第1部 ただいま編 第1話 台所とアンジェラ
台所シリーズ 第1部「台所でせかいをかえる」ただいま編
第1話 台所とアンジェラ
トンネルを抜けると、雪国ではなかった。
朝の白さが、秋の青い空へとぬけていった。
道は、限りなく高い空へとのびていた。
この二年で、町には信号機がずいぶん増えた。
赤信号で停まったとき、赤い自転車がすっと目の前を通りすぎた。
見覚えのあるその自転車は、次第に小さくなり、やがて角をまがって見えなくなった。
――北海道北広島市に住む伸子は、つい先日、長旅から帰ってきたばかりだ。
その旅の疲れを感じさせることもなく、再び慌ただしい日常へと戻っている。
北広島の某水道会社で事務室対応にあたり、帰り道には作業服のままスーパーに立ち寄り、相棒の軽自動車で家に戻る。
作業服でなくてもいいのだが、水道インフラの一端を担う伸子は、いつでも現場に出られるよう、作業服で過ごしている。
だから、彼女の作業服には、きちんと折り目がつき、胸には「北広島市ニコニコ水道管理株式会社」の文字。
腕には、彼女のイニシャル「NA」が刺繍されている。
四十年間続く伸子の日課は、家に着くとまず台所に立つことだ。
サザンオールスターズの「いとしのエリー」を歌いながら、エリーの部分を家族の名前に変えて楽しげに口ずさみつつ、
朝洗うことのできなかった食器を手際よくあらい、こうして台所仕事をはじめる。
その姿には、伸子らしい明るさと温かさがにじみ出ている。
ふと窓の外を見ると、庭のバラ「アンジェラ」が風に揺れているのが目に入った。
ピンクの可憐な花ばなが、順に咲いてきた時間を映すように濃淡を重ね、まるで「おかえりなさい」と微笑んでいるようだった。
伸子はそっと庭に出て、
「ああ、元気に咲いてくれたんだわ」と、ゆっくりとアンジェラを見つめた。
旅のあいだ、ずっと気になっていたアンジェラ。
初心者でも育てやすいと聞いて購入したバラだったが、
ここ十数年、忙しい時間を縫って庭の手入れを続けてきた伸子にとって、この花は特別な存在だった。
ただ、あの長旅に出るときのことを思い出すと、ちくりと胸が痛む。
まだ、芽吹いてもないアンジェラのこれからを思うと、どうしようもない悲しみがこみ上げ、伸子は旅にいくのを、ためらったほどだ。
「この子、ちゃんと、花を咲かせるのかしら……」
しかし、戻ってみれば、アンジェラは元気に咲いている。
それは、きっと娘の未希が世話をしてくれたおかげだろう。
伸子は微笑みながら、ふと台所横の本棚に目をやった。
そこには見覚えのない一冊の本が置かれている。『初めてのバラ 気軽に楽しく満開に。』というタイトルだ。
「未希が買ったのかしら?」
手にとると、『?』とだけ書かれたメモがはさまれていた。
まるで謎かけのようなその紙片。
左端には、春の風景に囲まれた小さな家のイラストが描かれている。
響香にもらったメモ帳の一枚だ。
たしか、好きな絵本のイラストだと言っていたっけ。
日常のなかの、ほんの些細なメモが、一日の心を支配する。
そんなこと、よくある。
未希ったら、「これ、大事にしてるメモ帳なの」と言っていたのに。
「勝手に使ったのね……」と思わずつぶやく。
ふと、しばらく会っていなかった響香の顔が浮かんだ。
そういえば――こっちに戻ってきたこと、まだ連絡していなかった。
『?』のメモを裏返すと未希の字で、【強剪定】とかかれていた。
「そういうことね。」
伸子は、【? 強剪定】の4文字で未希がアンジェラを大切にしてくれたんだなと思った。
ありがとう。未希。
そう呟いて、メモを食卓において、改めて本をめくった。
1ページ目、右には、著者が、バラの手入れをしている絵。
見覚えある、誠実そうな横顔。
左に 「はじめに」とあって、
「バラはお手入れした分だけ、たくさんの花を咲かせてくれる植物です。その感動は育てた人だけの特権です。
剪定などの手間はかかるものの、バラと向き合うお手入れの時間は、慣れれば楽しいひとときになってくれます。
完璧でなくても大丈夫。自然と向き合うバラの栽培は、プロでも毎年うまくいくとは限りません。
そんな失敗も含めて楽しむことが、バラとの喜びを深めてくれるのです……」
何度も聞いた、その語り口が、まるで懐かしい声のように、伸子の頭に流れ込んできた。
表紙をみると
本の裏には、『世界をもっと、ばら色に。』
大きなばらの写真。
伸子は、そっと溜息でもない深呼吸でもない、ゆるやかな一呼吸をして、
アンジェラのページを開く。
『たいへん優秀な返り咲きせいで 枝の伸びるスピードは、ゆるやかなのでじっくり育てたい。』
「そうね。」
アンジェラは1984年、西ドイツで生まれた品種だという。
その頃はベルリンの壁のある冷戦の真っただはずと知って、カップ咲きのかわいい小輪花が、余計に魅力的になった。
「アンジェラのおかげで、私も幸せだわ。」
伸子は微笑みながら、もう一度、窓の外のアンジェラに目をやった。
家族の日常の中で、この花が咲き続けてくれることが、今日の彼女にとって何よりの癒しだった。
玄関には、子ども用の小さな軍手が少しどろのついたまま置かれたままになっている。
薔薇の前に立つ未希と凛の姿を思い浮かべながら、
その軍手をそっと下駄箱にしまった。
――この一年で、どれだけ大きくなったのかしら。
自然と、もう一度、微笑みがこぼれる。
それから、響香にアンジェラと台所の写真を送った。
「色々見たけど、世界で一番素敵なところは、やっぱりここね。」
と、コメントをいれた。
一方そのころ、伸子の二女・未希は、江別の自宅で、二年前に母と一緒に作った紙芝居を、日本ハムファイターズのロゴが入った青い袋にそっと詰めていた。
人形のキュンちゃんとシマエナガちゃんにも「一緒にいこうね」と声をかけながら、その袋の中へ入れた。
小学1年生になった凛は、お気に入りのバックをもちながら、「北広島で待ち合わせだね」と嬉しそうに言って、お泊りの準備を進めていた。
第1話おしまい
第2話へつづく
【資料ノート】
アンジェラ:1984年、ドイツ・コルデス社による作出のバラ。愛らしいピンクの房咲きが特徴。
出典「初めてのバラ」
著者 松尾祐樹氏:園芸家。「まつおえんげい」四代目。草花からバラまで幅広く精通し、NHK『趣味の園芸』やYouTube「ガーデンちゃんねる」などでも人気。