ただいま編 第32話 ①「二人だけの新年会」 ―地下道のベンチから始まる旅―井戸の記憶へ
台所シリーズ 第1部 「台所がせかいをかえる」ただいま編
第31話「二人だけの新年会」 ―地下道のベンチから始まる旅―井戸の記憶へ
2025年1月。
伸子は、朝のキッチン、その奥のテーブルに置かれた新聞を、何度も見返していた。
席を立ち、水道レバーを上げて、意味もなくシンクに流れる水の行方を眺めてみたりもした。
テーブルのパソコンに映る報告書は、相変わらず10行のまま。一文字も進んでいない。
伸子は、意味もなく「ダビデ」「バラ子」「トレーナー」など、思いつくままにキーボードを叩いては、すぐに消す――そんなことを、いったい何度繰り返しただろう。
焦燥と自己嫌悪に心が揺れるなか、まぶたを閉じて、心のシャッターに映る映像をたどろうとした。
その時。
テレビ台を震わせるスマホの着信音が響いた。鏡餅の横だった。
響香の声が聞こえた瞬間、胸の奥がぱっと明るくなる。
かすかな光の藁をつかむように――沈みかけた心が、ふわっと浮いていく。
肩の力が抜けるのを感じながら、スマホを片手に、部屋をゆっくりと歩きながら話し始めた。
「うちの凛、『あけおめ』言うわよ、言ってたわ」
「娘、それ死語だよって言うの。ゾンビだって」
「児童館で覚えたのかしら。定年後のおじさまおばさまが見てくれてるんだもの。…うちの凛、ゾンビ化したかしらね」
二人は笑いあい、
「新年会しよう」
と響香が言った。
札幌の地下道、通称チカホのベンチで、ふたりだけの新年会は静かに始まった。
ここは以前にも長居したことがある場所だ。
そこは、コンビニの横に静かに佇む大きな金庫がある場所だった。
響香はそのときまで、その場所に金庫があることにまったく気づいていなかった。
伸子に教えられて初めて、その存在を知ったのだ。
おそらく、毎日のようにそこを通っている人たちも、彼女と同じだろう。
——「こんなところに金庫があるなんて」と、聞けばきっと驚くに違いない。
札幌のチカホには、一日におよそ10万人もの人が行き交う。
そんな喧騒のなか、静かに佇む——お菓子マルシェの階段の横に、まるでオブジェのように置かれた金庫。
その存在は、目立たぬようでいて、確かな重みを放っている。
丸く、いかにも重厚な扉。
銀行の金庫というだけでも十分に異質なのに、足元の石板には、こう刻まれていた。
『札幌拓殖銀行 重量15トン 直径2メートル』
それは、札幌の歴史の一端をひっそりと物語りながらも、誰も気に留めることのない場所だった。
時には、その前でペットボトルのふたをカチリとあけ、水をひと口含んでから通り過ぎていく人たちがいる。
その金庫は、北海道拓殖銀行がかつて存在していたことを、沈黙のまま鎮座して語っているようだった。
拓銀の破綻から、すでに三十年近くが過ぎている。
いま、伸子は北広島ニコニコ水道局で働いている。
けれど、かつてはこの拓銀の行員だった。
銀行が次々と破綻しかけた、あの時代のことを思い返す。
なぜ北海道の銀行だけが国の支援を得られなかったのか、いまだに答えは見つからない。
その話には触れず、前回、伸子はこう語った。
「ああ…わたし、結構働きづめの人生だったわ。これからは好きなことをどんどんしたいの。日本を知る旅をしたいの。」
再びこのチカホのベンチで、還暦を過ぎた伸子と、五十代も終盤に差しかかった響香は、慌てておめかしをして札幌駅で待ち合わせた。
東口から歩いて五分、そのベンチに腰を下ろす。
日本を知る旅——手のひらサイズではなく、地球儀を抱え込むような夢だとわかっていても、ふたりの会話は時を超え、いつものトーンで始まる。




