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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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知覧編 第8話 記憶のピース

台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧

第8話 記憶のピース

1 市場の香り


生臭さのない魚の匂い。

木箱に積まれた野菜の香り。

行き交う人々の声が、ざわめきとなって漂う。


そのざわめきが、さっきより少し温かく感じられた。


枕崎の潮風は、東シナ海から太平洋へとつながる。

太平洋は、地球の三分の一を覆っているという。


潮風に混じる、鰹節の香り。

その香りが、懐かしさとともに胸いっぱいに広がった。


──待ち人がいるふりをして、市場をうろついていた、そのとき。


響香は思わず立ち止まり、声を漏らした。


目の前の鰹節売り場に並ぶのは、今も販売されている商品だった。


「新さつま節 800グラム 2600円」

「本枯節 L 520グラム 3500円」


黒く固いその姿が、値札とともに、じっと棚に鎮座していた。


その黒々としたかたまりを見た瞬間、鰹節削り器の記憶が、一片ずつ蘇ってくる。


木箱の手触り。カリカリという音。

そして、指先に残る、あの冷たく鋭い痛み。


「……あっつ……」


目の前の木製の箱にそっと手を添える。

その瞬間、50年間、心の奥に沈めていた記憶が、堰を切ったようにあふれ出した。


六歳のあの日、妙蓮寺ニューキャッスルの一室。

狭いテーブルに広がった、自分の赤い血。


ほんの少し手伝いたかっただけなのに、親指の腹を鰹節削り器で切ってしまい、叱られるのが怖くて、黙ってタオルで血を押さえて、隠した。


木製の鰹節削り器は、いつの間にか家から消えていた。

けれど、削りたての鰹節の香りと旨味は、食卓を囲む家族の気配とともに、記憶の中に残っていた。


若い父が新聞を読む横顔。

母が刻むねぎの音。

寝癖のまま短パンで目をこする弟。

テレビの朝のニュース。


それらすべてが、あの台所の空気だった。


今、目の前にあるのは──

高級木材を使った藤印の鰹節削り器の木箱。


鰹節マンの吹き出しPOPにはこうある。


「大正・昭和の鰹節機 今でも現役以上」


さらに、外国人向けのポスターにはこうある。


The katsuobushi shaver is a nostalgic hand-held wooden tool that transforms a hard, black block of dried bonito into delicate, fragrant flakes. With a motion like planing wood, the user draws the fish across the blade, capturing the essence of umami—an essential taste in Japanese cooking—while often recalling memories of family kitchens and morning miso soup.

(鰹節削り器とは、黒く硬い鰹節のかたまりを、繊細で香り高い削り節へと変えてくれる、手に持つ懐かしい木製の道具です。まるで木を削るような動作で鰹節を刃に押し当てると、日本料理に欠かせない「うま味」の本質が削り出されます。その作業は、家族のいる台所や、朝の味噌汁の記憶を自然と思い起こさせるものです。)


──その瞬間、響香は確信した。

これだ。

私がずっと探していた、最後の1ピース。


妙蓮寺ニューキャッスル205室の台所と洗面場のわずかな空間で、父が母の手を借りて荷造りする姿。

父が中東へ旅立つとき、スーツケースにはぎっしり何かが詰められていたはずだった。

でも思い出せるのは、わずかな服と、黒いボールペン。

白地に「上野十猪」と書かれた折りたたみ傘。


残りのその空間に、父が何を詰めて飛行機に乗り込んだのか──ずっと思い出せず、心の奥に引っかかっていた。

その“もやもや”に、今、ようやく気づいた。


それが、最後の1ピース。


そして、スーツケースの残りの空間を埋めるように詰められていたのは、新聞紙に包まれ、黒くひかる固い鰹節だった。

これもまた、あのテーブルの延長線上にある風景だったのだ。


──5000ピースの正月のジグソーパズル。

最後の1ピースが、今、カチリと音を立ててはまった。


響香は、妙蓮寺コーポラスの小さな台所と、狭いテーブルと、あの赤い血を思い出した。


一つの記憶のピースが動くと、次のピースがドミノのように倒れ、次々と記憶が連鎖していく。

脳裏に浮かぶ映像を、藤印の鰹節削り器に映すように、ゆっくり眺めた。

そのときだった。


2 異国の夫婦


空気が変わった。

目の前に、異国の夫婦が現れる。


異国の婦人は、日本の藤色のシルク着物をリメイクした振袖幅のショールを羽織っていた。

つややかな黒髪は、静かに覆い隠されている。


鰹節マンのキャラクターの前で、スマホアプリを片手に質問をしだした。


あまりに美しいその姿に、周囲のスタッフが動き始める。


まるでサッカー選手がポジションチェンジするかのように、新人の横にベテランが立った。


一見、それはたった30秒の偶然に見えた。

しかし響香は、その動きが偶然ではなく、意図されたものであることに気づく。


──まるでスタジアムの最前席で、一瞬の名プレーを見逃さなかったかのように。


なぜか、父とのある日の会話を思い出す。


「その本の長谷部選手は、ボランチなんだよ」

「ボランチって? 真ん中のこと?」

父は答えた。

「守備と攻撃の舵取りをする人なんだよ」


(この魚市場の“ボランチ”は、だれじゃろか)


さっき、かっぷくのいい女性の声が響いていた。


「おい、おまん、その伝票ば、2階の事務室に持っていっちょきやんせ」


包丁を受け取ると、彼女は同じリズムで魚をさばき始めた。


「へいよっ!」と応えた女性の亭主は、金髪の兄ちゃんの手元の伝票をひょいと取り、別の客に声をかけながら階段をかけあがっていった。


「いらっしゃーい、きょうはよかのんが入っちょっど!」


金髪の兄ちゃんの赤いスニーカーは、ふと札幌ドームのサッカー国際試合を思い出させる。


隣の席のお父さんが、息子と思われる子に教えていた。


「赤いスニーカーが、本田選手だよ」


あの時のボランチが、長谷部選手だった。

赤いスニーカーがボールを受けた瞬間、4万人がひとつになった後、同時に総立ちになった。


目の前の茶髪のにいちゃん――

少し時代遅れに見えるそのベテランスタッフは、一度アプリを見ただけで、英語とアラビア語で、異国の夫婦に応対していた。


「ドバイ、鰹節、知覧、横浜……」


その言葉が、響香の中に眠っていた記憶のピースと重なり合う。


胸の奥が震え、また震えを呼ぶ。

響香は、その場で立ち尽くした。


「あいがとね。みんなのおかえじゃけん」


かっぷくのいい女性が、包丁の手を休めることなく言ったその声は、ざわめきの市場の中でも響いた。

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