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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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ただいま編 第5話 水仙のつぼみ〜心の庭に咲くまで

台所シリーズ 第1部「台所でせかいをかえる」ただいま編

第5話 水仙のつぼみ〜心の庭に咲くまで


1

エスコンフィールドは、札幌と千歳空港の中間、絶好の立地に誕生した。

近年、ラピダスの開発で注目される千歳にも隣接している。

完成した今では、まるでここに生まれるべくして誕生した場所のように感じられた。


でも、計画が発表された当初、響香の思いは少し違っていた。


響香は、新球場建設の計画を新聞で知ったとき、思わずため息をついた。

「結局、札幌にもう一つ無駄な球場ができるだけなんじゃないの」


それは、北広島に舞台をうつしてからもかわらなかった。

北広島市も札幌のベッドタウンで、岩見沢市に住む彼女にとっては同じ小さな町。

「球場が似合う町じゃない」と、心の中でつぶやいた。




響香は横浜出身で、夫の哲郎は広島出身。

転勤族同士のふたりは、北海道で学生時代に出会った。


20年以上前、札幌の少し東、岩見沢で小さな注文住宅を建て、終の棲家を作った。


都会の渋滞や満員電車に心をすり減らす生活を思うと、ここでの暮らしはまるで息を整えるように心地よかった。


高層マンションに囲まれた街並みは、時に息苦しさを感じさせた。

もう一度、せせこましい町に戻りたいとは思わなかった。


雑踏やネオンから遠く離れたこの暮らしは、響香の心に自然に溶け込み、春の芽吹き、夏の陽ざし、秋の紅葉、冬の静けさ――四季の移ろいを身近に感じる毎日が誇らしかった。

広々とした土地と空は、心を落ち着け、自由な感覚をそっと運んでくれる。



「東京や横浜のような発展は必要ない」と思う彼女に、エスコンフィールドの計画は少し煩わしい話だった。


しかし昨年、車で50分ほど走って、完成したばかりの球場を初めて訪れたとき、響香の心は一変した。


洗練されたデザイン。

広大な敷地。

地域に新たな風を吹き込む力強さ。


だれもが心を躍らせていた。

「そんなはずはない」と心のどこかで思っていたのに、知らぬ間に、響香の胸にも小さな風が吹き込んでいた。


広い敷地に足を踏み入れると、四世代で集う夢が浮かんだ。


コテージで家族が揃い、愛犬のこゆきも一緒に過ごす。

孫たちと夢ごこちの時間を過ごし、娘夫婦はテレワークをしながらバーベキューを待つ。

ナイターの試合のことさえ忘れるほど、心地よい時間が流れる――。


ひとり、響香はふふっと笑った。


エスコンの案内図を手に、コテージへと歩く。

北海道の四月の風は、まだまだ冷たい。

そして、彼女が一番見たかったガーデンへ。



哲郎は球場内に戻りたそうだったけれど、響香は外を歩き続けた。

最初に咲くであろう水仙も、多くはまだつぼみだった。


伸子が新聞の切り抜きで見せてくれた庭の予想図――いま、その中にいる。


「そろそろ、行こうよ」

哲郎の声に、「うん」とだけ、生返事。

彼の背中を追いながらも、振り返ってスマホで写真を撮る。


春の花壇といえばチューリップを思い浮かべるけれど、ここにはなかった。

自宅のチューリップは、ネット対策もむなしく、今年もネズミにかじられ、哀れな姿だった。


庭の設計者は、すでにげっ歯目たちの食欲を心得ているのだろう。

ネズミの餌になりそうなものは見当たらない。


日当たりのよい斜面では、みずみずしい葉とともに、水仙が黄色い花を咲かせていた。

「げっ歯目たちは、この葉に毒があることを、もう学んでしまったのかしら?」響香は再び庭を見渡した。


このガーデンの「霊長類」と「げっ歯目」の知恵比べは、もう始まっているのね――。

水仙の多くは、まだ緑の薄膜にその黄色い花を包み隠し、ひっそりと佇んでいた。



2

この春、ようやくコロナのトンネルを抜けた――。

人々の表情が、そう語っているようだった。


けれども、皆が会話を弾ませるその光景を、響香はどこか遠いものに感じた。



伸子が案内してくれると思っていたこのガーデン。

「ここでボランティアをするの」と意気込んでいた、あのときの伸子の表情が、ふと浮かぶ。

伸子は、海を越えて、いつ帰ってくるのだろうか?


あの水仙のつぼみって、本当に葉っぱみたい。

葉とつぼみがまだ一体になっていて、どっちが花で、どっちが葉か、わからないくらい。

静かに混ざり合ってる。


風に揺れていると、つぼみも葉っぱのふりをしているように見える。

「まだだよ、まだ咲かないよ」って。



その形もその色も、――まるで、身を守ってるみたい。

だからこそ、花が開くときのふいの明るさが、たまらなく美しい。


それがまだ「ない」ことで、咲いていた二、三輪の水仙の花さえ、まぶしすぎた。


響香は、空を見上げた。

季節はまた巡っている。

――2023年の春、その日、水仙の写真は、結局だれにも見せなかった。

      第5話 おしまい  第6話へつづく


後書き


あの水仙の花が、響香の心の庭に咲いたのは、一年半という静かな歳月を経てからだった。

まるで、一年眠っていた球根が、秋の庭で響香がスマホに「ポンポコリン」と入力した瞬間に、ひょっこり顔を出したかのようだった。


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