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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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知覧編 第7話 西郷どんの まなざし

台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧

第7話 西郷どんの まなざし


◇◇◇


洋子おばちゃんにも会いたい。


横浜から毎年のように鹿児島へ訪れた夏休み。

洋子おばちゃんはいつもこう言っていた。


「たいして、どこも連れていけなくてね」



そう言いながら、連れて行ってくれたのは、知覧の隣町、枕崎。

太平洋への入り口の町だ。


市場の頭上の「Toilet」(洗面所)と書かれた矢印に従って進む。

鏡の前にある洗面台のそばには、手書き風の貼り紙があった。



そこには鹿児島弁でこう書かれている。


「潮風といっしょに、すっきりしもんそ」


思わず笑みがこぼれた。

響香は鏡を見つめ、逆流する涙をそっと拭った。


「これなら、大丈夫」——そう自分に言い聞かせる。



隣に並ぶ女子高生たちの会話が耳に入った。


「西郷どんがさ、西郷どんがさ、うちのママがうるさくて……」


最初、響香は「西郷丼」という鹿児島らしい名物の話かと思い、聞き耳を立てた。

しかしそれは料理の話ではなかった。

どうやら西郷隆盛を引き合いに、母親が人生の選択について説いているらしい。



ふと、自分の立ち位置がぼんやりしていることに気づく。

話の終わりを待たず、響香はそっとその場を離れる。

薄曇りの空を見上げ、深呼吸した。


「どこか、落ち着ける場所はないだろうか」



そう思いながら、ポケットの5円玉を取り出す。

さっきの女子高生たちの話と、鏡越しに見た自分の姿が、頭の中で交錯する。


——5円玉をじっと見つめる。


「そういえば、西郷さんの銅像……」



小学校の社会科見学で、その銅像を見に行ったことを思い出した。

40年間、一度も思い出さなかった記憶だ。

バスの揺れと車酔いをこらえながら、先生の説明を聞いた。


「約150年前(1898年)、日本で最初の公園に、犬を連れた西郷隆盛の銅像が建てられました。

その公園は恩賜公園と呼ばれ、『恩賜』とは天皇から賜ったという意味です。

1924年、大正天皇が寄贈し、現在の上野恩賜公園となりました」


——なぜ、日本最後の内戦の敗者で、反逆者とされた人が、

一等地に立っているのだろう。

幼い頃の自分は不思議に思ったものだった。



司馬遼太郎が好きな哲郎に、何かの拍子で聞いたことがある。


「どうして西郷さんは、あんなに堂々と銅像になってるの?」


哲郎は少し考え、こう答えた。


「彼は志を同じくした仲間との戦いで、自ら切腹の道を選んだ。

だからこそ、敵味方を超えて敬意を持たれたんじゃないかな」



その言葉の真偽を確かめたくて、スマホを手に検索する。


『西郷隆盛の真意や葛藤を知れば、彼の行動は単なる反逆者ではなく、理想を追い求めたものだったことが理解できる。

西郷が求めたのは理想的な社会。しかし時代の流れと合わず、結果として孤立し、戦いを余儀なくされた——

その背景は現代にも通じる』



ゾクリとした。

西郷さんは単なる歴史上の人物ではない。

その足跡は、今も私たちの時代と重なっているのではないか。


薩摩西郷さんは 世界の偉人 国のためなら オハラハー 死ぬと言うた——『鹿児島小唄』の響きが、ふと頭に流れた。



鼻をくすぐる香りに現実へ引き戻される。

目の前には、懐かしい市場の光景。

いや——成熟した文化の光景だ。


「午後から西に回るな……うねりが残るぞ」

「魚、また深ぇとこか」


氷を砕く音に混じる低い声。

氷に敷き詰められ、キラキラ光る帯のように並ぶきびなごの上で、

漁師と店主がスマホを指差し合い、海の行方を占っていた。



どちらに歩こうか迷っていた時、声をかけてきたのは、

さっきのドジャースTシャツの店主だった。


「ねえちゃん、さっきはありがとうな。

あさっての午前中には、まちがいなく着くから。

ちゃんと電話しときな。」



生臭さを感じさせない新鮮な魚の匂い。

木箱に積まれた野菜。

忙しそうに行き交う人々のざわめき。

それらすべてが、さっきよりも温かく響く。

潮風に混ざる鰹節の香りが、胸の奥に広がった。



「響香ちゃん。かつおぶしの雄節と雌節とは、味も形もちがうんだよ」——

おばあちゃんや名だこおばちゃんの声が聞こえる。

(いったい、どっちがどっだっけ?)


待ち人がいるふりをして、ふらふらと市場を歩く。——その時、足が止まった。



目の前には鰹節売り場の棚。


「新さつま節 800グラム 2600円」

「本枯節 L 520グラム 3500円」


値札のついた黒く固い鰹節が、かつて祖母の家で削っていた光景を呼び起こす。



目の前に置かれた木製の箱を、そっと撫でた。——

響香は、時の流れの中で、確かに自分の立ち位置を感じ始めていた。



「あっ……」


第8話へ つづく

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