知覧編 第10話 ドバイ、鰹節、知覧、横浜――
台所シリーズ 第4部「台所の世界をかえる」知覧編
第10話 ドバイ、鰹節、知覧、横浜――
ドバイ、鰹節、知覧、横浜――。
響香の記憶のピースと同じ言葉が交じり合った瞬間、震えが震えを呼び、彼女はその場で身動きが取れなくなった。
その美しい振る舞いの夫婦、そして彼らに見とれる茶髪のベテラン接客員。
言葉が織りなすパスの妙技に、心を奪われていたのは響香だけではなかった。
異国の空気をまとったその夫婦は、市場の冷蔵庫の中身まで知り尽くしているかのような落ち着きで、静かに佇んでいた。
観客の中には、エプロンをつけたままベンチ席で一息ついていた店員も、
毎日のようにここに通う地元の小料理屋の女店主もいた。
女店主はふとつぶやいた。
「もしかして、ドバイの“きょうか”って……? “きのや”だったかしら? なんて読むんだっけ?」
そう言いながら、ポケットからスマホを取り出し、隣の店員に画面を見せる。
人のスマホをのぞき込むのはマナー違反だと思いつつも、ちらりと画面をのぞくと、
そのおかみが、こちらにもスマホを差し出してくれた。
画面には――
「Kinoya」
と、ドバイの有名店の名前が表示されていた。
目の前の夫婦がその店のオーナーかどうかは、あくまで憶測にすぎなかった。
けれど女店主は確信していた。
きっとあの夫婦は、映画『グランメゾン・パリ』ならぬ『グランメゾン・ドバイ』のふたりに違いない――と。
そして彼女は、キムタクと日本の大女優・鈴木京香に見立て、ものまねを交えた芝居を始めた。
その話術はまるでプロの芸人のようで、観客も次第に引き込まれていった。
ふっくらとしたエプロン姿の女亭主は、鈴木京香を「まちこ」と呼んだ。
「まちこはインディアからドバイに家族とともにやってきたの。
そのころのドバイには高層ビルなんてなくて、まるであの頃の枕崎みたいな港町だったわ。」
たららららん――鼻歌まじりに。
「木造のダウ船が行き交う風景や、砂漠の中にぽつんと佇むアラビア建築。
素朴で、歴史を感じさせる町だった。
枕崎もまた、日本有数のカツオの港。漁師たちのかけ声が響くその活気、似てるのよ。」
とっととっととっと──船の音の効果音。
市場の香りと潮風が、まるでその場に広がるようだった。
「インディアン出身のまちこは、港なまりに戸惑いながらも、誰かがこの鰹節を持ってきてくれたら、それを大切に削るの。
友達もいないドバイの漁港の町でね。
今日はどこを削ろうか、明日はどの角を削ろうか――一年の計画を立てながら、料理をして過ごすの。」
「次の年の荷揚げの話に耳を傾けながら、
『ああ、日本料理って素敵だな』って思うの。
そうして年を重ねていくうちに、町の木枠の窓も、いつの間にかアルミサッシに変わった。」
「彼女の家は工務店だったから、アルミサッシの営業マンが東京のお土産を持ってきたり、珍しい生ラーメンをくれたりした。
鰹だしのラーメンが、彼女の忘れられない味になったの。」
「でもね、ラーメンはすぐどこでも買えるようになって、いつの間にか鰹節が手に入らなくなる。
そんな時、キムタクが現れるの。」
「『一緒に鰹節を枕崎で直接買いに行こう』って。
それがきっかけで、年に数回、ふたりで鰹節を買いに行くようになるの。」
「彼と彼女の店は、洗練されたシンプルなラーメンで、今や世界中の人々をドバイで魅了している。
二号店はロンドンにあるの。」
芝居の途中、連れ合いらしい男も加わり、にやりと笑った。
「二号店はロンドン。」
それが真実かどうかは誰にもわからない。
けれど、観客たちは響香と同じように、その物語に魅せられていた。
女亭主のエプロンは、まるでシルクのような柔らかさで、大和絵が繊細に描かれていた。
隣にいる男は白髪まじりで、自分を指して観客に言う。
「おれ、キムタク。木村拓紀だ。」
観客を巻き込みながら、即興劇のようなやりとりが続く。
「ドバイじゃないだろ? 名古屋だろ? それ、お前の話じゃないか。」
「でもお前が子供のころ枕崎に住んでなかったら、俺たちの店はなかったかもしれない。
この鰹節は金の延べ棒じゃない。黒い延べ棒っていうのは本当だ。」
「『グランメゾン・枕崎』は恩返しの店なんだよ。」
響香の目の前の二組のカップルは、まるで世紀の映画を演じているようだった。
「ドバイってすごいよな。こことは全然違う。
すげー高いビルが建っちまってるもんな。
枕崎はちっとも変わってない。……お前は、変わったけどな。」
まちこになりきった女亭主は、エプロンの裾をひらりとたなびかせ、キムタクに視線を送る。
拓紀は、優しく答えた。
「今の方がきれいだよ。」
「親父に連れられてきた盆踊り。あれが、お前と初めて会ったときだっけ? お前、六歳くらいだったか?」
「覚えてる?」とまちこ。
「さあな。」と拓紀。
「いや、ほんとに忘れていたら海にわたって、どっかにいくわ。」
まだ芝居の中なのか、それとも素なのか。
彼女はエプロンの角を少しゆらしながら、かつおの香りを集めるように笑った。
その香りに乗って、響香の記憶の中に――知覧の盆踊りの夏の光景がよみがえった。
彼女は、わざと聞こえるように小声でつぶやく。
「モナ・リザが来た年、小学校一年生で、その年の知覧の盆踊りが忘れられない。」
「同じだ。モナ・リザが来た年の盆踊り。」
隣から返ってきた声に、胸が震えた。
まるで二本の映画が同時にスクリーンに映し出されているような――そんな瞬間だった。
やがて、場面は三人の知覧での小さな同窓会の一瞬へと、静かに変わっていった。
あとがき
知覧編をここまで読んでくださったみなさん、ありがとうございます。
鰹節の香り、枕崎の港、そして横浜の台所――。
遠く離れた場所の出来事が、ひとつの味や音で結びつく瞬間があります。
ドバイも、横浜も、知覧も。
それぞれの台所から見える“世界”のかたち。
この「知覧編」は、そんな“記憶の台所”からはじまりました。
帰路にむかう響香。知覧の風が、まだ袖に残っているような気がします。
戦後八十年の今年。決して遠くない過去からの風も、静かに吹いているようで――。
もうすこしだけ、知覧編はつづいていきます。
次話もどうぞよろしくお願いします。
また、これまでのお話もあわせて読んでいただけたらうれしいです。
(2025年10月16日 朧月 恭)




