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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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ただいま編 第14話 静けさのアイス

台所シリーズ 第1部 「台所でせかいをかえる」ただいま編

第14話 静けさのアイス


凛と未希が帰ったあと、伸子は静かな部屋でスマホを手にしていた。

「着いたよ」というLINEが届くかもしれないと思いながら。


未希の家までは車で30分ほどなのに、今日はやけに遠く感じられた。

久しぶりに会ったからだろうか。


さっき庭のバラ、〈アンジェラ〉の前で撮った写真を見る。

続けて動画も流れた。


「スキップ見てみて!」

「炊飯器のごはん、炊けてるぞー!」

部屋の中から、窓越しにかけられた声も録音されていた。

「凛、大きくなったなあ……」


伸子の心がじんわりと温かくなった。


凛のスキップ。

凛と自転車。

凛のかわいい探検旅行。


伸子のどたばたで始まった旅の話は、結局今日も家族にも話せなかった。


この日のエスコンまでの道のりも、やけに長く感じた。

車なら歌の二コーラス分。

でも、凛と自転車を押して歩いた時間は、まるで時代を越えてお城へ向かう旅のようだった。


行きはあたたかかった風も、帰りにはひんやりと冷たく感じられた。


――帰宅して、部屋が急に寒く思えたとき。

ストーブをつけようとしたら、夫がぽつり。


「今シーズン、初めてだな。」


カチカチというスイッチ音が響く。

オレンジ色に光る煙突式ファンヒーターを、家族みんなで囲んだのは、案外これが初めてかもしれない。


「私にやらせて。スタート、ここでしょ?」


6歳の凛が、自分でやりたいとせがんだ。


買ってきたアイスを冷凍庫にしまい、みんなでストーブの前へ。

凛の小さな指がボタンに触れ、カチッと音を立てた。

大人三人が、その瞬間を見守る。

たかがストーブのスイッチ。

でも、まるで何かの記念点灯式のようだった。


ここから、冬が始まる。


未希の家は、全室暖房のオールファーヒーティング。

白とベージュで統一された空間に「火の色」はなく、この煙突型のストーブは新鮮だったようだ。

じっと見つめていた凛が、ポツリと言っう。


「めっちゃ、あったかい。」


「ちかづきすぎよ。」


煙突の接合部分から、金属音がかすかに響く。


ストーブの中央が、ゆっくりとオレンジ色に光り出す。

煙突に向かって息を吹き込むように、部屋がじわりと暖かくなっていく。



「ストーブさん、生き物みたいだね。」

凛の言葉に、夫が応える。

「ああ、酸素を吸って、二酸化炭素を吐くから、そうかもな。」



そのとき伸子は、初めて自分から“女の園”に入ってきた、白髪の増えた夫の顔を見た。


「ぞうさんみたいだね。」

凛がぽつりと言って、うなずく。


「お鼻がのびてるでしょ、ストーブさん。大きくて、あったかくて……ストーブぞうさん。」


「ほんと、そうね。」


笑いながら未希が応じると、凛はくるりと話題を変えた。


「この前、めだかでおせんべ焼けたよ。やったよ。」


「あら、懐かしいわね。」


凛の小さな右手が、伸子と未希の手の甲をなぞり、最後に伸子の手で止まった。


「おせんべ焼けたよ〜♬」


懐かしさに浸りながら、「昔のストーブはね……」と伸子が話し始めたところで――


「アイス、食べなきゃ!」


凛がくるりと身を返し、冷蔵庫へ向かった。


栗味の最中アイスは、驚くほどおいしかった。

さっき焼いたおせんべを触った手で食べるから、余計に美味しく感じたのかもしれない。


部屋にほんのり漂うターメリックの香りと、アイスの甘さが、意外と合っていた。


エスコンフィールドの新球場でアイスを食べよう――

そんな話もあったけれど、今日のコンビニアイスで、むしろ正解だったと思った。


さすが、日本のコンビニアイス。

どれもきっと、何度も会議を重ねて選び抜かれた自信作。

そんな“厳選の美学”が、パッケージの隅にまで息づいている気がする。


「新バージョン! おいしそうだよ」と、凛が勧めてくれたすいかのアイスにも惹かれた。

でも結局、私は自分の気分に素直に、別のものを選んだ。


ふと、手に取った瞬間、ある国のショーウィンドウに並んでいた日本のアイスを思い出した。

見慣れたデザイン。けれど、信じられないような値段。


驚いて、写真の一枚でも撮っておきたかったけれど――やめた。

例の“呪文”が、脳裏に浮かんできたから。


「このプロジェクトで知り得た情報は、いかなるものも外部に漏らさぬこと。

個人のスマホ等で写真を撮る場合、しかるべき承諾を得ること。」


思い出すたびに、どこか胸の奥に重さがよみがえる気がした。


リビングに戻ると、明かりをつけずにソファに腰を下ろした。

暗闇が、思いのほかやさしかった。


――そうだ、夫のアイス、まだ冷凍庫に残ってたっけ。


「食べちゃおうかな。」


冷凍庫を開ける。手に取ったとたん、ふっと微笑む。


やっぱり、日本のアイスは世界一だ。


少し早いかもしれないけれど、暖房をつけておいてよかった。

そのぬくもりの中で、響香の言葉がよみがえる。


「北海道に来た当時、真冬にTシャツでアイスを食べてるの、びっくりした〜。」


そうだ。きのうのあの笑顔。あの声。


秋の夜。ほんのりあたたかい部屋で食べるアイスは、ちょっとした極楽。


時計を見れば、夜の8時を回っていたけれど――思い切って、LINEを開いた。


凛と一緒に作ったカタール料理の試作品。

その写真を添えて、響香にメッセージを送る。


「響香さん、昨日は本当に楽しかった。

それから、お父様のレシピ、さっそく試してみました。とってもグッドだった!

本当にね、響香さんのお父様、ダンディで素敵。

異国のレシピに、あなたの名前を添えたら、まるでアラビアンナイトみたいですね。」


驚くほど早く、返信が届いた。


「とんでもない。

うちの父は、イノシシよ。

ダンディなんて微塵もない、本当に、イノシシみたいな人だったの。」


スマホの画面が、台所の蛍光灯に照らされる。


そこに並んでいたのは――


10頭のイノシシのスタンプだった。

「あら、かわいい」

静けさに包まれた夜に。小さな笑み。


第14話 おしまい

第15話へ つづく

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