知覧編 第15話 しっぽの上のラウンジでの夜会
台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧
第15話 夜会
足早に「しっぽ」へ向かう。羽田を大きな生き物とするなら、55番搭乗口はそのしっぽの先端だ。
しっぽまで距離がなかなかのものだ。まるで大きな生き物の血球になったように動く歩道で進む。尻尾の付け根のエスカレターをみあげる。
あの上には、離着陸する飛行機を見渡せるラウンジがある。
そう、あの椅子にすわって夜会のページを開きたいのだ。
夜会——伸子との時間。
夜会を始めてから、春がもう待ち遠しくなくなっていた。
むしろ来なくてもいい、とさえ思った。
あんな飲み会を始めてしまったのだから。
4日前の会話まで、また反芻する。
夜の時間をスマホのスピーカーにゆだねる。
缶チューハイを開ける小さな音。
昨年言いそびれたことを、泡のようにひとつひとつ、すくい上げる。
春が来れば、また私たちは忙しく、庭を右往左往して夜にはバタンキュー。
だから、話すなら今。
レシピの上に、小さく書かれた「Kinoya」の文字。
「これ、読める?」
そんな他愛のない問いからまた、夜が静かに動き出す。
ドバイの日本料理を見ていたら、どこかで見た文字に引っかかった。
検索すると、現れたのはドバイ育ちの創業者ネハ・ミシュラ。
日本の名前ではないが、ラーメンを愛して店を開いたという。
画面に映るラーメンに、ふたりの視線が吸い寄せられる。
湯気の香りが、スマホ越しに鼻の奥まで届くようだ。
「居酒屋の料理も、本格的」
「だしは、きっと鰹節」
予想は、なぜか確信に変わっていく。
ふと「Kinoya」の響きに、自分の名のかけら「Kyoka」を感じた。
スマホをスピーカーに戻し、もうひと口。
「そろそろ寝ようか」
「うん」
「おやすみ」
「きのや、きょうか……」と口ずさみ、笑ってしまう
ボールペンで「Kinoya」と書き、じっと見つめる。
遠い国の店名なのに、香りのように身近に感じる。
そのとき、LINEの通知。伸子さんから——
「いつか、ふたりで行ってみようよ」
その瞬間、
いま画面の向こうから漂うのは、やわらかく深い、包み込むような香り。
「……なんだか、いい匂い」
「ほっこりするね」
と伸子さんの声。
今はまだ、この夜の続きがほしい。
春はこなくてもいい——そう思って、首を振る。
空港のアナウンスが流れる。
まるで休み時間のおままごとから授業に戻るように、列に並ぶ。
並んでいる人の微かなの匂いが、少しずつ混じり合って漂ってくる。
みんながスマホをかざして、すました顔でゲートを通っていく。
今日は哲郎はいない。
私の順番が来て、同じように通れたことにほっとする。
……そんなふうに思うの、私だけ?
おとなのふりして、おとなはいく。
ゲートをくぐる瞬間、さっきの夜会の声が、まだ耳の奥で響いていた。




