ただいま編 第21話 羊の飲む ほろ酔いサワー (3夜 4夜 5夜 6夜)
台所シリーズ 第1部 「台所でせかいをかえる」ただいま編
第21話 羊の飲む ほろ酔いサワー (3夜 4夜 5夜 6夜)
1 3夜
ふわふわの羊毛を手に、スマホをスピーカーにつないで、伸子の声を部屋いっぱいにひろげる。
ちくちく――。
針の音と、伸子の笑い声や相づちが、ゆるやかに交差していく。
「いたっ」指先に針を当ててしまい、思わず声をあげる。
「大丈夫?」
スピーカー越しの伸子の声が返ってきて、なんでもない痛みがやわらぐ。
ちくちく、ことば。
ちくちく、記憶。
ほどけない結び目も、声に包まれて少しずつ形を変えていく。
2 4夜
「また、電話しちゃった」
「今日はね、キリン氷結シチリア産レモン、買っておいたの」
せっかく久しぶりに会えたのに、長旅の話はまだ何ひとつ聞けていない。
「今日こそ、話してよ。名古屋で出会ったんでしょう?」
コロナが落ち着いた頃、伸子は初めての一人旅に出た。
目的は桑田さんのコンサート――そのはずなのに、そのことさえ響香はまだ聞いていない。
スマホのラインに残る写真。
美しい天井画、緑にライトアップされた名古屋のタワー、四間道の柱に映る伸子の影、そして虹の輪。
「研修旅行みたいなもの。」
でも、素敵な仲間に出会えたようなのに、響香はその話をまだなにも聞いていなかった。
「バラ子さんってね、哲学者みたいなのよ」
「へえ」
「何でも薔薇子さんは、この前やっと庭の冬囲いを終えたんだって」
「寒さに慣れさせるのも大事よね」
話は、いつも“今”を歩く方向へと流れていく。
虹の輪の話には、なかなか辿りつけないまま。
3 5夜 日曜の報道番組
「無口なくせに、父って政治のことになると急に饒舌だったのよ」
「ふふ、いるいる、そういう人」
「新聞社上がりの報道マンみたいに胸張ってね。企業戦士ってやつ」
「……響香の声、ちょっと似てるわ」
「ええっ?やだ・・」
伸子のやわらかい声が、スピーカー越しに部屋に広がった。
「でもね、不思議なの。父との記憶って、誰にも話してないことばかりで」
「そんなものよ」
「それに、どうしても思い出せないの。正面から見た父の顔」
「横顔ばかり?」
「そう。いつも前を向いて話す父を、私は横から見ていた。だから……あのレシピの余白の文字も、私じゃないわ」
少し沈黙が落ちたあと、響香はふと思い出したように言った。
「実家にね、お菓子の缶があったの。父や母が、外国で撮った写真やエアメールを入れてて」
「まだ残ってる?」
「きっと本棚の上で、ほこりをかぶってると思う」
4 6夜 1972年11月7日
「1972年11月7日。携帯電話なんて、なかった頃よ。パンダの初来日だから」
「調べたら、その日は日中和平交渉が成立した日だったわ」
「……まあ、11月7日っていったら。私が、警察に初めて捕まった日」
「えっつ?」
「栗山の手前で、スピード違反」
「もう、びっくりした……」
「そうよ、ケーキを買いに行ったのよ。わざわざ遠くまで。それで、捕まっちゃった。忘れられない、あの日」
話は、自然とどうでもいい記憶の世界へと移っていった。
「そういえば、弟さんの携帯に入っていたんでしょ? あのアラビア文字のレシピメモ」
「姉貴、覚えてないなら、時効にしてやるよ。どうせ親父と誰かの携帯使って、何か企んでたんだろ?」
「余計にもやもやするでしょ? 私は、覚えてないんだもの」
「写真なら、撮った日付、写っているはずね」
「2001年9月19日よ」
「時系列、めちゃくちゃね」
「なんだか、バックチやー、ふゆうちゃー、みたいな話でしょ」
「結婚式の余興だったんじゃない? きっと、いまでも話つくったら、面白いわよ」
「違う違う。結婚式の余興は『蝦夷トリカブト殺人事件』だったの。平成3年、夏」
「そっちも聞きたい」
「よしてよ」
朝目が覚めると、あの会話が全部妄想だったかのように思え、響香はスマホで通信記録を確認した。ほっと胸をなでおろす。
最後には、ラインに切り替わったようで、「また、夜会やろうね」の文字。
そして、しまえながちゃんのスタンプ。
ほどけない結び目も、雑にあたった後悔も、
羊毛みたいに絡み合って、
羽織れる一枚になる。
そんな幸福感を、響香は確かに感じていた。
ウサギ柄の羊毛マントも、完成に近づいていった。
7夜
「そういえば、水って毎日ちゃんと飲んでいた?」
父の話に戻ることもあった。
「ええ、毎日、一リットル、ノルマで先生に与えられていったけ。」
「水は命の源よ。」
「横浜の水なら、質もばっちりね。」
「その水源林のおかげね。」
「実はね、虹の輪の仲間で行ったのよ。」
「そうね。……今度、行ったら写真送るわ。」
「じゃあ、次の夜会までに、ウサギ柄マント完成させるね。」
「楽しみにしてる。」
ふたりの約束が、スマホの画面に小さな光となって残る。
話題はまた、余計な記憶や妄想の世界へとゆるやかに流れていった。
スマホのラインには、羊毛のマントの話や、しまえながちゃんのスタンプが並ぶ。
その光景を見ながら、響香は次の夜会のことを思い描いていた。
伸子は、虹の輪で同行したときに買った海外のお菓子の袋を見つめていた。
缶や箱に入れていたけれど――そういえば、あれは凛が児童館「めだか」に持っていったと、話していたっけ。
それで、すごい秘密基地ができたとか。
どんなのだろう?
川の中をそっとのぞくと、めだかたちの小さな学校が、今日も静かにお遊戯をしていた。
子どもたちの笑い声と未来への夢は、台所でのあたたかな記憶と、そっと重なっていた。
こうして物語は、凛の秘密基地の話へとつながっていく。
第21話 おしまい 第22話へ つづく
資料メモ
『蝦夷トリカブト殺人事件』
1986年に起きた事件。医師が妻に毒草トリカブトを使って殺したとされる事件。
一審は無罪でしたが、二審で逆転有罪となり、最高裁で確定しました。
この一つの事件を、毎日のように、テレビや新聞が何年も大きく報道しました。
その結果、当時は誰もが「トリカブト=毒」というイメージを持つほど有名になった事件です。




