知覧編 第4話 こゆきの留守番
台所シリーズ 第4部
台所の世界をかえる 知覧編
第4話 こゆきの留守番
寝室の布団の中で、ふと思った。
──こゆきにちゃんと頼めば、きっと大丈夫だと。
「ねえ、こゆき。パパとお留守番、お願いできるかな? ママ、どうしても知覧に行きたいの。遠いから、2、3日になるかもしれないよ。」
こゆきは、「いいよ」と言ったようだった。
一階の和室の一角が、今のこゆきの定位置。
かつては家族の中心にいたけれど、最近は少し、みんなの動線から外れた場所を好むようになっていた。
もう、階段を上がることはできない。
けれど、ママがいないとなれば、パパはきっと言うだろう。
「今日はこゆき、たまには一緒に寝ようか?」と。
──それもママの織り込み済みだったのかもしれない。
ママは、何度も聞いた。
「本当に大丈夫? こゆき」
こゆきは、何度も「大丈夫」のサインを送った。
それは、ふたり──いや、一人と一匹だけの秘密の合図だった。
こゆきの右手の先にママが手のひらを差し出す。
こゆきはそっと一回、響香の手をこする。
響香が一回、こゆきの頭をなでる。
次はこゆきの番。
二回、手をこすり、響香が二回、頭をなでる。
そして三回。
──いつも、三回まで。
このリズムは、信頼の証。ふたりだけの約束だった。
「パパは大丈夫。こゆきがいるから。」
哲郎は、まるでイチローのように、いつも通りのルーティンを崩さない。
「行っておいで、ママ。こゆきと留守番しているよ。」
「うん。」
哲郎は、ママのカバンがいつもと違うことや、選んだ薄手のコートにも気づかない。
きっと、いつものように「いいよ」と言えばわかってくれていたのだ。
こゆきも、ママも。
哲郎は、いつものようにサッカーゲームを続ける。
今日が少し特別な夜だとわかっていても、変わらずゲームを続ける。
「ああ、もうすぐゲームが終わる……」
こゆきは、ほんの0.5ミリだけ、哲郎に近づいた。
その微細な変化に、哲郎は気づく。
「どうした、こゆき? 今日はママがいないから寂しいのか?」
そして、続ける。
「たまには、一緒にベッドで寝ようか?」
こゆきが誘ったのか、パパが誘ったのか──どちらでもよかった。
ふたりは、2階の寝室へと消えていく。
まるで『東京ラブストーリー』の続編みたいに。
──いや、『岩見沢ラブストーリー』だ。
哲郎は、やっぱりあたたかい。
ふたりは同じことを思っていた。
「ああ、四人で寝た日が懐かしいね。」
(本当は三人と一匹だけど、やっぱり“四人”だよね。)
「そうだね。」
そのとき、哲郎のスマホが鳴った。
こゆきには、目が見えないから、足音と声のトーンで、何でもわかる。
電話の相手は、広島のおばちゃん──パパのことを「てっちゃん」と呼ぶ、会ったことのない人。
ママからは、電話もLINEもなかった。
残念ながら、ママは明日には帰ってきそうだ。
きっと、ママは言うだろう。
「ありがとう、こゆき。ちゃんと、パパと留守番してくれて。」
布団の中、こゆきは哲郎の横で丸くなり、静かに呼吸を整える。
パパの手が背中にそっと触れるたび、安心の波が広がる。
「こゆき」
哲郎の声は、柔らかく、眠りに誘う子守歌のようだった。
窓の外では、夜の風が庭の木々を揺らす。
小さな音も、こゆきには心地よいリズムに聞こえた。
「ママ、明日には帰ってくるからね。」
哲郎の言葉に、こゆきは安心したように体を少しだけ寄せる。
二人の間に流れる時間は、ゆっくりと、柔らかく、夜の闇に溶けていった。




