はじめまして、お父さん ②
「なんだ、いたのか」
リビングで動く人影に、仏頂面の男――和道は声をかけた。
「ん? その声は北か?」
ローテーブルの下にもぐり込んでいた頭がもぞりと動いて、男が顔を出す。黒縁の眼鏡に息を吹きかけて埃をはらうと、片手を上げて旧友を迎えながら、男――優一は苦笑した。
「いたのかとはご挨拶だな、家主なんだからいてもいいだろう」
「ああ、すまない。昨夜の電話で、勝手に入って待ってろと言われたから、留守かと思ったんだ」
「まあな。留守の予定だったんだよ、出かける用事があって。しかし、まあ、ちょっとな」
珍しく歯切れの悪い優一に、和道は首を傾げた。
「どうした?」
「いや、その用事がいなくなったんだ」
「外出の必要がなくなったんだろう? よかったじゃないか。外は暑い」
「いや、そうじゃなくて」
優一は気まずそうに言葉を濁した。
「まあとりあえず座れよ。ここまではどうやって? タクシーか?」
「いや、歩きで来た」
軽い調子で答える友人に、優一は驚いた顔を見せる。
「おいおい、あの坂を赤ん坊を抱いて歩いてきたってのか?」
「ベビーカーがあったから問題ない。このあたりは土地勘がないから、どんな場所なのか知りたかった」
「ベビーカーって……。――大丈夫かよ?」
「暑さにはうんざりしたが、あれくらいの坂道なら平気だ」
「お前じゃねえよ、あすかちゃんだよ」
優一は呆れた顔で赤ん坊――あすかを指した。
「よく知らないが、赤ん坊は暑さに弱いんじゃないか? ベビーカーの方が地面に近いぶん暑いから注意しろと、テレビで言っていたぞ」
そう言うと優一はソファの上に放り出してあった洗濯物をかきわけ、バスタオルを引っぱり出した。そのまま洗濯物を押しのけて、空いたスペースにタオルをひろげる。
「ほら、あすかちゃん寝かせてやれよ。お前とくっついたままじゃ暑いだろ」
「ああ、悪いな」
友人の気遣いに小さく頷くと、和道はバスタオルにあすかを寝かせる。あすかの髪は汗でぐっしょりとぬれていた。
「ちょっと待ってろ、飲み物を取ってくる」
キッチンに向かった優一は、グラスとペットボトルを手にすぐ戻ってきた。
「麦茶でいいか?」
「助かる。ありがとう」
「あすかちゃんには? 赤ん坊ってなに飲むんだ?」
「いや、いい。白湯を用意しているから心配ない」
「そうか」と頷いて、優一はソファに腰を下ろした。あすかを間にして、和道もソファに座る。麦茶を飲み干すと、やっとひと心地ついた。グラスの氷が、からりと涼しげな音を立てる。
「それで、どうした? 何かトラブルがあったのなら手を貸すが」
あすかの額の汗をぬぐいながら、和道が訊ねた。
「家に住まわせてもらうんだ。できることは手伝う」
哺乳瓶の白湯を一生懸命に飲むあすかの様子に目を細めていた優一は、和道の言葉に「ああ、うん、そうだな」と曖昧に呟いた。
困ったように頭をかく友人に、和道は表情を崩さずに深く頷く。
助けが要るなら頼ってほしい。
優一には、恩があるのだ。
二ヶ月前、和道の妻が家を出た。
日曜日の昼下がり。ぐずるあすかを寝かしつけた和道がリビングへ戻ると、置き手紙を一枚残して、妻はいなくなっていた。
慌てて妻の実家に連絡するも、義母に「娘とは金輪際会わないでくれ」とぴしゃりとはねつけられてしまった。以来、何度理由を訊ねても、返答はない。
日頃、職場で冷静沈着と言われる和道も、これにはさすがに途方に暮れた。
しかし、困ってばかりもいられない。現実は待ってはくれないのである。
しばらくは家事と育児をしながらなんとか仕事をこなしていたが、一歳にもならない子どもを抱えての生活は、さすがにつらい。せめて家事代行を頼もうかという話を旧友である優一にこぼしたのが、つい二週間前だ。
困り果てた親友を前にして、「それならうちにこいよ。男手でも二つあったら少しはマシだろ」と優一は笑った。
和道は一分ほど迷って、それから「頼む」と頭を下げた。
見知らぬ他人に頼むより、古い友人の世話になった方が、精神的にはいくらか気楽だ。
「家にこないかと誘っておいてなんだが、話しておかなきゃならないことがある」
気まずそうに口を開いた優一は、哺乳瓶を抱えたままうとうととするあすかを見て、困った顔で顎をなでた。数日前に会った時に見た無精髭は、きれいに整えられている。
「実は、お前たちの他にもう一人、同居人がいるんだ」
「なんだ、恋人か?」
和道が訊ねる。表情にほとんど変化はなかったが、声には驚きがまじっていた。
まじまじと優一の顔を見る。今年四十一になる同い年の友人は、昔からよくモテた。顔立ちが特に美形というわけではないが、飄々と捉えどころのない佇まいと、人あしらいの上手さから、恋愛の相手に不足したことはない。常に仏頂面の和道とは大違いだった。
