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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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知覧編 第12話 32A

響香は、わざと聞こえるように小声でつぶやいた。


「モナ・リザが来た年、小学校一年生で、その年の知覧の盆踊りが忘れられない。」


「同じだ。モナ・リザが来た年の盆踊り。」


隣から返ってきた声に、胸が震えた。


まるで映画がスクリーンに映し出されているような――

そんな瞬間だった。



やがて場面は、三人の知覧での小さな同窓会の一瞬へと、

静かに変わっていった。


(知覧編 第10話より)

台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧

◇第12話 32A◇



響香は、わざと聞こえるように小声でつぶやいた。


「モナ・リザが来た年、小学校一年生で、その年の知覧の盆踊りが忘れられない。」


「同じだ。モナ・リザが来た年の盆踊り。」


隣から返ってきた声に、胸が震えた。


まるで映画がスクリーンに映し出されているような――

そんな瞬間だった。



やがて場面は、三人の知覧での小さな同窓会の一瞬へと、

静かに変わっていった。


(知覧編 第10話より)



「いつかまた。」


響香は、早朝の鹿児島空港にいた。


枕崎で偶然出会った、束の間の同窓生に別れを告げて。

同窓生といっても、半世紀前の知覧の盆踊り大会に

一緒に居合わせただけのこと。


けれど、その二人が味のある夫婦でいたことが、

響香の心をそっと揺らしていた。



空港のまわりには、フェニックス(カナリーヤシ)やソテツが並び、

南国の風景が旅情をさそった。


「もう一日、いようか――」


そう迷いながら、飛行機のチケットが取れるかどうかで決めようと思った。


満席のはずの便に、ぽつんと一席だけ空きがあった。


鹿児島空港からの眺めは、最高だった。



ふと見ると、小さな子どもたちが、飛行機の仕組みを学びに来ていた。

その光景に、かつて「ジュニアパイロット」として

ひとり飛行機に乗った自分を思い出す。


あの夏の日の緊張と誇らしさが、胸の奥で

ほんの一瞬だけ静かにゆれた。



まずは羽田行き、JAL640便。

席は、32A。


すでに32Bの席には、40代くらいのビジネスマンが座っていた。

響香が自分の席だと示すと、

彼は読んでいた本をそっと前のポケットにしまい、

通路に立って席を通してくれた。


「ありがとうございます。」


それ以上、言葉はなかった。

彼はまた静かに本を読みはじめた。



その本の開いたページが、一瞬だけ目に入った。

響香の家にもある一冊だった。


――あっ。


心の中で声があふれた。


「それは、稲盛和夫さんの本ですよね。

父は愛読していました。

鹿児島の人ですよね。JALを立て直した人……」


その言葉たちは、口からは出なかった。



響香は、窓の外に広がる早朝の景色に向かって、

そっと語りかけた。


隣のページをめくる音に耳をすませたが、

飛行機のアナウンスにかき消された。


そして、飛行機が滑走路を走り出す。

響香の“時間旅行”が、静かに始まった。



1903年、ライト兄弟が初めて飛行機を作った。

その瞬間から、空の夢は人の現実になっていく。


1960年、鹿児島―羽田間が開通。

飛行機は、ますます身近な存在になった。


1973年から74年、父と一緒に飛行機に乗って知覧へ向かった。

道中や、知覧での盆踊り大会。


そのすべてが、今でも胸の奥に残る特別な記憶となっている。



1975年からは、ジュニアパイロットとして、

ひとりで知覧の夏を過ごすようになった。


縁側での時間、読書感想文に選んだ本たち。

記憶に残っているのは、結局『アンネの日記』だけだった。


毎年、ひとりで飛行機に乗って向かった知覧。

あの時間は、今でも心の中にくっきりと浮かんでくる。



初めて飛行機に乗ったとき、隣には父がいた。


思い出すのは、あのときの父の表情。

無表情で、無言だった。

ただ、隣に座っていただけ。


今日の、見知らぬ32Bの男性と同じように。


――あのとき、父は何を考えていたのだろう。



響香の目には、窓ガラスに映る32Bの本の表紙と、

さっき彼が開いていたページの中身が重なっていた。


どちらにも、稲盛和夫氏の顔がある。


拝むような表情で、「徳をもってあたる」と題されたページ。

そして、表紙には「燃える闘魂」の文字。


白髪に眼鏡、細く引き締まった目――

遠くでもなく、近くでもない、「前」を見つめているまなざし。



