ただいま編 第9話 ② 間奏詩 メモリー~五年のトンネルを越えて 「トンネルの先」
このお話は台所シリーズの第一部「台所でせかいをかえる」第9話
「メモリー~五年のトンネルを越えて」の中の間奏詩です。
コロナ禍をすぎ、北国の〈メモリー〉という名の美しい庭に、
響香と伸子がおとずれたときに生まれた詩です。
過去の記憶といま目の前の景色が重なった瞬間を描いた、短い詩のようなお話。
トンネルを抜けるときの光と闇の感覚が、
どなたかの心の記憶とも重なれば嬉しいです。
台所シリーズ 第1部「台所でせかいをかえる」ただいま編
第9話②メモリー~五年のトンネルを越えて 「トンネルの先」
「トンネルの先」
──トンネルを抜けた先に広がる景色といえば、私はいまも、日豊本線を思い出す。
あれは、中学一年生の夏休みのことだった。
弟と二人きりで、博多から鹿児島へ向かう列車のなか。
引っ越して間もない太宰府の駅までの道のりを、ようやく覚えはじめたころだった。
列車は西へ、南へ、父の故郷へと揺れていく。
おばあちゃんの待つ、鹿児島の知覧までの旅。
長いトンネルをくぐるたび、次に見える景色を想像した。
山々の風景も、きっとはじめてだったはずなのに──
記憶に残っているのは景色の続きではなく、
トンネルの先の光がすぐに闇に吸い込まれていく、その繰り返しだった。
ひんやりとした空気の匂い、列車の揺れ、トンネルの壁に反響する音──すべてが光と闇の間に溶けていく。
ようやく着いた駅の風景。
「おおきゅうなっちょったね」
小さなおばあちゃんが笑った。
眼鏡の奥に揺れる、やさしい目。
あの目だけは、今も胸に残っている。
今、ふと見つめたこの景色も、
いつか、あのときのように思い返す気がした。
日豊本線の緑と、この北の秋の緑。
なんの関わりもない――それさえも、愛おしかった。
そんな言葉にすることさえ、もったいなく思えて
黙って体中のまなざしで見つめた。
体ごと緑に溶けていくようだった。
北国の、この秋に揺れる緑。
大きなキボウシの葉に、色づいた小さな葉がひらりと舞い落ちる。
薄ピンクの薔薇のスパイシーな香りが、そっと鼻先をかすめ、
空の鳥たちのささやきさえも、遠い記憶の光へと溶けていく。
風に揺れる葉の一枚一枚が、トンネルの先の光を思い出させる。
五年という時のトンネルを抜け、記憶は今ここにある緑と溶け合っていく。
──あの光も闇も、今、ここに息づいている。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
「五年」という時間をどう受けとるかは、みなさんの想像におまかせします。
もしご自身の記憶や景色と、ほんの少しでも響き合うものがあったなら、
それほど嬉しいことはありません。