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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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ただいま編 第4話 エスコンフィールドの手前で ~世界で一番すてきなところ

台所シリーズ 第1部「台所でせかいをかえる」ただいま編

第4話 エスコンフィールドの手前で ~世界で一番すてきなところ


 

アジアの鎌が空をきった。



それらの軌跡は、偶然ではない。


今も昔も、毎朝キッチンの前で広げる地元紙が、それを告げてくれる。


北海道の球場の歴史もまた、台所横の戸棚に積まれる新聞の束に、必ず刻まれている。

――響香は、そんな日常の中に、知らぬうちに芽吹くドラマを思った。


そもそも響香はこの地に住みはじめた頃、雪深い大地の野球は、全国区では無理だと感じていた。


「日本ハムって、テレビ中継されてたことあったっけ?」

「後楽園遊園地にいったけど、野球場といえば……やっぱり神宮でしょ?」


響香の幼い頃の記憶は、新聞紙の文字によって少しずつ塗りかえられていった。


札幌ドームが開業したのは、娘が小学校の頃。約25年前のこと。そのとき、北海道・札幌に日本ハムが本拠地を移した。

 

地元紙『北海道新聞』、通称「道新」は、次の新球場エスコンの構想を計画段階から見守り、数年にわたって報じ続けてきた。


新球場は、昔は強豪の陰に隠れがちだったチームの夢を含め、長い年月をかけて育てられた小さな夢の束だった。


“奇想天外”と笑われた夢は、やがて住民の思いと結びつき、土の中で静かに膨らむ種となった。

小さな芽が顔を出しても、嵐に折れ、陽を浴びられぬこともある。

それでも不確かさごと抱えて育つ――その営みこそ、夢のかたちだと響香は思った。


札幌で進められていた新球場計画は、結局、反対の風に押されてしおれた。

その最中、隣接する北広島市が、新芽のように手を伸ばした。


記事を読んだとき、響香は市民の寄付でつくられた広島市民球場のことを思い出した。

北広島でも、はじめはほんの数人の住民の発案にすぎなかった。

けれどやがて春の芽吹きのように広がり、誘致の動きは町全体の息吹へと育った。

――熱の源は、そこにあったのかもしれない。



やがて、人口5万の北広島市に大型クレーンのシルエットが現れた。

無機質な鉄骨は、まだ色のない未来のようにそびえていた。


伸子は北広島の喫茶店で花人クラブの会報を仕上げたあと、響香の車と二台連ねて現場へ案内したこともあった。

寄せて停めた車の前で、ふたりで仰いだクレーンが、秋空をゆっくりと横切っていった。



ーーそしておととし2023年3月。

北海道ボールパークFビレッジ(エスコンフィールド)が生まれた。

 