飛行機が離陸したことを、身体が感じとる。

響香の意識は、現実の窓の風景に戻っていった。


桜島が見えた。

子どもの頃、溶岩道を歩いたことを思い出す。


あのときの運転手の顔は、もう思い出せない。



そういえば、ついこの1月――

桜島は50回も噴火し、そのうち23回が爆発だったという。


響香は、32Bのビジネスマンも

窓の景色が気になるように感じて、

そっと顔を窓から離し、背もたれに深く身を沈めた。


霧島連山が、遠くに見える。

錦江湾が、眼下に静かに広がっていた。



ああ、錦江湾――。


その海があったからこそ、哲郎はあのむずかしい父の心の壁を、

33年前に開けたのかもしれない。


たまたま、このあたりの高校に通っていた哲郎が、

父と同じ風景を知っていたから。


ゆっくりと、自分の中のもやもやを、ほぐしていく。



今回、どうしても知覧に行きたかった。

でも――あの一瞬の同窓会で、十分だった。


あとは、時間をかけて、少しずつ整理していけばいい。


結局、今回は特攻隊基地には行かなかった。


幼い頃、何度か足を運んだあの場所――

知覧特攻平和会館。


今も、あのころのままだろうか。

ただ、あそこの空気の「色」だけは、今も忘れられない。



飛行機に乗って、片道分の燃料のまま、

そのまま空に向かった、りりしい軍服のお兄さんたち。


九九を覚えたばかりの私は、額縁に収まった若き青年たちの多さに驚いた。

文字を覚えたばかりの私は、最後の手紙を読もうとしていた。


あの時、ゼロ戦の横で待っていた父の顔も、やっぱり無表情だった。



だけど。


食卓で地理を教えようとする父は、生き生きとしていた。


「白い紙を出して、日本地図や世界地図を書いてみるんだ。

地図を見なくても、そっくりに書けるようになるまで、何枚も描くんだ。」


そんなふうに言って、自慢げに語っていた父は、輝いていた。



「先生に、“世界を渡る仕事がしたい”って言ったんだ。

どうすればできるのか、わからなかったけどね。

たまたま——でも、お父さんはアルミを売る仕事で、

あちこち外国に行けるようになった。」


そのときの父も、誇らしげに話していた。



母に言わせれば、私は「父の目に入れても痛くない、たったひとりの娘」だったらしい。


いつも優しいまなざしで見てくれていたのだろう。

けれど、飛行機の中での父の表情は、どこか硬かった。



あの時、まだ出来たばかりの鹿児島空港で、

父は買ったばかりのカメラで、写真を一枚ぐらいは撮っていたはずなのに――ない。


特攻隊記念館で、私の手を引いていそうなものなのに、

そうはしなかった。


まつのが、なにより嫌いだった父が、

ただひとり、ゼロ戦の横で、じっと待っていた。



長いこと、心の中でくり返してきた「どうして?」

それが、いま、わかった気がした――その瞬間。


とまらない涙が、ぽろぽろとこぼれてきた。


32Bの隣のおじさんに気づかれたら、

「なんだ、この人?」って思われるかもしれない。


そう思って、必死に涙をこらえる。

でも、涙腺を止める金具がなくなってしまったみたいで、

もう、思い通りにならない。


していないコンタクトのせいにでも、しようか。



「男は泣くな。」


父はそう育ってきたし、自分の弟にも、

私の弟にもそれを強く言っていた。


特攻隊記念館の中には、その掟を破ってしまうものがあった。



10歳の時まで、一緒に食卓を囲み、一緒に遊んでくれたお兄さんたち。

特攻隊の宿舎にあふれた若者たちが、

幼い父の家でも過ごしていたと聞いている。


「響香、おばあちゃんと行っておいで」


それだけ言って、特攻隊記念館には入らなかった父。


「さよならを笑顔で言ったお兄ちゃんの写真での再会」は、しなかった。



それが、「男は泣くな」という鹿児島の掟を守る

唯一の方法だったのかもしれない。


ゼロ戦の横で、風に当たりながら、ひとり父は待っていた。



あのときも――おばあちゃんも、なだこおばちゃんも、父も、無言だった。


いつも自信たっぷりで、未来に向かって怖いものなんてないと胸を張っていた、

身ひとつで世界を飛び回った昭和の企業戦士に。


そんな繊細な心の引き出しがあったなんて、思いもよらなかった。



父が生涯に見せた、一度の大きな涙と、

ひとつの小さな涙。


それらは、父の心に隠された、大きな引き出しの――

ほんの一部だったのだろう。



誰が、この国の「開かずの引き出し」を、

埋め込んだのだろうか。


父のその引き出しもまた、海の一粒。

あの特攻隊記念館だけで、太平洋の一部にすぎない。



もしも、悲しみが、怒りになって。

怒りに、なってしまったら――


どうにかなってしまいそうだった。


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