ただいま編 第9話③ メモリー 五年のトンネルを越えて はじまらない旅の話と気になる文字
コロナ禍から五年。
そして、二年という時を越えて――
響香と伸子は、ふたたび一緒に、一つの扉を開けます。
季節は秋。待ち合わせの場所は、おととしと同じ本屋さん。
再会の庭には、静かな風と、色とりどりの食卓が広がっていました。
心の奥に眠っていた記憶と、「今ここ」にあるぬくもりが交差する午後。
“台所シリーズ” 第1部「台所でせかいをかえる」(ただいま編) 第9話③――
一年半ぶりに連絡を取り合った、この小さな再会が、物語の流れをそっと変えていきます。
台所シリーズ 第1部「台所でせかいをかえる」ただいま編
第9話③ メモリー 五年のトンネルを越えて はじまらない旅の話と気になる文字
再会のよろこびと、庭の美しさ。
店内の席についても、心は静かに、躍っていた。
「私、伸子さんとここで食べたかったんだ」
響香がそう言うと、伸子は笑って返した。
「響香さん、これで三度目だよね。前の二回は、B型の人だったでしょ?」
「『いいよ、ゆっくり庭でも見てって』って言って、座って待ってる人と来たんだよね」
――2年前の私のボヤキ、よく覚えてるんだ。
(そう、二度ともB型の人と来たって、ぼやいたっけ)
(A型の私は、誘うのも断るのも苦手なのに、B型の人たちはあっさりしていて――)
(「どこでもいいから」「ゆっくり庭でも見てて」なんて言われて、どうしてこっちが謝る展開になるのかしら、って思ったっけ)
……でも今は、そんな事を思い出す時間さえもったいない。
ただ、伸子とこの庭を楽しみたい。
響香はしばらく静かに、食事を続けた。
正方形のお弁当箱には、秋の食材が競うように彩られている。
蒸したかぼちゃ、にんじんの和え物、揚げなす、紅色の大根の酢漬け。
幹事会とはいっても、二人きり。
知り合ったころの花人クラブの集まりを口実にして会っているけれど、ほんとうは口実なんていらないふたりだった。
「この前、変なメモ送っちゃったでしょ。あれ、私、印刷したの」
響香はカバンからファイルを取り出しながら、早口で続けた。
「旅行の話聞いて、それから幹事会の仕事して、それで時間が余ったら見てくれる?」
普段はのんびり話す響香が、今日は早口で言葉を重ねる。
伸子は、その様子を微笑ましく見守った。
話したいことが山ほどあるとき、絶対に話したいことを“前ふり”にするのは、お互い様。
今日は、響香の話だけを聞けばいい――伸子はそう思った。
――と、そのセリフが終わるか終わらないうちに、次の料理が運ばれてくる。
ふたりは思わず声をそろえて、
「わあ、美味しそう!」
伸子は目の前の料理に目を輝かせた。
「めっちゃ私の好み!ありがとう!」
そう言いながら、箸袋の絵まで写るようにして、スマホで写メを撮る。
窓に映る庭の美しさに心を奪われながら、伸子はふと遠くの空を見上げた。
胸の奥にには、かすかな寂しさが広がる。
響香とやっと会えた喜びと、これまでの出来事が静かに交差していた。
伸子がスマホを開くと、以前受け取ったあの謎のメモの画面が目にとまった。
「私も、実は気になってたの」
伸子は、そっと言った。
「あれ、アラビア文字でしょ」
響香は、少し気まずそうに笑った。
場違いなものを持ってきてしまったのではないか――そんな不安が、表情ににじむ。
「これなの。」
『伸子と響香の幹事』と手書きされたスヌーピーのクリアファイルの中から、コピーした紙を取り出して、左端にそっと置いた。
弟の昔の携帯に保存されてたらしい。
《きようか》《KYOKA》、アラビア文字が何列にも並び、筆記体で《ueno jui》、その下に《1972 11/7》。
ひらがなとアルファベットは、たどたどしい子どもの文字だ。
見れば見るほど、気になるメモ――。
話したいことは、山ほどあるのに、どこからほどいていけばいいのか分からない。
話題は、いつものように、一本の糸ではなく、いくつもの糸をた紡ぐように広がっていく。
そういえば、コユキの長女が結婚する時、
あのコユキが涙を流して、その相手に膝を屈したという話をしてくれたっけ。
あれは、たしか――時が二年ほど過ぎた頃のことだった。
私たちの会話は、いつもそう。
時間と時が交差し、本題からは自然とそれていく。
それでも、そこにしかない、何かがある気がする。
「今、翻訳してみる?」
――旅の話は、まだ、はじまらない。
【後書き】
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
「話したいことは山ほどあるのに、どこからほどけばいいのか分からない」
そんなふたりの時間が、まるで糸を紡ぐように静かに重なっていきます。
今回登場した“謎のメモ”が、ふたりをどんな世界へと誘うのか――
次回以降、少しずつ明かされていく予定です。
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それでは、また次のお話でお会い出来たらうれしいです。