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【旧稿】台所シリーズ ― 水と記憶と祈り ―  作者: 朧月


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知覧編 第6話 枕崎

台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧

第6話 枕崎


◇◇◇


「マッチ箱のような汽車で高校に通った。」


そんなふうに、父は同窓会誌に綴っていた。



知覧から枕崎へ。


響香が子どもの頃に訪れたとき、

もうその汽車は走っていなかった。


いま、マッチ箱の汽車ならぬ、

マッチ箱のようなバスにゆられながら、

響香は知覧から枕崎へ向かっている。



当然のことながら、記憶にあった砂利道も、もうない。

道は舗装され、景色も少しずつ変わっていった。


けれど――

響香の中にある風景は、今も変わらない。



バスに乗る人たちの手にするものも、変わった。

ここでもみな、スマホを手にして、

それぞれの画面と向き合っている。


同じ制服の女子ふたりが、

一台のスマホを囲んで談笑している。

その笑顔が、なんともほほえましい。



バスの窓越しに流れる茶畑と、車内の扇風機。

次に見ることは、もうないかもしれない。


スマホで写真を撮ろうか迷ったが、やめて――

まぶたに焼き付ける。


これが、響香の原風景。


◇◇◇


隣町、枕崎の市場へ。


バスを降りても、海はとうとう見えないまま市場に着いた。

けれど、風の匂いだけは、

さっきの茶畑から一変して、磯の香りに包まれていた。



カツオの腹側が、プラスチックの緑の皿に並べられ、

氷でしっかりと冷やされている。


この市場の公社に、響香は二、三年に一度、電話をかける。

カツオの刺身、さつま揚げ、かるかん――鹿児島の味を頼むのだ。



北海道では送料無料の商品でも、プラス500円が加算される。

けれど、その500円は決して高くはない。


カツオが冷凍されて玄関に届くその瞬間、

冬の嵐の日に買い物へ出る必要がなくなるのだから。


2セットあれば、ワンシーズンを乗り切れる。

しかも、物価高のなかでも値上がりしていない。



市場の小さな店主たちと、

「北海道から来ました」と言うと、会話は自然と弾む。


「寒いでしょ?」


「ああ、十年前にカーチャンと阿寒湖に行ったな。」


(私は北海道に住んで、57ひく19年、つまり居住歴38年だけど、

阿寒湖にはもう20年近く行っていない)


「阿寒湖、広いよね。」

と、意味のないセリフを口にする響香。



「これ、美味しいよね。腹側。」


「おねーちゃん、腹側知ってるの? 本当に北海道から来たの?」


「ええ、知ってますよ。父が知覧出身なんで。」


そう言うと、話はさらに盛り上がる。


「おーねぇちゃん。」


店主は、何度もそう呼ぶ。


(本当は“おばさん”だと思ってるんだろうけど)



「あ〜、アドラー様……」


響香は心の中で自問自答しながら、

店主の話題にうなずきつつ、

無駄なく魚をさばく手元を見守っていた。


(アドラーっちゅうのは、他人との協力や、自分を大事にすることを教えてくれた心理学者のことばい。

……なんでか、心の解説が鹿児島弁になるとよ。)



送料のことが気になっていた。

聞くべきか迷った。


北海道に戻ってから電話をかけた方が安上がりなのはわかっていた。

でも、聞く前に、おじさんから先に言われてしまった。


「もし送るんだったら、今や発泡の箱に入れて、

北海道にだってクール冷凍便で送れるんだよ。」


初めて来た客へのトーク。

でも、どこか温かみを感じさせる。



「あの……もし送るとしたら、おいくらくらいになりますか?」


響香は、思わず聞いてしまった。


想像どおり、店主は言う。


「ねこのマークの表を見て……うん、このサイズだと2700円だね。」


「物価高だもの、仕方ありませんよ。

ふるさとの南国の味が、北海道で食べられるんだから。」


響香は笑顔で答える。



「そのTシャツ、ドジャース? 似合ってますね。」


「おじさん、一緒に写真撮ってくれる?」


「いいよ。」


アメリカの黄金チームの青いTシャツを着た店主は、快く応じる。


カツオ売り場で、できたてのカツオボックスを手に、

響香は素晴らしい一枚を撮った。



店主は言う。


「さばくとこ、動画で撮ってもいいよ。」


けれど、響香はどこかに“撮影禁止”の張り紙があったのを思い出す。


「おじさん、ファンが殺到したら困るから。」


「アイドルみたいに包丁さばくのが夢なんだよ。……つまんねーな。」


そう言って笑う店主。



「でもね、ここに少し空きがあるから、隣の店に行って、

冷凍カルカンを買ってきなよ。

こっちには知覧茶も入るし、気にせずビニールでしっかり包んでおくから。

気持ちの問題も、大事だからね。」


響香は「ありがとう」と言いながら、また支払いを済ませる。

店主のひとことひとことを、胸の中でそっと刻んでいた。



「もうひとつ、同じセットを作ってもらえる?」


「え?」


「関東に送ることにしたの。伝票、二枚ください。」


「自宅用じゃなかったのか?」


「うん、まあね。

大丈夫よ。気心が知れてる相手だから。」



おじさん、本当にありがとう。


響香は、再び感謝の気持ちを込めて、一万円札を差し出した。

緑の財布から出したのは、ピン札の渋沢栄一。


その顔を見て、札幌の地下歩道にあった金庫の前で、

伸子と延々話し込んだ時間を思い出す。



新年会をすると言っていたのに、

結局、目の前のコンビニでパンを買っただけだった。


そのとき、二人して一万円札を出してしまい、

「なんでピン札なの」と笑いながら、

渋沢栄一の話になって、ますます話が長くなったんだった。



最後に、店主は5円玉を一つ、手渡してくれる。

穴にひもが通してあって、小さな紙が添えられている。


「またまた来やんせ。よか旅をな。

Come visit again. Have a wonderful trip. ――枕崎」


「これからも、5円(ご縁)がありますように。枕崎に。」


「ここはね、大阪みたいに両替しないから、数量限定で貴重なんだよ。」



響香は、その5円玉をそっとポケットに入れる。

なぜだか、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになる。


今はもういないおばあちゃんに、無性に会いたくなった。


◇◇◇


涙をぬぐいながら、ふと、あのときの声がよみがえる。


「せっかく来たのに、たいしてどこも連れて行けんかったね。」


それでも——


ガタゴトと揺れるバスに揺られ、枕崎へ連れていってくれた、

あの夏の思い出が――


マッチを擦ったときのように、

胸の奥で、そっと灯った。


◇◇◇

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