ただいま編 第12話 ② 旅のイントロ きらら街道
おととし、伸子の長旅は、ある日ふいに始まりました。
ようやく帰ってきて、響香との再会も果たします。
響香にまだ話せていない旅の記憶――
その始まりは、大げさな決意や計画ではなく、
あの時、コンサートで聴いた曲のせいかもしれない。
「四間道」、そして「キラー・ストリート」……
胸の奥に、静かに火をともした音楽たち。
第12話②では、名古屋・横浜・東京、そして北海道へと、
過去と現在の時間をつなぐ「道」をたどります。
しまいこんでいた“箱”を、もう一度そっと開けるような時間。
きらら街道を走る伸子と一緒に、
ほんの少し、あなたもその助手席に座ってみませんか。
台所シリーズ 第1部 「台所でせかいをかえる」ただいま編
第12話 ② 旅のイントロ きらら街道
1 3年前と今をつなぐ道
牧場東のバス停を少し過ぎた。
とうとう響香に、旅の話はしなかった。
――あの旅をすべて語ったら、きっと100万年かかってしまうから。
“長旅”の序章。
2022年11月21日。
朝の光がまだ柔らかく、少し肌寒い空気が頬を撫でる。
65歳にして、初めての一人旅に出る日だった。
長女が手配してくれた飛行機のチケット。
「お母さん、好きなことをしなよ」――そのひとことが、背中を押す風のように心に届く。
定年が近づき、娘たちも巣立った。
これからは、自分の人生を、好きなように描く番だ。
千歳空港の駐車場で、働く長女・加奈が笑顔で言った。
「いってらっしゃい。」
その声が、胸の奥で反響する。
不安も少しあるけれど、胸の奥に小さな火が灯ったようだった。
搭乗前、ロビーの椅子に座り、手にしたチケットを握りしめる。
「イヤホン、持ってくればよかったな」
何度も頭の中でシミュレーションしていた出発の瞬間を思い返す。
緊張と期待が混ざり、胸が少し高鳴る。
名古屋城の「金鯱の間」に足を踏み入れた瞬間、天井いっぱいに描かれた絵に息をのむ。
未知の世界が、静かに、しかし確実に、伸子の心を揺さぶる。
その美しさに、これまでの不安は一瞬で消え去った。
イヤホンを持ってこなかったことを悔やんだのは、ほんの一瞬だけ。
名古屋の街に降り立つと、街のざわめきさえ、新鮮に響いた。
名古屋城をあとにして歩く四間道。
白壁と木造の家並み――江戸から続く町並みが、やさしく迎えてくれる。
ふと立ち寄ったガラス工芸店で、光を受けてきらめく小さなトナカイに目が止まる。
「これ、響香にぴったりかも」
そっと手に取り、そっと心にしまった。
2 20年前と今をつなぐ道
プラタナスの街路樹の道を過ぎると、あの道の記憶がふと胸をよぎる。
娘たちと行ったサザンのコンサート。
響香も誘った、あの特別な夜から、もう20年が経っていた。
会場の皆が立ち上がり、すべてが音楽とひとつになったあの瞬間。
最初は戸惑っていた響香の目も、あの夜は輝いていた。
予習用に録音テープを渡したのに、戻ってきた響香は照れくさそうに言った。
「CD、買っちゃった」――アルバム『Killer Street』。
もし旅をアルバムに例えるなら、一曲目は名古屋。
二曲目は横浜。
一昨年も、東京の街並みを見たいと、「虹の輪」の仲間に言い訳しながら、伸子は誰よりも早く、一人で出発した日があった。
表参道で下車し、南青山の坂道を歩く。
外苑西通り――「キラー通り」。
桑田さんのアルバム名の由来となった道を、足元で踏みしめるように歩いた。
キラー通りにある標識「418号」を見た瞬間、胸をよぎったのは――
お気に入りの道、「きらら街道」に立つ北海道道46号の標識だった。
その「きらら街道」を車で走りながら、あのキラー通りの光景を思い出す。
東京の「キラー通り」と、北海道の「きらら街道」。
響きが似ていて、数字の並びまでそっくり――418と46。
東京と北海道にある道が、カーステから流れるメロディーに乗って――。気づけば、心地よい哀愁を帯びた一本の道になっていた。
――この、おしゃれな発見の話だけは、響香には話せばよかった。
「名古屋のコンサートの話、次は聞かせてね」
空の助手席から、響香の声が聞こえた気がして――胸にこだました。
3 現在:きらら街道を走る伸子
伸子の目の前に、まだ見慣れないエスコンフィールドの建物が現れる。
そんなときも、カーステレオから流れる曲に耳を傾け、明日に少しずつ近づいていく。
三年前、名古屋で迎えた桑田佳祐・ソロ活動35周年記念コンサート。
あのとき、桑田さんの言葉――「お互い元気で、頑張りましょう」――は、まるで自分に向けられたもののように心に響いた。
自宅に戻ると、しばらくエンジンをつけたまま、カーステレオから流れる桑田さんの歌声に耳を傾けた。
名古屋の会場をあとにした夜のことも思い出す。
体が軽くなり、世界が違って見えた、あの感覚――。
ホテルのベッドで、小箱を手に取りながら響香を思ったことも、今、胸の奥で静かに余韻を残している。
あの箱を一緒に開けたかったけれど、冬が来る前に託してよかった――今はそう思える。
『100万年の幸せ!!』――名古屋のコンサート最後の曲。
カーステレオから繰り返し流れるその歌声に、伸子の心は“スタートの曲”を迎えたようだった。
100万年の物語が、いま静かに始まる。
胸の鼓動が聞こえてくる。
明日は――凛と会う、約2年ぶりの再会だ。
音楽と記憶が重なり合うことで、
過去と現在の距離は不思議と近くなる――。
帰宅した伸子の自宅には、ゆっくりと成長したばら、アンジェラが咲いています。
明日は、凛との再会。
日常のなかで迎える、どんな景色を見せてくれるのか――。
よければ、もう少し伸子の横に座っていてくださいね。
きょうは、いいドライブ、ありがとう。
見知らぬあなたがいるから、生まれたドライブです。