ただいま編 第32話②「二人だけの新年会」ー四間道の影
ただいま編 32話②「二人だけの新年会」ー四間道の影
日本を知る旅、という手のひらサイズではなく、地球儀を抱え込むような夢だと分かっていても、ふたりの会話は時を超え、いつものトーンで始まる。
「響香さんに出会えてよかったわ。二年にわたるこの企画について、会社や関係各所に報告書を出さなくちゃいけないんだけど、行き詰まっていたのよ」
「まず、公共の予算を使うって、大変なことよね」と、伸子は溜息をついた。
今度も伸子はそれ以上のことを言わなかったが、響香はエッフェル塔でニッカと笑う女議員の写真を思い出した。
写真一枚で責められる彼女たちを哀れに感じながらTVを見ていたが、思いもよらぬ場所で誰かのため息を感じるとは思わなかった。
「何も成果がなかった。あちこちの国の水道インフラを見てきたけれど、帰ってきたら、私のメモはうちの資料室にあるものばかり。興味深い情報もあったけど、各国のプレゼンのスライド撮影は禁止だったし、お互い自国の資料持ち出し禁止で集まっていたから」
「伸子さんもプレゼンしたの?」
「したわ。眼鏡を忘れちゃって、大変なことになった。慌てて『眼鏡は顔の一部です』って言ったら、大爆笑。『あー、早く帰って卵かけご飯食べたい。それより、納豆ごはん。』って言ったら、大ウソつき呼ばわり。穴があったら入りたかったわ」独り言だけがマイクに拾われてしまって、それがAIによって各国の言葉に通訳されたから、最悪だったのよ。
そのときの情景が、今も鮮明に胸に残っているという。
壇上での沈黙のあと、ふと口にしてしまった独り言。
会場に響いたのは、翻訳AIによって拡声されたその言葉だった。
「Glasses are a part of my face... I wish to enter a hole... I desire rice with raw egg. Correction: fermented soybeans.」
「What is ‘fermented soybeans’?」
「納豆? 腐った豆だろ?クレイジーだな……」
どこからか、片言の日本語で、
「エ?生タマゴ、タベル人間、イルワケナイダロウ…」
という声まで聞こえてきた。
ざわめきと、国際色豊かな笑いが、波のように会場を包み込んだ。
それをきっかけに、会場は少しほっとしたように和やかな空気になった。
張りつめていた議論がやわらぎ、次の発表者が笑いながら壇上に立ったほどだ。
——あの時、本当に穴があったら入りたかった。
帰ってきたら、後輩たちが、「ラブロマンスの旅?だったりして、、」と冗談交じりに話すのが聞こえた。
「名古屋の四間通りで、もっと立ち止まっていればよかった。」と、伸子は加えた。
実際、四間道に立った時、伸子も、すごいことができそうな気がした。
「四間道」と彫られた石柱をスマホで写真を撮った時、あの道の成り立ちをゆっくり調べようと思ったのだった。
その瞬間の胸の高鳴りが、あの写真に閉じ込められてる気がした。
響香は、その写真を伸子から送ってもらっていた。
画面に浮かぶ灰色の石柱と、秋の日差しに長く伸びた影―スマホをかまえる伸子さんの影を、思い出しながら、
その時の伸子の胸の高鳴りまで伝わってくる気がして、ふっと息を吸った。
「しけみち?」と響香が聞き返すと、伸子が名古屋の四間道の説明をしてくれた。そして、ふたりで江戸時代の文化について話した。伸子さんが「井戸を見たことある?」と聞くので、小学校の頃、駅から帰る途中で見ていた井戸の話をした。
「どこ?」と聞かれ、「妙蓮寺」と答えた。
「妙蓮寺?駅名聞くと、『きくな(菊名)』っていう駅があって、その次が妙蓮寺だよね」
「きくな、なんて、おかしな駅名だと思わない?」
「そお?」
「だって、きくなよ」
そんなたわいのない話を交わしているうちに、響香の心は次第に妙蓮寺に住んでいた頃へと引き戻されていった。
ふと、校歌の一フレーズが口をついて出る。
「まじかに見えるは横浜港〜 遠くに見えるは、真っ白い富士山〜――ぼくらにむかって呼びかけてい〜」
お腹がすいたので、コンビニでパンを買った。
細かいお金がなくて、二人とも一万円札を出すと 紙幣は新しいデザインの渋沢栄一だった。
響香は、ぽつりぽつりと記憶の中の妙蓮寺を語り始めた。
それは、伸子の長い旅の物語が滝のように流れ落ち、深い滝壺に沈み、
やがて静かに地下を伝ってゆく水となり、
下流のどこかに、新たな源流を生み出すような時間だった。
それは、過去という海へとそそぐ、最初のしずくのように。
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