響香が最初に訪れたのはプレーオープンから7週間ほどたった頃。

「世界に誇る」という言葉は、けっして大げさではなかった。


誕生した球場には、温泉もホテルもある

スタンドには、チームの歴代の名選手たちの大きな肖像画が掲げられている。


なかでもひときわ目を引くのが、大谷翔平とダルビッシュ有。

観客席を見つめるそのまなざしは、静かで、力強い。

野球に詳しくない人でも、日本人なら誰もが知る存在。

彼らを導いた10人の選手とともに、肖像は球場の内壁にふさわしく描かれている。


この球場に立てば、世界中の人々が彼らの瞳を見つめた、あの日のことを思い出すかもしれない。

自宅のテレビで見た、あの瞬間を――。


エスコンの工事は約3年にわたり、2023年3月14日にプレオープンを迎えた。

そして、わずか一週間後の3月21日――。

日本代表はアメリカ・マイアミで行われたWBC決勝で、世界一の栄冠をつかんだ。


劇的な展開は、日本野球に関わるすべての人にとって、長年の悲願がかなった瞬間だった。


あの日、世界のどこかで、初めて「日本という野球好きの国がある」と知った子どもいたかもしれない。

初めて日本の漫画を手に取った子も。

地図を開いて「にほん」「にっぽん」「ジャパン」が小さな島国だと知って驚いた子もいたに違いない。


何気なくボールを転がしていた子が、その日から“夢という芽”を見はじめたのかもしれない。


8回、マウンドにはダルビッシュ有。

そして最終回、一点差を守る大役を任されたのは、大谷翔平だった。


2アウト、走者なし、フルカウント。

そこから放たれた鋭いスライダー。


それは、アジアの鎌となって、打者トラウトのバットを空へと振り抜かせた。

稲穂を刈るように、バットは大陸の空を切った。

一瞬の風が、観る者すべてを一つにした。


この球場は、彼らの活躍を“予言”していたのだろうか。

――いや、むしろ“導いて”いたのかもしれない。



そして、2024年9月30日。


伸子は、その鮮やかな試合を見ないまま、球場のプレオープンからわずか4日後に旅に出ていた。

帰ってきたときには、町はすでに新しい色に馴染んでいた。

けれど彼女の記憶には、建設中の巨大なクレーンの影が、モノクロームのまま焼きついていた。



「クレーン車は、今、どこでどうしているのだろう」



そんなことを思いながら、職場へと車を走らせる。


ああ、そういえば、旅立つ前にはすでに撤去されていたのだった。

それでもふと、今それを思い出したのは、きっと秋の空の色のせい。

そう気づき、カーステレオの音量を少し上げて、エスコンの横を通り抜ける。



新しくできた信号で停まるのは、これで二度目。

前を行く自転車が二台。そのうちの一人は、前かごにダウンジャケットを入れていた――まだ、暑かったのだろう。


カーステレオから、サザンオールスターズの歌声が流れる。

「明日、晴れるかな?」

伸子も心の中でつぶやく。


舗装されたばかりの道を走りながら、ふと気づく。

――どうしてだろう、今、海の遠さを意識してしまう。

(昨年の海辺のホテルでのあの日々を思い出すからだろうか。)


曲が終わるのを待ち、エンジンを切る。

「明日、はれるかな?」と、もう一度心の中でつぶやく。

その言葉に I talk myselfと添えて、一呼吸おいた。


そして、店内へ。


スーパーに入ると、買い物客の一人が近づいてきた。


「ひさしぶり!」

女性の声に、思わず足を止める。


「あら、元気だった? 刺田さん」

名前がすぐに出てきて、心の中で少しほっとし、そしてまた戸惑う。


刺田さんは、かつての“ママ友”。

お互いの家を何度も行き来した間柄だったが、伸子にとっては、どこか苦手な相手でもあった。


変わらぬ調子で、腰の痛みや家族のことを一方的に話し出す。

そして、唐突に「暇?」と聞いてくるだろうと伸子は予感した。

 返答を考えていると、刺田さんは話を続けた。


「昨日の試合、残念だったわね。」


(きのう野球の話?……みてないな、と伸子は心の中でつぶやく。)


「でも、初登板で初勝利の彼、ほんとかわいかった。沖縄のお父さんとお母さん、私、見ちゃったの。あのボールが沖縄に届くなら、いい最終戦よね。」


どうやら球場の売り場で見かけた感動秘話を話したかったらしい。


その会話の中で、伸子は、刺田さんがエスコンでパートを始めていたことを知った。

刺田さんが専業主婦を卒業していたことも、伸子には意外だった。


店を出ると、赤い自転車が、停められていた。

「ボールパークFビレッジ えふたん」と書かれた、ボールで遊ぶあどけない熊のシールが貼ってある。


あの信号待ちで通り過ぎていった赤い自転車は――刺田さんのものだったと気づいた。


「エスコンフィールドに行くときは、連絡ちょうだい。案内するわ」

彼女は、昔と変わらぬ調子で言った。


エスコンフィールドの、まだ見ぬ庭。

本当なら、伸子はそこでガーデンボランティアをするはずだった。


遠い旅先から、画面越しにではあるけれど、ずっと見守ってきたその庭。

響香に旅のことを伝えることもなく、太平洋も大西洋も、静かに越えてきた。


まちの誰よりも早く、響香と歩いて案内したかった、その庭のすぐそばを今日もまた通りすぎる。

けれど、足はそこに向かわない。


しっかりと約束したわけではないけれど――

響香に案内することのできなかったふたつの春。


頬をかすめる秋風の中、伸子は目を閉じた。

――そこに、響香と歩く庭があった。


耳に残るのは、カーステレオから流れていた曲の余韻。

「明日晴れるかな――」

この旋律は、旅先でも、帰り道でも、伸子の心の声をひろう。

小さな希望のように、今日の空と秋風に溶けていった。

    

 第5話へつづく



まさか―― “げっ歯目と哺乳類の戦い”がガーデンの葉の下で、眠っているとは思わなかった。





資料メモ 

 

曲紹介 伸子のお気に入りの曲 ラインナップ その1

  「明日晴れるかな」 桑田佳祐 2007年発売


球団紹介 日本ハム(北海道日本ハムファイターズ )  日本プロ野球のパ・リーグに所属する球団。もとは東京本拠地でしたが、2004年に北海道へ移転しました。チーム名「ファイターズ」は「戦う人」の意味で、親会社は食品メーカーの日本ハム株式会社。大谷翔平やダルビッシュ有などの名選手を輩出し、2006年(監督ヒルマン)、2016年(監督栗山英樹、エース大谷翔平)に日本一を達成しています。


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