知覧編 第14話 羽田のしっぽ
台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧
第14話 羽田のしっぽ
響香を乗せた機体は、白い雲の中を進む。
ときおり、切れた雲の隙間から、小さな町の屋根がのぞく。
前方のモニターには、日本地図が淡く光り、鹿児島からの現在地を示していた。
◇
機内の空気は澄んでいるように感じた。
それはきっと、幼い頃に父と初めて飛行機に乗ったときの記憶が、ふとよみがえったからだ。
あの頃は、禁煙席に座っていても、タバコの匂いがしたものだった。
◇
「間もなく着陸態勢に入ります」
アナウンスに合わせて、32Bのビジネスマンが手元の本をそっと閉じる。
カバンへしまう動作の中で、見えるカバーの帯をチラリとまた見た。
その下から顔をのぞかせていたのは、胸の前で拳をかかげた稲盛和夫氏の写真だった。
◇
──父の蔵書の前で、私はかつて問いかけた。
「この中で、私たちに託すとしたら、どの本?」
そのとき父が差し出したのは、二冊の本だった。
一冊は、稲盛氏の『燃える闘魂』。
もう一冊は、『囲碁定石の覚え方』。
経営のバイブルと囲碁の本。
パート主婦に囲碁という趣味のない私たち夫婦に何故?とおもったが、
理由は聞けなかった。
◇
いまもその二冊は、私の寝室の棚に並んでいる。
読みきれなかった言葉が、まだ香りのように眠っている気がして、帯を外せずにいる。
──戻ったら、もう一度読んでみよう。
◇
機体が傾き、隣のビジネスマンの視線がふと私の前をかすめた。
窓の向こうには、白い峰が広がっている。
──富士山だ。
その頂に、何かが漂っているように見えた。
◇
鹿児島、千歳の直行便はない。
羽田、千歳行きはエア・ドゥにした。
JALで第1ターミナルに到着し、連絡バスで第2ターミナルへ向かう。
◇
知っていたはずなのに、あらためて感じる。
──第1と第2の距離は、思いのほか遠い。
案内は少ない。見落としたのか。
だれひとり、行き先を迷っている人はいないのに。
スマホで調べても、よくわからないまま、バスの座席にいごこち悪く腰を下ろす。
「大丈夫かな……」
この移動は、きっと多くの人がしているはずなのに。
なにか、決まった“定石”があるのだろうか。
◇
第2ターミナルに着くと、なぜか少し落ち着いた。
高い天井の通路に漂うのは、お土産屋からの甘い香り。
焼きたてのバタークッキー、しっとりとしたバームクーヘン——
その匂いが、空気の層をふんわりと包んでいた。
◇
私は足早に「しっぽ」へ向かう。
勝手に、ひとりで名付けた場所。「羽田のしっぽ」
羽田を大きな生き物とするなら、55番搭乗口はそのしっぽの先端だ。
大きな個体のちいさな血球となって動く歩道で移動する。
尻尾の付け根までたどり着き、エスカレーターを見上げる。
その上には、離着陸する飛行機を見渡せるラウンジがある。
曇りガラスの自動扉がスーッと開いたときの、奥から漂ってきたコーヒーの香りを、思い出した。
◇
ポケットからスマホを取り出して、出発時刻を確認する。あと45分。
──ここで、ふと立ち止まる。
あのラウンジへ行くか、ゲートに直行するか——
たった一手の違いが、旅の“流れ”を変える。
囲碁の布石のように。
◇
私は、エスカレーターにのり、ゆっくりとラウンジの方へ向かった。
たった一手の選択が、全体の流れを決めることもある。
そんな言葉が、父の囲碁の本の一節にあった。
一局の碁の要は中盤にある──…
一局の碁の要は中盤にある。だが自己流に陥ると、正しい力を高めるのは難しい。
定石を学び、忘れ、また思い出す──その繰り返しの中で、石の働きの真髄が見えてくる。
(『囲碁定石の覚え方』林海峰)
「響香、足元をみなさい」
無口な父が、エスカレーターの上から、声をかけてくる気がした。
(第14話 おしまい)
◇あとがき
「曇りガラスの自動扉が、すべるように開く。
向こうに並ぶ受付の女性たちの微笑みと、控えめな照明。
特別感が、静かに満ちていた。
◇
着ている服は何も変わらないのに、不思議と足音が変わる。
ざわめきが遠のき、心まで少し、落ち着いてくる。
羽田空港のラウンジは、その瞬間から別世界になる。
◇
ゆったりとした席を探しながら、窓の外に目をやる。
離陸していく飛行機が、ひとつ、またひとつ、視界に飛び込んでくる。
機体がぐんぐん小さくなって、空へと舞い上がるたびに、
その先にいる誰かへ、少しだけ近づける気がしてくる。」
台所シリーズ「台所でせかいをかえる」 ただいま編 第43話 羽田で より