年上から年下まで、様々な女性が優一のまわりに集まったが、優一は特別な相手を作らなかった。花の間を気まぐれに舞う蝶のように、ふらりふらりと漂う姿は、多くの女性の反感を買い、また、一部の女性の恋心を熱狂的にかき立てるものだったらしい。
しかし、それも二十代の頃の話だ。ここ数年は色事から遠く離れていたはずだがと、和道は首をひねる。いくら鈍感な自分でも、そこまで鈍くはないつもりだったのだけど。
「都合が悪くなったのなら遠慮なく言ってくれ。行くあてなら他にもある」
アパートはすでに引き払ってしまったが、まあなんとかなるだろう。当面はホテル暮らしかもしれないが。
今後の計画を修正しようと、和道は頭の中にノートを開く。それを察した優一が、ため息まじりに首を振った。
「違う、恋人じゃない。弟の子だ。甥っ子だよ、八歳の男の子」
「なんだ子どもか」
頷くと、和道は頭の中のノートをぱたんと閉じた。
「弟の話をしたことはあったよな? 根無し草みたいにフラフラした奴なんだが、つい先週、ひょっこり帰ってきたんだ。息子を連れて」
もう一度、優一は深いため息をついた。
「で、『しばらく預かってくれ』と言って、息子を置いて出て行った。それが二日前だ。まいったよ。役所への届けだの、転校の手続きだの、いつの間にか全部まとめて準備して、俺に押し付けていきやがった。まあ、空き部屋はあるから預かるのは問題ないんだが」
優一がすまなそうに頭を下げる。
「あんまり突然だったからな。部屋だ、服だと用意をしていたら、お前に連絡するのを忘れていた。昨日の電話で伝えてもよかったんだけど、どうせなら直接紹介しようと思ってな」
「そうか」
「伝えるタイミングを逃して言い出しづらかったってのが本音だ。悪かった」
和道が頷く。
「こちらは問題ない。お前の家なんだから、誰を住まわせるのか決めるのはお前だ。居候の身で文句は言わん」
「悪いな、そっちも大変なのに」
もう一度頭を下げて、優一はふうと息をはいた。その拍子にソファが揺れ、あすかがふにゃふにゃと小さく声を上げる。
「その子は、今どこに?」
ポケットから取り出したハンカチであすかを扇ぎながら、和道は訊ねた。
「午前中に学校用品と筆記用具を買いに行く予定だったんだけどな。朝から見当たらないんだよ。おとなしくて頭のいい子だから、勝手に外へ行くことはないと思うんだけどな」
大きく伸びをした優一が、ぽんと膝を打って立ち上がる。
「もう一度、家の中を探してくるよ。坂道で疲れただろうし、もう少し休んでてくれ。飲み物は冷蔵庫にあるから、どうぞご自由に」
「わかった」
頷いた和道に手を振ると、優一はリビングを出て行った。
残された和道は、力を抜いてソファに寄りかかる。見上げた広い天井には、異国風のデザインの照明がいくつもぶら下がっていた。
部屋をぐるりと見回す。優一が両親から引き継いだという家は、古いながらも手入れが行き届いていた。
家全体を包む穏やかな空気に、ほっと息をはき出す。
これからも相変わらず忙しない日々は続くだろうが、一人ではないというだけでも少しは気が楽になったように思う。
からりとした音にテーブルを見ると、グラスの氷が溶けていた。飲み物はご自由にと優一も言っていたし、お言葉に甘えて麦茶をもう一杯もらおうと立ち上がる。
その時、呼鈴の音が部屋に響いた。
寝ているあすかの手がぴくりと動く。
もう一度呼鈴が鳴って、あすかがふにゃあと泣き声をあげた。もぞもぞと動き出した娘を抱いて、和道は足早に玄関へと向かう。騒がしくして、あすかの睡眠を邪魔されてはたまらない。昼寝が不十分だと、なぜか夜泣きが増えるのだ。
ドアを開けると、両手に段ボール箱を抱えた青年が立っていた。先ほど門の前ですれ違った顔だ。幼さは残るが、なかなかに整った面立ちをしている。
段ボールに書かれた〈引っ越しOK〉のロゴマークに、和道はああと頷いた。
「申し訳ない。引っ越し業者の方でしたか」
ドアを大きく開いて、青年を招き入れる。おそらく、例の甥っ子の荷物が届いたのだろう。
「すみませんが、中まで運んで頂けますか? 子どもを抱えているもので」
「へ? あ、はい」
戸惑ったような顔で頷く青年を、家の中へと誘導する。
廊下を通ってリビングまで入っても、青年は荷物を下ろさなかった。段ボール箱を抱えたまま、ぽかんとした顔で立ち尽くしている。
「荷物はドアの横に置いてください」
和道の声に、青年がはっとしたような顔を見せる。
「あの、ぼくは引っ越し業者じゃなくて」
青年――颯人が口を開いたその時、颯人の背後から少年がひょこりと顔を出した。