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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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ただいま編 第15話 アイスの最後の一口

台所シリーズ 第1部 「台所でせかいをかえる」ただいま編

第15話 アイスの最後の一口


1

10月6日の夜。

伸子は、部屋に残る中東のスパイスの香りを深呼吸した。


夫の食べなかったアイスを口に運びながら、ギューッと詰まった一日をふりかえった。


おもわず、響香へLINEを送った。

返信は、きっと明日になるだろう――そう思っていた。


けれども、すぐに既読がついた。

そして、響香から「いのしし」のスタンプが10個届いた。



なんだか、今日のドジャース、大谷翔平のスイングみたいだな、とおもった。


野球は今まで観戦したことがなかった。

凛と静かに過ごしたかった。

けれど、夫は部屋に入るなり、無言でテレビのスイッチを入れた。

――あいかわらず、無粋な人。

伸子は、ため息をついてその背中を見つめた。


だけど、ドジャースとパドレスの試合は、意外なほど熱くて……

いつの間にか、自分も画面に引きこまれていた。


きっと、凛は、この夫、つまりおじいちゃんと何度も野球をみているらしい。


凛は、「ママが買い物に行くと大谷翔平がうつんだよね。いつも。」なんていってた。きっと、家を離れている間、こうして凛と留守番してたんだなとおもった。凛は、この町に球場ができたおかげで、いつの間にか野球のルールが少しずつわかるようになっていた。


大谷翔平選手がカキンカキン とバットふったあとの一瞬のボールの軌道を見逃さないようにしたい。



響香のラインには、猪のスタンプが10個並んでいた。


「昭和10年、いのしし年で、十猪じゅういなの。」


昨日の父“十猪”の話をしていたときの、響香のなつかしそうな表情が浮かぶ。


そして、今度は、パンダのスタンプ2個


「UENO JUIで、昨日の伸子さんの『上野動物園の獣医さん?』にはわらったわ。なんだか、父と上野動物園で、パンダ見に行ったことまで、おもいだしちゃった。」


「かんかん らんらん」


今度は、長い人を表すかのようにひとひとひとひとのスタンプ。


きのうのあの夢のような時間がふたりの中に再現される。

あのメモリーのづづきのように、とりとめないLINEがつづく。


「凛ちゃん、元気だった?」と響香にきかれて、伸子は


その日の一日を話した。




「ターメリックの香りが満ちた部屋で、大谷選手とダルビッシュの戦いを観たよ。」


試合が終わると、凛は自転車の練習を見てほしいと言った。

「探検は、あっちだよ。」と、エスコンフィールドの方を、再びさした。

補助輪を取ったばかりらしい。目標は、この実家からエスコンまで自転車で行き、アイスを買うことだという。


よたよた、危なげな凛の表情が、自信に満ちた瞬間に変わるのを見た。


そのことを響香に伝えたかったが、うまくかけなかった。


響香も、家で同じ試合あを見ていたようだ。

「私、一人でダルビッシュに花を持たせてあげたかったな。」

「そんな花、重たくてダルビッシュくらいしか持てないよ。」


いつのまにか、LINEでの会話はおわり、どちらともなく電話のはなしにきりかわっていた。


だけれども、ふいにでただろう響香のことばがひっかかる。


「願いがかなっても、それを手放さなきゃいけないのが辛いんだ。」

今日の歓喜の話をするときでさえ、響香の言葉が胸にひっかかる。

「いったいそれは、なんのこと?」のセリフをどのタイミングで言おうか考えながら、響香の話を聞いた。


願いが叶ったこと自体は素晴らしいことだとみんなが祝うべきだと思っていたが、響香が抱えるその後の感情が、簡単に整理できないものがあるらしい。


きのう、響香がきになっていたというメモを翻訳アプリで解読した。


それは、中東のレシピだとわかった。


響香のお父さんが中東に出張にいった話をきいた。


「私、勝手に作っちゃってよかったかな?」

「なんで?なんでよ。全然そんなことないよ。

父なんか、余裕でお墓の中で喜んでるって。本当に。


コロナが始まるか始まらないかの頃に、あっけなく骨になっちゃったけど……。

ひ孫に庭の花を供えてもらって、ちゃんとお葬式はできたの。


ただ、その後は非常事態宣言のせいで、四十九日も一回忌も三回忌も、ぜんぶまとめて“フルコース”。

でも、それも父らしいっていうか、なんていうか。


結局コロナの間も、父は母や弟と同じ屋根の下にいたのよ。

亡くなった後も、いつも通り一緒に過ごしてるみたいに、時間を共有していたんだから。」



「響香、無理に笑わなくてもいいんだよ。」伸子は深く息をついて言った。


響香はしばらく黙っていた。その後、少し涙声で言った。

「うん、ありがとう。今日は、大丈夫。ありがとう、伸子さん。」


「それにしてもさ、そのレシピの記憶、私には何もないんだよね。まるっきり。『きょうか』 とは、書いてあるんだけどさ。」


母は、父のこと、響香のことは「目に入れてもいたくないほど可愛い」って、繰り返すんだけど……。

でも、字なんか教えてもらってないし、けっこう怖かったしね。


 「それなりに。子羊がいのししをみるように、父を見ていたわ。」


響香はそうつぶやいた。


「わたしは“これなーに?なんて聞いたことなかったのよ。

子羊がいのししのところに聞きに行かないでしょ?

もう、怖くてしょうがなかったんだから。」


「童話でもできそうね。」


それが伸子の感想だった。


響香は言った。「お酒飲んでいい?」


響香と一緒に飲むのは、長い付き合いだが、今回が初めてだ。


一人の寝室にアルコールとスマホを持って行くことにした。


願いがかなうこと、それが素晴らしいことだと信じていたけれど、響香のようにその後に訪れる「手放す」という難しさに直面したとき、その複雑な感情をどう扱うべきかを深く考えさせられた。


最後のアイスの一口は、すでに溶けていた。


伸子は、溶けかけたアイスの残りを、引き出しの奥にずっと紛れていた、子供用の小さなシルバーのスプーンですくった。


やわらかくて、少し甘くて、あたたかいものの味がした。


最初に買った、加奈のスプーンだ。

加奈、未希、凛――三人の離乳食を、このスプーンで口に運んできた。


「ちょうどいいわ」


慌ただしさの中でも、とまどいや喜びにそっと寄り添ってくれたこのスプーンは、いつもすべての願いを、叶えてくれた気がする――そう伸子は思った。


溶けかけたアイスの甘さが、胸の奥で静かに広がっていく。

それは、これからの小さな日々を照らすたしかな灯のようにも思えた。


― 第15話 おしまい ―

静かに溶けた一口の記憶を、次の章へ。

第16話「 ザ・シークレットアイス 」へ つづく

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