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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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知覧編 第14話 羽田のしっぽ

台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧

第14話 羽田のしっぽ


響香を乗せた機体は、白い雲の中を進む。

ときおり、切れた雲の隙間から、小さな町の屋根がのぞく。


前方のモニターには、日本地図が淡く光り、鹿児島からの現在地を示していた。



機内の空気は澄んでいるように感じた。

それはきっと、幼い頃に父と初めて飛行機に乗ったときの記憶が、ふとよみがえったからだ。


あの頃は、禁煙席に座っていても、タバコの匂いがしたものだった。



「間もなく着陸態勢に入ります」


アナウンスに合わせて、32Bのビジネスマンが手元の本をそっと閉じる。

カバンへしまう動作の中で、見えるカバーの帯をチラリとまた見た。

その下から顔をのぞかせていたのは、胸の前で拳をかかげた稲盛和夫氏の写真だった。



──父の蔵書の前で、私はかつて問いかけた。


「この中で、私たちに託すとしたら、どの本?」


そのとき父が差し出したのは、二冊の本だった。

一冊は、稲盛氏の『燃える闘魂』。

もう一冊は、『囲碁定石の覚え方』。

経営のバイブルと囲碁の本。

パート主婦に囲碁という趣味のない私たち夫婦に何故?とおもったが、

理由は聞けなかった。



いまもその二冊は、私の寝室の棚に並んでいる。

読みきれなかった言葉が、まだ香りのように眠っている気がして、帯を外せずにいる。


──戻ったら、もう一度読んでみよう。



機体が傾き、隣のビジネスマンの視線がふと私の前をかすめた。

窓の向こうには、白い峰が広がっている。


──富士山だ。


その頂に、何かが漂っているように見えた。


鹿児島、千歳の直行便はない。

羽田、千歳行きはエア・ドゥにした。

JALで第1ターミナルに到着し、連絡バスで第2ターミナルへ向かう。



知っていたはずなのに、あらためて感じる。

──第1と第2の距離は、思いのほか遠い。


案内は少ない。見落としたのか。

だれひとり、行き先を迷っている人はいないのに。


スマホで調べても、よくわからないまま、バスの座席にいごこち悪く腰を下ろす。


「大丈夫かな……」


この移動は、きっと多くの人がしているはずなのに。

なにか、決まった“定石”があるのだろうか。



第2ターミナルに着くと、なぜか少し落ち着いた。

高い天井の通路に漂うのは、お土産屋からの甘い香り。

焼きたてのバタークッキー、しっとりとしたバームクーヘン——

その匂いが、空気の層をふんわりと包んでいた。



私は足早に「しっぽ」へ向かう。

勝手に、ひとりで名付けた場所。「羽田のしっぽ」

羽田を大きな生き物とするなら、55番搭乗口はそのしっぽの先端だ。


大きな個体のちいさな血球となって動く歩道で移動する。

尻尾の付け根までたどり着き、エスカレーターを見上げる。


その上には、離着陸する飛行機を見渡せるラウンジがある。

曇りガラスの自動扉がスーッと開いたときの、奥から漂ってきたコーヒーの香りを、思い出した。



ポケットからスマホを取り出して、出発時刻を確認する。あと45分。


──ここで、ふと立ち止まる。


あのラウンジへ行くか、ゲートに直行するか——

たった一手の違いが、旅の“流れ”を変える。

囲碁の布石のように。



私は、エスカレーターにのり、ゆっくりとラウンジの方へ向かった。

たった一手の選択が、全体の流れを決めることもある。

そんな言葉が、父の囲碁の本の一節にあった。


一局の碁の要は中盤にある──…


一局の碁の要は中盤にある。だが自己流に陥ると、正しい力を高めるのは難しい。

定石を学び、忘れ、また思い出す──その繰り返しの中で、石の働きの真髄が見えてくる。

(『囲碁定石の覚え方』林海峰)


「響香、足元をみなさい」

無口な父が、エスカレーターの上から、声をかけてくる気がした。


(第14話 おしまい)

◇あとがき


「曇りガラスの自動扉が、すべるように開く。

向こうに並ぶ受付の女性たちの微笑みと、控えめな照明。

特別感が、静かに満ちていた。


着ている服は何も変わらないのに、不思議と足音が変わる。

ざわめきが遠のき、心まで少し、落ち着いてくる。


羽田空港のラウンジは、その瞬間から別世界になる。



ゆったりとした席を探しながら、窓の外に目をやる。

離陸していく飛行機が、ひとつ、またひとつ、視界に飛び込んでくる。


機体がぐんぐん小さくなって、空へと舞い上がるたびに、

その先にいる誰かへ、少しだけ近づける気がしてくる。」


台所シリーズ「台所でせかいをかえる」 ただいま編 第43話 羽田で より

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