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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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ただいま編 第20話 スマホの夜会 第2夜 

スマホの夜会も、第二夜目です。

よっかたら、のぞいてください。

台所シリーズ 第1部 「台所でせかいをかえる」ただいま編

第20話 スマホの夜会(第二夜)



「もっと、お父さんの話を聞かせて、じゅういさん。」


スマホの夜会は、静かに続いていた。


父が“第三コーナー”を切ったのは、昭和から平成に移り変わるころ。

あれは、札幌大通りのイルミネーションを楽しめなかった友達が、帯広から帰ってきた年だった。


小渕官房長官が「平成」と掲げ、その後総理となり、2千円札を発行したあの頃。


「50代のころはね、もっとあっちこっちに行ってたよ。アメリカ、中国、ロシア、ヨーロッパ……。

で、60代近くで雇われ社長になって、会社まで立ち上げちゃったみたいなの。

いつの間に……って感じでね。」


第三コーナーを切った父は、全力で駆け抜けるランナーのようだった。

ポケットにはニトロ。

心臓発作がいつ来てもおかしくない体で、それでも走り続けた。


そして、あの日――

突然に、いや、ある意味では必然として、終わりが来た。


……ふと思い出す。


緊急手術のあと、一命を取り留めた父が最初に見たテレビ映像が、9.11の衝撃的な映像だったことを。


手術の成功を知らせる電話を受けたとき、私は北海道の自宅で、

飛行機が高層ビルに衝突して崩れ落ちる光景を見ていた。


まるで、生存者名簿に父の名前を見つけたかのような感覚だった。

胸が締めつけられ、あの夜の光景は今も鮮明に焼きついている。


空港から霞が関の病院へ駆けつけたが、父と交わした言葉はほんのわずかだった。

私は手術のことを尋ねたが、父は小さくうなずき、遠いところを見るような目で言った。


「まだ夢の中にいるようだ。

旅客機がマンハッタンのツインタワーに突っ込むなんて……。」


それは、9.11の衝撃的なテレビ映像のことだった。

天井をしばらく見つめたあと、父はゆっくりと私のほうに視線を戻して言った。


「腕時計を……みつくろってきてくれないか。

日付のわかる、デジタルのやつを……。」


現実の日付を、確かめたかったのだと思う。


枕元には、まだ封を切っていない真新しい携帯電話の箱が置かれていた。

父はそれに触れようとはしなかった。あとから思えば、あれは当時テレビで話題になっていた最新機種だった。


私は頼まれるまま時計を買いに行き、「これでいい?」と差し出すしかなかった。

その後、担当医と三人で短く話し、私は北海道へ戻ることにした。


霧が関の駅の周辺に漂っていた空気は、明らかに私には異質だった。

ざわめきはなく、行き交う人々はスーツに革靴だけを身につけ、まるで時間が少しだけ止まったかのような世界。

あのとき自分の心が揺れていたせいでそう感じたのか、それともこの街そのものが持つ色なのか――

もし今歩いたとしても、きっと微かにあの静けさは残っているだろう。

スーツと革靴だけの街。その空気を胸に、私は静かに歩みを進めた。




「9.11の映像、私も今でも忘れられないわ。」


スマホのスピーカー越しに、伸子が階段をのぼる足音がかすかに聞こえた。

階段を一歩一歩のぼり、声の響きが微かに変わる。

響香は画面の向こうの存在をよりリアルに感じる。


「まるで、半年かけて砂場に積み上げたビルや道路や駅……

おもちゃの飛行機で、一瞬にして崩れていくのよ。

砂煙が舞い上がって、手のひらに触れた感触も、目の前の景色も、みんな消えてしまうみたいで……」


伸子はしばらく黙り、スマホ越しに聞こえる小さな息づかいと階段のきしみを響香に届けるように間を置いた。


「誰もが、あの映像に、自分の大切な日々の積み重ねが一瞬で崩れ落ちる恐怖を重ねたと思う。」


「飛行機のおもちゃを持っていたけんちゃんも、あの時、最初に声をかけていれば……

みんなで予定どおり、水路に水を引いていたかもしれない。」


いつもの明るい声ではなかった。


伸子の心に、淡く冷たい後悔がそっとしのびこんでいた。

画面の向こうの伸子と、目の前の響香の心が、少しだけ重なり、でも決して完全には交わらない。

遠い日の砂場の光景と、戻せない時間の重なりが、二人のスマホの間に静かに広がる。


