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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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長旅編 第3話① 名古屋のコメダが、リフレインの朝

伸子の自宅のテーブルのコーヒーの香りが、眠りの縁をくすぐる。

伸子はふたたびパソコンを開いた。しかし、指先は重く、画面の白さだけが目に残った。

文字は生まれない。ひとつも。


パソコンも目も閉じ、ただ5分だけ――ほんの5分だけ――眠ろうとした。


すると、名古屋の朝が、ふわりとよみがえった。

そしてなぜか、北海道のあの日も、心の底から押し寄せる。

台所シリーズ 第2部『台所はせかいをかえる』 長旅編

第3話① 名古屋のコメダが、リフレインの朝




1 胆振地震(2018年)の回想


記憶のピースは、思いがけない場所に、ひっそりとはまっているものだ。


あの夜、眠りから飛び起きたあとも、伸子はまだ、長女・加奈と恵庭の花の牧場でランチと買い物を楽しむつもりだった。秋植えの球根は、どれにしようか考えていた。


電話が来るまでは――。


秋の名残を感じる9月の朝。

携帯電話の画面には「北広島にこにこ水道」が表示される。


数時間前の夜中3時、震度5の地震で跳ね起きる。

TVで震度を確認する。

「こんなに震源に近かったんだ……」


棚からものは一つも落ちず、娘たちの安全もショートメールで確認できた。

安心して、再び眠った。


直ぐに朝日が差し込んできて、カーテンを開ける。

隣のご主人の車は、いつもと違う場所に向かっていた。

新聞を取りに行くその動きまで、日常の延長に思えた。


ところが、地震直後ついていたTVが、つかない。

「えっ、ブレーカー? うちだけ?」


電気は戻っていない。幸い、朝晩は涼しく感じるほどで、ストーブも不要だった。

最初はのんきに構えていたと思う。


顔を洗い、冷蔵庫を開ける。

炊けていないご飯の代わりになるものを探して、ぼんやり暗い庫内を見つめる。

夫が起きるころには、戻っているだろうと思った。


そこに携帯電話の表示。

「北広島にこにこ水道」

亀田課長の声が、あの時だけ、伸子の自宅で響いた。


「縣くん。悪いが、今日出勤できないか? 地下鉄組が来られないんだ」


課長は普段、「あがっち」「のぶちゃん」「縣さん」と呼び分ける。

その中でも、君づけのときだけは――ただならぬ頼みごとがある。


「はい。」


家を出る。


夫が造作してくれた4段ほどの階段をおりながら、その横の花壇に一瞬だけ目にやった。

制服姿の息子さんと一緒の隣の奥さんが声をかけてきた。

「大変ですね。今もお風呂に水を張ったところなんです」

「電気が止まっても、水は出ますよ」

言いかけて、言葉を飲み込む。


車でラジオをつける。

非常時の現実が、耳を通して全身に広がる。

(えっ……道内全域? 網走の先まで停電……)


信号の消えた交差点。

息を詰めて、職場へ向かう。

左右はもちろんバックミラーも何度見る。

ドライバーの皆の顔がこわばっている。

トランシーバーの持った警察官が交差点にたつが、圧倒的に数がたらない。



ガソリンスタンドには、すでに車の長い列。



職場につくと、電話が鳴り止まない。

停電や断水の問い合わせに、ひとつずつ答えていく。

(停電はいつまで続くの?)


もし「この停電は46時間で終わります」と最初から告げられていれば、気持ちは少し違っただろう。

でも現実は、告げられない。


長い職場での一日がすぎて、闇の街を、車のヘッドライトに頼ってゆっくり進む。

家に戻ると、再び娘たちと連絡を取り合ったのは未明だった。


加奈も、ランチの約束などすっかり忘れていた。

千歳空港勤務の長女は、いつもと違う対応に追われていた。


「もうくたくた」

「電気まだつかないね」

「車でスマホ充電したから、もう寝るだけ」


停電で暗くなった空に、あの日の星は、ひときわきらきら輝いた。

その光を思い出すと、伸子の意識は自然に北海道から名古屋へと移っていく。

時間と場所を超え、記憶が重なり、重なる。


パソコンを閉じ、5分だけ眠ろうとした瞬間――

また、リフレインは始まった。

次に目を開けると、名古屋のコメダ珈琲の香りが包み込む。




2 名古屋のコメダの回想


あれから数年。


携帯電話はスマホに変わり、再び「北広島にこにこ水道」の表示が光る。


今度は、名古屋・コメダ珈琲店のテーブルの上。

店内にはコーヒーの香り、隣の談笑、落ち着いたBGM。

有給休暇中の伸子のスマホが、4度震える。


バッグの中を探る。

モバイル充電器は持ってこなかった。

スマホの重さが、肩にずしりと乗る。


電話の相手は職場の後輩、えりちゃん。

声はてきぱきしているが、いつもの明るさに、伸子の肩の力はすっと抜ける。


「縣さん。今、ナゴヤですよね? 電話で話せますか? 月曜、初の一人担当でして」


「大丈夫よ。金曜日も月曜日も休み取っちゃって、ごめんね」


口にした「ごめんね」が少し悔やまれる。


それが、働き方改革を遅らせているのだ――と、わかっていても、つい口から出てしまう。

抜けきれない“昭和風呂”と、勝手に名付けた習慣が、まだぬぐいきれない。


個人の時間よりも、みんなで同じ温度を保つことが大切だと信じていた、かつての時代。

ぬるま湯のような心地よささえあるが、それはもう、美徳ではないのだ。



「どのような手順で……」

伸子の担当地域は、新たにできるエスコンフィールドで急発展中。

地域住民の願いあっての球場だが、水が出ないなどのトラブルがあれば、好機も変わりかねない。


(iPadもってきてよかった……)

バッテリー残量は36%。

(充電コード、2本もってくれば……)


えりちゃんには「10分したらまた電話する」と告げ、

iPadで北広島地域の地図を開く。


頭の中を整理するには、ペンと紙が必要だ。


紙はカバンの中にある。

「花人クラブ 幹事だより」がクリアファイルに挟まれており、裏紙として使える。


花人クラブとは、かつて白い恋人パークでボランティアをしていた仲間の集まり。

この幹事だよりは、コロナ禍で集まれないもどかしさを埋めるため、響香と一年かけて作ったものだ。


だが、紙があってもペンがない。

(入れたはずなのに……)


二人だけの幹事会が終わったあと、

響香がくれた「キュンちゃんペン」が、どこにも見つからない。


アイヌの帽子をかぶった北海道大使のキャラクターの限定品で、

わざわざネットで手に入れてくれた、大事なペン。


思い返せば、これから始まる出来事のすべては、会社の電話でもバッテリー残量でもなく、

「ペンがなかった」ことから始まったのだった。


第3話②へつづく







胆振地震(2018年北海道胆振東部地震 )

2018年9月6日 午前3時7分頃 震源地:北海道胆振地方中東部

震度:最大震度7(厚真町)死者:41名全壊:約600棟

停電:北海道全域で最大約295万戸が停電ブラックアウト


本作は、震災後の人々の会話や記憶をもとにした創作であり、フィクションです。

登場する団体やその名称は、実在のものやこれに類似するものとは無関係です。

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