見たがやろうの。


この角度なら、富士山と黒船がいっぺんに写るかもしれんねぇ」


 


秋に見た芝居と同じ口調で、ダビデは坂本龍馬になりきっていた。


 


「拙者も、行ってみとうなったぜよ」


 


バラ子は笑って言った。


 


「この人、すました顔して、けっこう変わってるわ。伸子さん、こっちに座りましょ」


 


ふたりは少し離れて腰をおろし、再び薔薇の話を始めた。


 


「やっぱり、日本のバラの育種家って、他の国にはない感性を持ってると思うの。見て、このバラ……」


 


教室はいつしか、まるで中学校の放課後のような空気に包まれていた。


 


そんなとき、トレーナーと、険しい表情の数人が部屋に入ってきた。


おかまいなしに後ろを向いてしゃべっていたジェリーに、全員の視線が一斉に注がれた。


ジェリーは話の途中で言葉を切り、最後に申し訳なさそうに、


 


「よろしくお願いします」


 


と言った。


 


そして、


 


"It’s nice to meet you. I’ll do my best to learn from you."


(はじめまして。あなたから学ぶのを楽しみにしていました)


 


と続けたが、それでも、前からの冷たい視線は変わらないままだった。


 


"There’s nothing I can teach you. I hope you learn from the facts themselves."


(私はなにも教えられない。事実から学んでほしい)


 


しばらくのあいだ、重たい沈黙が流れた。


横浜では、メンバー以外の異国人とも行動を共にすることになるという。


その説明とともに、後ろの空いていた席に誰かが腰を下ろす音が響いた。


トレーナーは一番後ろに座っていたようだが、最後まで振り向けなかったので、確かめられなかった。


 


「これは仕事だということを忘れないでください」


 


「今日の午前中、どう過ごしたか、すぐにレポートを提出してもらいます」


 


「業務中に勝手に写真など撮っていませんよね?」


 


伸子の胃が、ぎゅっと痛んだ。


 


ふと気がつくと、年齢を聞かれていた。ダビデが56歳だというのは覚えているが、他の数字はぼんやりしていた。


 


子どものころ、授業中にお腹が痛くなったのは、どんな時間だっただろう。


遠い記憶をたぐりながら、ふと気づいた。


 


——私は、66歳。ここでは最年長だった。



2 教壇と展望台と未来の背中


横浜が開港した年に生まれていたら、166歳。


横浜の3分の1ほどしか生きていないけれど、あまり自分が成長していないような気がして、ため息が出そうになった。


 


展望台で、先生が子どもたちに語った言葉を思い出す。


 


「166年の変化って、すごいですね。


黒船が最初に来たころ、ここ横浜は小さな漁村、横浜村だったんです。


水道も電気もなくて、夜は闇もまた闇。


イノシシやら獣が歩いていたかもしれません。


 


黒船の影響を受けて発展し、でも関東大震災でまた焼け野原になって、一からやり直した歴史もあります。


 


でも、あなたたちの一年一年の変化もすごいんですよ。


自分の体を町にたとえたら、できることがどんどん増えてきます。


 


さあ、みんな、まずはトイレに行きましょう。


手は必ず洗いましょう」


 


水筒をベンチに置き、子どもたちは笑いながら走っていった。


その小さな背中に、未来を感じた。


 


町は、勝手に変わるわけじゃない。


誰かの手や意志、歩みの重なりが、町を変えていく。


 


——私の背中も、いつか誰かの小さな未来になっていたらいい。


 


教壇の場所に立つ、虹色のネクタイをした白人男性が話す。


 


"Now that you’ve examined the water systems of each country, I’m excited to see how your cross-border private team will make its proposals going forward. You are the vanguard of the ever-continuing にじのわ."


 


バラ子が日本語にしてくれた。


「それぞれの国の水道事業を見ていただいて、国を超えた民間のチームがこれから、どう提言していくか、楽しみにしています。あなたたちは、これからづづく虹の輪の先導隊です。」




「私の背中も、いつか誰かの小さな未来につながっていったらいい。」


後ろのふたりが見ているかはわからないけれど、伸子は、そっと背筋を伸ばした。

この章を書きながら、幼い頃や若い頃の教室を、ふと思い出していました。


横浜は1859年(安政6年)に開港しました。

つまり、2025年の今から数えると、166年の月日が流れています。


そして今、私は多くの人の背中に支えられて立っていることを、しみじみと感じています。


「学ぶ」という言葉は、ただ知識を得るだけでなく、

誰かの歩き方や、考え方、生き方を、

知らず知らずのうちに自分の中に取り込んでいくことなのかもしれません。


台所のように、小さくて、生活に根ざした場所から、

国境や時代を越えて、そっと“世界”が変わっていく。

そんな景色が、本当にどこかにあると、私は信じています。


研修室という名の小さな舞台で、

年齢も国籍も違う人々が交差し、

ときに沈黙し、ときに笑い、

ときに一緒に歌った――

そのすべての場面が、

この章を読んでくださったあなたの中にも、

静かに残ってくれたなら、うれしいです。


また次の話で、お会いしましょう。


著 朧月

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