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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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第6話 長旅スタート 〜伸子ひよこ、虹の輪に舞い降りる〜


「せっしゃは、世界の喜びを分かち合い、平穏無事な人々に本当の幸せを届けることができると、心の底から思うようになったのです。


その方法を、どうか、あなたに教えていただきたい。」


伸子は戸惑ったまま、耳を傾ける。


「伸子殿、実はこの井戸が今の形になるまでの経緯を知りたいのです。


そして、まだ水道が整っていない町も多く、そこで安全な井戸もないところがある……こんな状態は、許されません。


今さら何を恐れることがあるでしょうか?江戸には……いえ、大阪には、仲間が待っているのです。


あなたとともに、この問いに挑みたいのです。」


――四間道で響いた、ダビデの低音ボイスが、今も耳に残っていた。




1 返されたペン


上司への相談は、あっけなく終わった。


「虹の輪? 民間の水道事業者による国際貢献プロジェクトだろ?

具体性に欠けるし、このご時世、予算はどこから出るっていうんだ?」


亀田課長のひと言で、会話はそれきりだった。


「……そうですよね」


伸子は、机のペン立てにきゅんたちゃんのペンをそっと戻す。


退勤後の雪道を歩きながら、あの日の名古屋のことを思い出していた。



ダビデからもらった番号に、一度だけ電話をかけた。


彼が出ると思った。しかし電話口に現れたのは、事務員らしき女性の声。


「縣伸子さんですね。ダビデからお話は聞いています。ご連絡をお待ちしていました」


伸子はあわてて答える。


「大変興味深いお話ではありましたが、上司に相談した結果、わずかな予算であっても弊社では対応が難しく……申し訳ありませんが、今回はお断りさせていただきます」


精一杯、丁重に断った。


あれほど熱心に聞いた手前、また電話がかかってくるかもしれないと思った。


電話履歴を頻繁に見る日々が続いた。しかし、その後、連絡はなかった。



2 思わぬ桁違い アクリル板と虹の輪


あっさり終わったはずの話が、年を越し、三月が近づく頃、思わぬ形でぶり返した。


コロナが第5類に移行する話題が出はじめ、街にマスクを外す人の姿も見かけるようになった二〇二三年春のことだった。



ある朝、事務所がざわつく。


「ゼロが二つ違っていました。今年度の——」


「コロナ対策費のアクリル板? 俺が責任取るよ」


「いえ、違うんです。ゼロが二つ“多い”んです。どうしましょう……?」


「伸子君。君が前に言っていた、あの素晴らしい予算の使い道、あるじゃないか?」


「えっ……?」



こうして、旅立ちの準備は、慌ただしく始まった。



3 虹の輪メンバーは七人+α


ダビデ――伸子が「三重奏王子」と心の中で呼ぶ、不思議な異国人ぶりは健在だった。


伸子の顔を見ると、低音ボイスでこう告げる。


「拙者は、いづれ また会えると思っていた。」



後で知った。虹の輪プロジェクトのメンバーは七人と決まっていた。


七色の虹――けれど、ほんの少しはみだす一色が、その景色をより魅力的にする。


伸子とダビデ、そしてダビデの恋人が「約束の部屋」に入ると、そこにはバラ子がいた。


彼女を加えると八人になる。


伸子は少しホッとした。


「やっぱり私は行かない運命なんだわ。それはそれでよかった。この準備期間も楽しかったし……」



せっかく大阪に集まったのだから、八人で食事することに。


お好み焼き屋、そして大阪駅近くの居酒屋へ。


食べて、飲んで――そんな中でも、ダビデはまだ伸子を諦めていなかった。


当然、ダビデの恋人も譲らない。


新しく加わったバラ子は、すでにプロジェクトのためにカタールから来日しており、「今さらメンバーを変えるのは嫌だ」と主張。


なんとなく、「伸子か、ダビデの恋人のどちらかが抜ければいいのでは?」という空気が漂う。


伸子は、この時点で降りるつもりだった。



ところが、ふとした一言で場の空気が変わる。


「そもそも、恋人同士がこのプロジェクトにいるって、どうなのかな?」


金髪の少し小太りの男の声だった。


微妙な緊張感のなか、誰かが提案する。


「カラオケハウス、行かない?」


言い出したのは、ニット帽とサングラスをした四十代のアジア系男性。



気分を変えようと、マイクが回る。


各国の歌が飛び交うかと思いきや、意外にも日本の歌が人気。


「このプロジェクト、途中で抜けてもいい」

「でも、最初の日本だけは来て損はない」


打算を抱える者もいた。


伸子は、こんな国際的な集まりにいること自体が、まだ不思議だった。

でも楽しかった。


張りつめた空気は消え、八人の“国際カラオケ大会”が始まる。



バラ子は宝塚風に歌う。


昭和風の劇場歌を、セリフまで挟み込み、最後は「薔薇、薔薇」と連呼。


男性陣はぽかん。伸子だけが笑い泣きした。


遅れて来たひとりは、わざわざホテルにギターを取りに戻り、手にして現れた。


その音色は格別だった。


ダビデはバラード「こいびとのうた」を歌う。


三重奏王子の全てを包み込むような低音の声は、まるで歌手本人のようで、密会ライブさながらの臨場感だった。


伸子は、明日香とよばれる彼の恋人の複雑な表情をそっと見つめる。



ギタリストが伸子に言った。


「ひよこちゃん、歌ってよ。」


苦手だったカラオケ。


でも気づけば伸子は、大好きなサザンの曲を立て続けに歌っていた。


ダビデと恋人は途中で部屋を出て、何かを話し込む。



最後は残りの七人で、ギタリストの生演奏に合わせて「世界に一つだけのうた」を合唱。何度も聞いた日本の有名曲だが、異国人が混じると、新たな輝きをます。


ギターの音と笑い声が混ざり、夜はゆっくり溶けていった。



翌朝。


「ロビーに10時に集合ね」と別れたはずだったが、9時すぎにドアをノック。


立っていたのは、ダビデの恋人明日香だった。


「あなたの補佐として、一緒に行けないかしら?」


経費は自分で負担するという。


伸子は少し考え、うなずいた。


「いいですよ。みんながOKなら、私は構わない。」



昼の食事会。


トムとジェリーの茶色いトレーナーを着た伸子が輪に入ると、拍手が起こった。

お馴染みの猫の絵はかかれていない。トレーナーの中で、ひよことネズミが、握手している。


「主役のいないトムとジェリーみたいだね」

「君のセンスはいい」

「君のユーモアもね」

「君はひよこちゃんだね」

「僕はジェリーだね」

「僕はトムだね」

「僕はトレーナーでいいよ」


その瞬間から、伸子は「ひよこちゃん」と呼ばれることになった。



八人での旅は続く。


次の目的地は——横浜。

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