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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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第2部 長旅編 第1話 波に委ねて──名古屋駅の朝

台所シリーズ 第2部 『台所はせかいをかえる』 長旅編

第1話 波に委ねて──名古屋駅の朝


吾輩は、人間である。



I am human.──あい アム ヒューマン。



名前もある。



それなのに、どうして、言葉をうまく紡ぐことができないのだろう。






キッチンを背に日記帳を開く。


2024年12月30日(大晦日前日)


報告書も書かなくちゃいけないのに、なかなか書けない。


どうしよう……。


伸子はこの2年を振り返った。


パソコンの横に日記帳をだして、ぱらぱらめくる。

あれは、もう2年前のこと。


2022年11月21日


はじめての一人旅。


名古屋の天気は、朝に雨が降り、その後晴れた。

最高気温21.6度、最低気温11.9度。

暖かい陽気だった。



コンサートは、もう最高。


2022年11月22日


昨夜は遅くに寝たが、早く目が覚めた。


早々にホテルをチェックアウトし、名古屋駅に行く。


もう、いろんなことがありすぎて、書ききれない。





(名古屋駅、どんなんだっけ?)




札幌駅の朝は、一方の方向に進む。


名古屋駅は、右へ、左へ、上下へ──

人々が縦横に波のように行き交う。

駅というより、光の帯と足音が交錯する未来都市の中枢に立っているようだった。


人の波の隙間に立つと、自分だけが時間の流れから取り残されているかのように感じる。


名古屋駅も、札幌駅と同じく、人々はマスクをし、スマホをポケットに入れ、

自信に満ちた足取りで歩いていた。


少し雨が降っていて傘を持つ人も多かったが、

そのことさえも流れに狂いはない。



札幌駅では、外国人が、スーツケースを引き行先を迷っていったりして、異国から来たとすぐに見分けられる。


けれど名古屋では、肌の色も言葉も違う人々が、波の流れにのり、みな都市の巨大ターミナルのうねりに溶け込んでいた。 ──あの時の伸子こそ、ひとり異国人だった。



伸子は、台所を背に腰かけると、朝からずっと同じ場所に置かれている新聞に目をやった。


そして、この日も、日記帳をひらいて日付を書いた。





正月がおわった。


2025年1月4日


相変わらず報告書の行は10行のまま。一字も進まない。


画面に「kkkkkkkkkkkkkkkkkkkk」と20回打ってはデリートした。


5年分書けるこの日記帳に、書けるのはせいぜい数行。


しかも、虹の輪の旅にはこの日記帳を置いていったため、

一年半分が空欄になっていた。



白紙の部分にあふれる思い出と言葉。


でも、どの角度からもうまくつむげない。


こんなことなら、おととしの秋のことは、はみ出してでも書いておけばよかったわ。



記憶は、また2022年11月22日に戻る。


前日のコンサートの興奮はのこっているのに、

名古屋駅構内で立ち尽くしていた。


どの人の流れに乗ればいいのか、まるで分からない。



そういえば──ベンチがない?


スマホと手帳を取り出して、腰を落ち着けて考えたかった。


けれど、こんなに立派で素晴らしい駅なのに、座れる場所が見当たらない。



これでは、孫を連れてくるのも、老いた母を連れてくるのも難しい。

やっぱり、一人で来て正解だったわ、と胸の中でつぶやく。


前日のコンサートで隣に座った人が言っていたことを思い出す。


「札幌駅って、光がたっぷり入るし、駅全体が暖かくて素敵ですね」


そう言われて、初めてそのありがたさに気づいた。


札幌駅構内のあのベンチ。



黒いストーブの前に置かれていて、近すぎると熱くて汗をかくけれど、どこか懐かしい。

上に置かれた古いテレビでは、いつも地元の情報番組が流れている。


馴染みのアナウンサーが穏やかな声で「道内の天気」を伝えるその姿は、

長年見慣れた安心感そのものだった。


「今日は、午後から気温が少し上がりますが、風が強いので防寒対策をしっかりと──」


そんな声を聞きながら、ストーブの熱で手を温めた学生時代がふと蘇る。



名古屋駅でベンチがないことに気づき、

札幌のあの空間が恋しくなる自分に少し驚いた。



たった二泊の一人旅で、ホームシックを楽しむなんて、ちょっとおかしい。



「ベンチがないなら、せめて‘ベンチはこちら’って標識でも置いてくれたらいいのにね」

そう心の中でぼやきながら、伸子は再び人の波に身を委ねた。


人の波に身を任せながらも、心の奥では小さな不安と期待が入り混じり、胸の奥でそっと弾む。



──この旅は、まだ始まったばかりなのだ、と。


そして、これから出会う光と風と物語が、

自分の中で静かに、しかし確かに、新しい章をめくりはじめていることに、

あの時は、まだ気づいていなかった。


伸子は、深夜のコーヒーをのみながら、名古屋のあの日の記憶をたどっていった。

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