知覧編 第3話 ときは、めくり、そして、また、知覧
台所シリーズ 第4部
台所の世界をかえる 知覧編
第3話 ときは、めくり、そして、また、知覧
妙蓮寺の井戸は、五十年前と変わらず、静かに佇んでいた。
ぐいっとした、力の入れた後の、ひちひたと流れる澄んだ水音。
それは、今も耳に残る。
羽田から北へ飛び、千歳を越え、さらに北へ──
響香は、愛犬コユキの待つ、岩見沢の我が家へ帰った。
妙蓮寺は、響香にとって「原風景」というよりも、
ただ懐かしい日常のひとこまだった。
けれど、それよりももっと遠く、
もっと深くから脈打つ風景が、どこかに存在している気がした。
台所に流れる水も、妙蓮寺さえも超えて、
古来から静かに続いてきたものに違いない。
いつもの岩見沢の朝が始まる。
耳の奥に残る水音のせいだろうか。
蛇口の水さえ、いつもとは違って見えた。
そのとき、テレビから流れてきたのは、
NHKの『にっぽん縦断 こころ旅』だった。
旅の目的地は、視聴者から寄せられた手紙に導かれる。
「人生を変えた忘れられない場所」
「ずっと残したいふるさとの風景」──
そんな言葉を手がかりに、俳優・火野正平が自転車でぶっつけ本番の旅に出る。
BSプレミアムの紀行ドキュメンタリー。
ナレーションはなく、出会う人々との交流が静かな情景で映し出されていた。
火野正平さんが亡くなったと知ったのは、
訃報から二か月ほど経った頃のことだった。
朝の、何気ない日常の余白に、ふっと舞い込んできた知らせ。
娘にとって、この町は「ふるさと」と呼べるのだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
哲郎と私は、この地に住んで三十年。
けれど、「ふるさとの景色」と聞かれて思い浮かぶのは、
この岩見沢でもなく、妙蓮寺でもなく、
ずっと南、南の果ての町──知覧。
三歳の私と、赤ん坊の弟。
私たちを見守っていた祖父の姿が、幼い日の記憶に静かに残っている。
庭で無邪気に遊ぶ私たちを、黙って見つめていたあの穏やかなまなざし。
今も心の奥に、その光がある。
祖父が写真の中の人になったのは、小学校に上がる頃。
その年のお盆の帰省で、
「おじいちゃんはトンボになったんだよ」と聞かされた。
畳の部屋に大きなオニヤンマが飛び込んできたのを、今もはっきり覚えている。
あの夏の空気が、そこには確かに満ちていた。
知覧の四季は、それぞれに鮮やかだった。
冬──寒さの中で、一面に咲く菜の花。
風の柔らかさに驚いた。
春──数えきれない緑に囲まれ、木々の多さに息を呑んだ。
夏──セミの大合唱と台風の気配。
嵐の翌日、虫籠を手に庭に出た。
木陰で汗が引く感覚を味わいながら。
秋──裏道の奥にある小さな水田が、稲穂に染まっていた。
そして、また冬。
冷たい空気のなか、火鉢で餅を焼いた。
その小さな火鉢は後に横浜へ持ち帰り、
今は部屋の片隅で静かに佇んでいる。
小学生のころ訪れた知覧では、まだ薪で風呂を焚いていた。
冬の庭に裸足で出て、星を見上げた夜もあった。
仏間に飾られた祖父の写真。
その部屋で眠るのが怖くて、
おばあちゃんと洋子おばちゃんの部屋に移してもらったこともあった。
結婚前、哲郎と一緒に知覧を訪ねた。
仏間で手を合わせながら、哲郎は言った。
「おじいちゃんは、軍服を着ていたんだね」
けれど私の中の祖父は、
庭で子どもたちを見守っていたあの姿のままだった。
──もう、確かめるすべはない。
最近、鹿児島に住む中学時代の友人から、
年賀状代わりにレモンの庭の写真が届いた。
その一枚が、知覧の風景をありありと蘇らせた。
最後に知覧を訪れたのは、父と一緒に祖母の家を見に行ったとき。
すでに住む人のいなくなった家のまわりに、
冬だというのに一面の菜の花が咲いていた。
黄色い花が風に揺れるその光景は、初めて見るはずなのに、
なぜか懐かしく、心を和ませてくれた。
そのときも、父とは特攻隊記念館には行かなかった。
理由は聞かなかった。
けれど、父が知覧で静かに過ごすことを好んでいるのは、
自然と伝わってきた。
代わりに茶畑のそばに車を停め、父とふたり、空を見上げた。
「原風景は、知覧の茶畑の空かもしれない」
ふと思い出す。
幼いころ、祖母と洋子おばちゃんと三人で、あの空を見たこと。
実家の本棚から持ち帰った、父の同窓会誌。
若き日の父が、中東の空の下で、
見知らぬ風景に知覧の記憶を重ねていたことが、そこに記されていた。
北海道のリビングで、そのページをめくる。
NHK『にっぽん縦断 こころ旅』の録画をリモコンで送る。
秋の放送回では、女優・田中美佐子さんがピンチヒッターとして自転車をこいでいた。
そういえば──若い頃、哲郎は「好きな女優さんだ」と言っていたっけ。
父の同窓会誌から、自然とテレビの方へ意識が移った。
心の風景をたどる手紙。ペダルが向かう道。
その音は、なだこおばちゃんが知覧の町をこいでいたリズムに、
どこか似ていた。
小さな旅の光景が、やわらかな風となって、部屋を通りすぎていく。
スマホで検索すると、直前にもかかわらず飛行機のチケットが取れた。
まるで、知覧が私を呼んでいるかのようだった。
「こゆき、パパとお留守番してくれる?」
愛犬コユキに、夫・哲郎との留守を頼み、
私はひとり、知覧へ向かうことにした。