響香には、伸子の話が実際の話なのか、比喩なのか、

子どもの砂場遊びの記憶なのか、どこかの旅のオマージュなのか、分からなかった。



砂の城はあの時、崩れ落ちた。

でも、もしほんの少し違う声をかけていたら――

おもちゃの飛行機を置き、手を伸ばして水路に水を引いていたら――

私たちは、別の景色を見ることもできたかもしれない。


響香は、画面の向こうの伸子の姿を思い浮かべながら、

その可能性の残像に、そっと胸をふるわせた。





話は自然と「横浜の水」に移った。


「響香さんのお父さん、心臓が悪かったのよね。

でも横浜市青葉区に住んでいたのね。それって、本当に運が良かったと思う。水が良い場所だから。」


「伸子さん、やっぱり水のことに詳しいのね。旅って、水道施設の海外研修みたいなものだったの?」


「まあ、そんなところかしら。

でも、横浜の水が良いのは有名なことよ。」


「へぇ、そうなんだ。うちの実家、青葉区って全国でも長寿第2位らしい。

満員電車に揺られるあの街が?って少し驚いたけど……水が関係してるのかな。」

「青葉区なら、水源は、多分、道志川じゃないかしら。」

「道志川?相模川じゃなくって?」

「水源林があるのよ。」

「すいげんりん?」

「水の源になる林。横浜市は大正時代に自前で林を購入したのよ。」

伸子いわく、水源林こそが健康の源ともいいたげだった。

「毎日、一リットル、ノルマで先生に与えられていったけ。」


「水は命の源よ。」

「横浜の水なら、質もばっちりね。」

「その水源林のおかげね。」

響香は、実家の父や母、叔父、叔母の顔を思い浮かべた。

父は心臓の大手術後も何度も北海道を訪れ、余生を穏やかに過ごした。

叔父や叔母も70を超えてテニスや野球、町内運動会に参加し、皆元気だった。


「横浜のお水って、そんなに良かったんだ。高校生まで普通に飲んでたけど。」


「日本の“横浜システム”は、世界トップクラスの水道インフラよ。

このシステムが成功したから、今の日本の水道はここまで整ったの。

虹の輪のメンバーも、みんなそれを認めていたわ。」


「しっかり浄水されているから安心して飲めるの。

口当たりもやわらかくて飲みやすいから、自然といっぱい水を飲むようになるしね。

水分バランスと血圧安定もきっと関係してるわよ。」


響香はところどころ、首をかしげながらも、

伸子が横浜の水を日本の誇りとして語るのを、どこか誇らしく感じた。


伸子はかつて「日本を知る旅に出たい」と話していた。

初めての一人旅に名古屋を選んだ彼女は、次はどこへ行くのか考えながら冬を過ごしていた。

響香は京都あたりに同行したいと願っていた。


でも、伸子が参加した「虹の輪」の研修旅行の行き先は、

言葉も通じず、どこにあるかも分からない国だった。


その姿に、若い頃の父を重ねた。

どこで何をしていたのか、分からない人だった。


「何飲んでるの?私は“ほろよい みかんサワー”。」

「私はグレープサワー。アルコールゼロだけどね。」

「あ、明日仕事だもんね。ごめんね、お酒じゃなくて。でも、聞いてくれてありがとう。やっと、三回忌ができた気がする。」

「また飲みましょうね。」

「この前もらったお土産、クリスマスの日に開けようと思ってるの。」

「そう。」


ふたりは同時にスマホをタップした。

響香は、伸子からもらったお土産の箱を見つめた。


「虹の輪のチームのことだけどね。響香さんも、きっとその一員よ。」


響香は驚いた顔で「えっ?」と返す。

それは、夢かもしれないと思った。


伸子は笑いながら言った。

「お土産の箱を見れば、わかるわ。」


昨日、伸子からもらった箱をじっと見た。

 >

 > ――二人で、開けられたらいいな。


響香の手元にあるお土産の箱を、画面越しの伸子も同じように見つめている気がした。

声も息づかいも、階段のきしみも、すべてが小さな振動となって、二人の心にそっと届く。

遠く離れていても、時間と距離を越えて、過去と今の記憶がひとつに重なる。

砂の城の崩れた音も、父の全力で駆け抜けた日々も、今ここで静かに胸に落ち着く。

二人はまだ手を伸ばせないけれど、心の中でそっと手をつなぎ、箱を開ける未来を想像した。

スマホの光が、二人の心にそっと触れ、未来を優しく照らしていた――。

お付きあいくださり、ありがとうございました。

また、お会いするのを願っております。

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