知覧編 第5話 茶畑
台所シリーズ第4部「台所の世界をかえる」知覧
第5話 茶畑
◇◇◇
こゆきに留守番を頼んだとき、
まるで“追想と覚醒”のボタンを押したようだった。
気がつくと、響香は鹿児島、知覧の茶畑に立っていた。
あれは――たしか、2025年の2月も終わりごろのこと。
◇
いつのまにか、あの巨大扇風機の前にいた。
あまりにも高くて、足元から見上げても、その頭上はわからない。
少し離れて、並ぶ扇風機の「次の、さらに次」の方をようやく見て、
その全体の姿を、やっとつかむことができた。
知覧の巨大扇風機は、今も静かに佇んでいた。
あの頃と変わらない風景。けれど、時は確かに流れている。
◇
「霜にあたると、せっかく出た新芽が黒く枯れてしまうから、
この扇風機が必要なんだよ」
誰かがそう教えてくれた記憶がある。
父だったか、農家の人だったか。思い出せない。
地面近くにたまった冷たい空気を、
上空の暖かい空気と攪拌して、霜を防ぐのだという。
風速1〜2メートルの、かすかな風が、茶の命を守っている。
◇
——響香が父とここを訪れたのは、戦後五十年の節目の年だった。
あの時も、この扇風機はあった。
幼い響香は、それが当たり前の風景だと思っていた。
だから、戦後少ししてから、この扇風機とともに、
茶畑も育ったのだと思っていた。
けれども——
この茶畑の木々は、もっと古く、
薩摩藩のころから、根を張っていたという。
◇
空腹にあえぐ日々も、
戦中の混乱も、
戦後の混迷も、
このお茶の木は切られずに、生き延びてきた。
守られていたのだ。
人の手によって。
あるいは、風によって。
◇
電気がこの町に通ったのは、戦後十年ほど経ったころだ。
まだ町は暗く、静かだっただろう。
人々がまず、どこに電気を使うか考えたとき——
この茶畑が、最初に浮かんだのだろうか。
——その思いが、扇風機を生んだのかもしれない。
風は静かに回っていた。
今も昔も、変わらぬ音で。
◇◇◇
知覧町郡 5360番地にて。
川辺郡知覧町郡5360番地。
今はもう、知らぬ誰かが住む住所。
けれど、耳をすませば、あの音たちが聞こえてくる。
鶏の声。
振り子時計の、律儀な音。
畳をほうきで掃く、サッ、サッという音。
湯を沸かす音。
おばちゃんの、お茶を入れる静かな手元。
◇
見たわけでもないのに、
祖母たちが井戸から汲んだ水でお茶を淹れる音までが、
なぜか、心の奥に残っている。
そして、お茶の時間。
「知覧ではね、朝ごはんの前に、お茶の時間があるんだよ」
そう言って、妙蓮寺コーポラスの台所で、
響香は朝食のお茶碗に注がれた緑茶を、ゆっくり口にふくんだ。
宿題におわれる、小四の夏休みのおわりのことだった。
◇
——今、思う。
あの時間がどれほど尊く、
どれほど豊かだったかを。
日々くりかえされる、なんでもないような所作のなかに、
どれほどのぬくもりと、祈りがあったかを。
◇◇◇
たしかに、ちゃぶ台での会話だったはずなのに——
その記憶は、いつのまにか茶畑のなかに落とし込まれている。
まるで、茶の根に吸い込まれ、芽吹いたように。
◇
おばあちゃんは、言った。
「響香、鹿児島は男尊女卑の土地っていう人がいるけど、あれは嘘よ。
鹿児島のおなご(女)はね、すごか。強かとよ」
そして、ちゃぶ台の上で両手のひらを上に向け、
目の前にある“見えない玉”を、そっと転がす仕草をした。
「“だんなさま、だんなさま”って言うて、
実はこうして、うごかしとるのよ」
手のひらを上にあげて、
見えない玉を、ころころと転がしていた。
なだこおばちゃんは、
それを見つめ、静かに笑みを浮かべていた。
◇
言葉にされない力が、確かにあった。
見えない玉は、
おじいちゃんをこえ、父をこえ、
もっと大きなものを、
ゆっくりと、確かに、動かしていたようにも思う。
◇
特攻隊の飛行機が空を駆け抜けた、その地で、
響香は今、一人で空を見上げている。
目の前に広がるのは、
あの時と変わらぬ、静かな茶畑の風景。
◇
祖母たちは、井戸から汲んだ水でお茶を淹れていただろう。
そのお茶は、
朝露のしずくのように、しんと澄んでいて、
土とともに生きる、そんな味がしたにちがいない。
◇
響香は結局、特攻隊記念館にも、武家屋敷にも立ち寄らなかった。
茶畑に立つことで、響香が知覧で過ごした時間と、
さらにその奥にある昔の時間までもが、まぶたに映し出された。
◇◇◇
そのとき、茶畑の前にバスが止まる。
行き先は枕崎。
かつて、哲郎と知覧に来たとき、
父が携帯越しに道案内をしてくれた町。
帰りの飛行機のことなど考えず、
迷わず乗ることにした。
知覧から、およそ三十五キロ。
向かう先は、海だった。
◇◇◇
枕崎
太平洋の息吹を真正面から受けとめ、
その鼓動を、日本列島の陸地へと伝える場所。
黒潮の力、命の流れがこの地に集い、
海と陸が出会う――まさに、日本列島の“海の玄関”。
人知れず、静かに歴史を刻みつづけてきた土地。
それが、枕崎だった。
海とともにある記憶へと、響香は向かっていった。




